第十四話 忍び寄る影

「この建物はね、本をあらゆる不浄のモノから守るように作られているの」


 コウが華月堂を出たあと、伯言が言った。


「花音!オレと一緒に東宮に戻れっ、巫術師に呪いを祓わせる!」

「殿下、お静かに。お戻りの時間でございます」

 コウの叫び声と氷のように冷たい柊の声は次第に遠ざかっていく。


 それに苦笑しつつ、伯言は続けた。

「本には、念がこもりやすいの。恨みや妬み嫉み、後宮ではそういう負の感情が凝りやすい。そういうものから本や華月堂ここに訪れる人たちを守るための術が施されているそうよ」

「そうなんですか…」

 この古びた建物にそんな秘密があったとは。

「だから安心してフツーに働きなさいね♡」

「へ?」

「明日からも普通に出仕して大丈夫ってこと。華月堂にいた方がむしろ身が清められるわよ~それに、まだ本の修繕も終わってないし」


 ふふん、と不敵に笑む伯言。


(要は明日も仕事しろってことね…)

 花音は大きく息を吐いた。明日は寮の寝台で一日中寝ていられるかも…という淡い夢は、一瞬にして消え去った。



 とはいえ呪いの瘴気をバカにしてはいけない、帰って休め、と伯言が言うので、花音は終業前に女官寮へ向かった。

 華月堂を出ると、むっとした空気に思わず顔をしかめた。

 湿気を含んだ空気が全身を取り巻く。

「雨降るのかな。さっきまで、あんなに晴れてたのに。初夏の天気は変わりやすいなあ、もう」 

 ぶつぶつ言いながら、花音は女官寮への道を急ぐ。

 四季殿の壮麗な殿舎が立ち並ぶ場所まで近づいたとき、ふと思った。

(あたし、誰に呪われているんだろう?)

 恨みを買うようなことをした覚えはない。

 かと言って、四季殿の貴妃たちのように嫉妬したり嫉妬されたりするような立場でもないし、そもそもそういうのは帝や皇子の寵愛があってこそ――。


 花音の足が止まる。


 藍悠皇子は、花音に「結婚しよう」と言った。


「ま、まさかぁ、あれは冗談、ほんのお戯れだし」

 自分で自分の思考にツッコミを入れるが、どんどん不安になってきた。


 他に、思い当たることがないのである。


「でもでもっ、あの場には誰もいなかったわけで――」

 あそこは東宮だ。許可された者しか立ち入れない場所だ。

 藍悠皇子の求婚を誰かに聞かれた可能性は考えられない。


「……あ」

 花音は、思わず呟く。

「コウ……」

 あの時、途中でコウが乱入してきたのだ。

 

 部外者は、それしかいない。


 黒百足が落ちてきたときも、一緒にいたのはコウだ。


「そんな、まさか」

 コウが花音を呪うなんて、考えられない。

「そうよ、理由もないし…あたしってばどうかしてる」


 色恋沙汰にも恨みや嫉妬にも縁のない、いたって穏やかな――言い方を変えれば干からびた生活をしているのだ。


 本が人生、そんな毎日。

 そして、それが花音の望んでいることだ。


「そうよ。何も悪い事してないし。堂々としてればいいわ」

 そう思い直してどかどか歩き出し――花音はふと後ろを振り向いた。


 誰もいない。


「なんか、おかしいのよね」

 背中にねばっとまとわりつくような、この感じ。

 武官長から気を付けろ、と言われたことを思い出し、よくよく周囲を見回す。誰もいない。何もない。


――


 花音はハッとした。四季殿の手前、汚れ一つない純白の玉砂利に大理石の石畳が続き、飾り灯籠が並び、そこかしこに花が咲く美しい風景。その風景までもが、ない。


 雨が降りだしそうな薄暗い空気の中、花音だけが立っている。


 いや、何かがこちらに向かって近付いてきた。


 目を凝らす。黒い点が、だんだんと大きくなる。

 その正体に、花音は思わず声を上げそうになった口を押えた。


(虎、だわ)


 本で見たことがある。

 大きな体躯はゆうに人間を超え、時に人をも喰らうと言われる大型の肉食獣。

(だけど……)

 花音が絵図で見たことのある虎は、黄金色に黒い縞模様の入ったものだ。

 目の前に近付いてくる虎は、黒い。

 闇のように黒いのに、それが虎だとなぜだかわかる。


 黒虎は、黄緑色に光る目で花音を捉え、にたあと嗤った――ように見えた。


 逃げなくては――そう思ったが、足がすくんで動けなくなっていた。


 黒虎は、花音の前に立ち止まり、大きく顎を開いた。

 そこから、咆哮と共に、大きな蛇が這い出てくる。

「い……いや……」

 漆黒の蛇は、身体をくねらせ真っ直ぐに花音に近付いてくる。

 真っ赤な舌をちろちろをのぞかせ、花音の裙の裾を確かめると、足元に這い上がってきた。


 誰か、助けて――


 声にならない声で花音は叫んだ。

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