第十五話 思わぬ衝撃

 何かがまとわりつく感触が左足に這い上がってきた。

 必死に体を動かそうとするが、ぴくりとも動けない。ぞわり、と長いものが蠢く感触だけが足元から伝わってくる。


 もう、ダメだ――


 そう思ったときだ。


 急に身体が動いて、よろめいた。


 縛めが外れたかのように手足が自由になる。同時に、這い上がってくるような嫌な感触がふっと消えた。

 刃を操る硬質な音にハッと顔を上げる。


「飛燕さん!」


 黒装束の長身が、花音を背に庇うように立っていた。


 その足元には、長く黒い物が二つに切断され、のたうち蠢いている。


 黒虎は、いつの間にか消えていた。


「動かずに」

 飛燕は懐から小さな筒を取り出すと、地面に向かって振った。そこから、白い粉が地面に落ちる。

 粉は黒蛇に降りかかり、発光した。


(柊さんがしていたのと同じだ)


 柊は呪痕を消していると言っていた。ということは、これも呪いなのだろうか。


「花音!」


 見れば藍悠皇子が血相を変えて走ってくる。

「無事かい?怪我はない?」

「はい、大丈夫です」

 藍悠皇子はほう、と大きく安堵した。


「よかった…僕たちは華月堂へ行くところだったんだが」

 四季殿を過ぎたところで、花音が立ちつくしているのが見えた。足元には大きな蛇がいるのに、花音は動く様子がない。


「急いで飛燕を行かせたんだが…間に合ってよかった」

 黒蛇の死骸は発光する粉の下でだんだん小さくなっていく。藍悠皇子はそれに目を落とした。

「この蛇は、強烈な毒を持つ。噛まれたら命はない。山奥に生息する蛇で、普通、この龍泉の都で見ることはない」

「…恐れながら、呪術の一種かと」

 静かな飛燕の呟きに、藍悠皇子は頷いた。

「だろうね。さっきの花音は正気を失っているようだった」

「あたし、おかしかったですか?」

「まあね。でも仕方ない。呪術に嵌まると、魂魄が囚われてしまう。正常な思考力や判断力が失われてしまうんだ」


 言われて花音は、ハッとした。


 呪いを掛けた犯人を、コウではないかと疑った。


 そんなことあるはずないと、今ならはっきりわかるのに。


 そう思ってしまったのも呪術の成せる業なら、本当に恐ろしい――花音は、自分の肩を抱いた。


「あたし…ほんとに呪われているんですね……」


「ほんとに、って」

「今日、二度目なんです。こういう怖い事が」

 藍悠皇子はほっそりとした顎に手をあてて、眉をひそめた。

「心当たりは?」

 花音は強く首を振った。

 文殿の時のように、どこぞでヘマはやらかしているかもしれないが、恨まれるような覚えはない。

「そうか…。とにかくこの場を離れよう。飛燕、呪痕を始末してくれるか」

「かしこまりました」

「ついでに、周囲を探ってくれ。呪いを施した者が近くにいる可能性がある」

「はい。ですが、藍悠様は」

「僕は先に華月堂へ行っている。花音、一緒に華月堂へ戻る?」


 少し迷って、花音は頷いた。


「では行こう」

 藍悠皇子はその長い指で花音の髪を撫で、優しく花音の手を取った。

「震えているね。大丈夫、僕がついているから」

 紫玉のような瞳が、優しく花音を見つめる。


 けれど――


 口の中に、ざらりとした苦いものが残っているような感触が拭えない。

 一体誰が、何のために、花音を呪うのだろう。


*


「まあ花音!どしたの?!」

 花音を見て眉を上げた伯言は、付き添う藍悠皇子を見てさらに驚き、すぐさま揖礼した。

「いかがなされましたか、殿下。このような刻限に」

「伯言こそ、黄昏時に可愛い女の子を一人で帰すなんてダメじゃないか。怖い目に遭ったようだよ」

 伯言は花音を覗きこむ。

「あんた、もしかしてまた」

「……なんか、ほんとうに呪われてるみたいです」

 はあ、と溜息を吐いた伯言は、花音と藍悠皇子を事務室へ誘う。


 先刻と同じように白湯を出してもらって飲むと、身体の中で澱んでいたものがすっと消えるような、そんな心地がした。


「大丈夫?」

「はい、気分よくなりました。やっぱり華月堂のおかげでしょうか」

「華月堂のおかげ?なに?それ」

「花音は仕事人間でして。華月堂に来ると気持ちが晴れるのだそうですよ」

 伯言がすかさず言った。


(伯言様…なんで隠すのかしら)

 華月堂が、邪悪なものを祓うように設計された場所であることを。


 そんな花音の思考もよそに、伯言はところでと切り出した。

「殿下は、なぜこちらへ?」

 藍悠皇子は、懐から紺色の本を取り出した。


「父上が『五国正史』をお読みになる理由が、分かった気がする」


 伯言が居ずまいを正した。

「それはよろしゅうございました。本をお貸ししたことがお役に立ててなによりです」

「伯言の意見を聞きたくてね」

 薄っすらと化粧を施した美麗な顔が上品に笑んだ。

「それは身に余る光栄にございますが、閑職と悪名高い蔵書室官吏の意見など参考になるかどうか…」

 藍悠皇子はゆったりを長椅子の背もたれに寄り掛かり、伯言に負けず劣らず優雅に笑んだ。


「またまた謙遜だな。鳳家の隠し宝刀と言われたあなたなのに」


「?」

 花音は意味がわからず、伯言を見る。

 伯言は薄く笑んだ表情のままだが、場の空気が一瞬だけ――ほんの一瞬だけ――張り詰めたのは気のせいだろうか。


「鳳、という姓は、この龍泉の都には意外と多うございますよ。どなたかとお間違いでは」

 藍悠皇子は声を立てて笑った。

「いやだな、僕に隠し事はできないって、あなたならわかっているでしょう。しかし、さすがと言うべきか、蔵書室官吏とはうまいことを考えたね。政とはかけ離れた役職だから、名簿に名があったとしても誰の目にも留まらない。でも、ここは後宮の内で、ある意味皇宮内の情報がいちばん入手しやすい位置にある」


 藍悠皇子はなぜか、嬉しそうな顔をしている。

 まるで、思わぬ宝物を見つけた子供のように。


「殿下、お言葉ですが、やはりどなたかとお人違いなさっているのでは…」


「あれ?僕を味方にした方がよくない?あなたが名を偽り、宦官じゃないのに後宮で働いてることが明るみに出たとき、僕なら誤魔化してあげられるけど?」


 衝撃的な発言に、花音は思わず伯言を見た。


「え、え?名を偽る?ていうか伯言様、宦官なんじゃあ……」


 花音の問いかけには答えず、伯言は優美に笑んだまま。


 ふ、と首を振った。

「ああ、やはり、殿下には隠し通せなかったですね」

「ふふ、降参してくれる?」

「はい。降参いたします」

 伯言は大仰に頭を下げた。藍悠皇子はそれを満足そうに見てにっこり笑む。

「嬉しいよ。僕には味方が少ない。かつて大学では並ぶ者がない秀才と謳われ、必ず国を支える人物になると目されていたあなたが味方になってくれたら、千人の俊英を従えたのも同然だ」

「それは少々、買いかぶりすぎというもの…して、殿下はこの私に、何をさせたいのでしょう。亡き皇后様御遺言の儀は、既にお受けしておりますが」

 藍悠皇子は、その紫瞳を眩しそうに細めた。

「わかってるくせに……いろいろ、お願いしたいんだよ。まずは手始めに」

 そう言って、花音の肩を抱きよせた。


「あなたの部下を、我が専属女官に欲しいな」


 これには伯言も驚いた様子で、わずかだが目を瞠る。

 花音は白湯の椀を取り落しそうになり、やっと落ち着いた心臓が再び跳ね上がった。

「…それは、私には決めかねることにございます」

「なぜ?後宮内での女官の処遇は、基本その上司が決めていいはずだけど?」

「そうですが、彼女は官吏です。厳密にいえば、とは立場が異なるかと」

 とは、早い話が、後宮内で働いており、機会があれば帝や皇子の御手付きになってもいい女官だ。


 後宮にいる女官はすべてがその可能性を持つが、官吏であれば話は別だ。


 藍悠皇子は少しムッとした様子で言った。

「なら、管轄の尚書にでも申請すればいいの?」

「それはそうでございますが…殿下に何かやりたいことがおありなら、今は動かぬ方がいいのでは」

 伯言は穏やかに笑んだまま藍悠皇子をじっと見た。

「女性問題は、思わぬ足を救われかねません。特に、殿下の現在の状況では」

「…ちょっと腹が立つけど、伯言の言う通りだね」

 藍悠皇子は溜息を吐き、花音を一層強く抱き寄せた。


「でも、花音は僕のものだからね。もう結婚の約束もしたんだ」


……え?


 えええええ?!


「いや、あの殿下、約束はしてないですよ?!」


 確かに、結婚してとは言われたけど!


 言われたけど、それは一時の戯れでは?!


「ひどいな花音、あの藤棚の下で…僕を弄んだのかい?」

 潤んだ瞳で見つめられ、花音はう、と言葉に詰まる。

「……花音?」

 伯言が胡乱げな目でじっとりと睨んでくる。

「ち、違うんです伯言様、これにはワケが――」

 伯言は引きつった笑みを浮かべた。

「まあまあ殿下、その話はいずれごゆっくり。白官吏は私の部下ですし、私が殿下のために働くとなれば一緒に動きますゆえ、いつでもお会いになれますよ」

「うん、そうだね」

 藍悠皇子は納得した様子で頷く。

「じゃあ、伯言。今から僕を名で呼ぶことを許す。僕の『臣下』になった証として。いいね?」


 伯言は藍悠皇子の前に膝をつき、深く揖礼した。

「御意に。藍悠様」


「花音も」

「へ?あ、あたしですか??」

「そう。今から僕を名で呼んで。いいね?」

「は、はい…」


 皇族を名で呼ぶことは不敬とされている。

 いきなり名で呼べと言われても。


「ね、じゃあ花音、名で呼んで?」

「え?今ですか?」

「そう。早く」


 見上げると甘えるような藍悠皇子の顔が、すぐ近くにある。伯言がコホンとわざとらしい咳払いをするが、藍悠皇子の手は花音から離れない。

「花音が僕を名で呼んでくれたら、手を離すよ」


(そ、そんなーっ)


「えー…ら、らら、らん…」

「え?何?聞こえないよ?」

 さらに接近してくる藍悠皇子は、花音をからかって遊んでいるとしか思えない。


 伯言が呆れた溜息をついたところに、扉に訪いが入った。


「どうぞ」

 伯言が腰を上げると、飛燕が入ってきた。

 その様子に、藍悠皇子の顔色が変わる。立ち上がり、飛燕に言った。


「その者は?」


 飛燕は片手に縄を持っており、縄には悄然とした様子の少女――花音と同じくらいの――が繋がれている。


「白官吏を呪った者だと思われます」


 花音は思わず立ち上がった。

 高級そうな襦裙は泥で汚れ、簪を差して結っていた髪も乱れている。その俯いた顔を、穴の開くほどよく見たが――


 まったく、見覚えのない少女だった。



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