第十三話 『五国正史』が示すこと

 花音を抱き、華月堂に駆け込んできたコウを見て、伯言はすぐに何かがあったと悟ったらしく、何も言わずにテキパキと動いた。

 応接用の長椅子に花音を座らせ、衝立の向こうから湯呑を持ってくる。

「白湯よ。飲みなさい」

 冷え切った手に湯呑の温かさが染みた。花音は、ゆっくりと夢中で湯呑を傾けた。

 その様子を見つつ、伯言がコウに頭を下げる。

「部下が、お世話をおかけいたしました。皇子殿下は大事ありませぬか」

「ああ。オレはなんともない」

 物問いたげな伯言の前に、コウは懐から西虎国の護符を出した。

「黒百足が出た。すぐにオレが処分した。呪痕は護衛の者に始末させた。おそらく、これが原因だろうと思う」

「やはり…」伯言が苦そうな顔をする。

「やはり、とは?」

「私も、これと同じ物をさる女官からもらったのです。この紋章には見覚えがありました」

「ほう。これはなんだ」

「五国の一つである、西虎国の守護神は白虎神でございます」

「そんなことは知っている」

「白虎神には、二つの顔があるという古い伝承がございます」

「二つの顔…なんだそれは」

「一つは白き虎。善良で無垢で慈悲深い、民の心を具現している。もう一つは黒き虎。野心あり狡猾、民の罪を具現している――その二つが一つになって白虎神は完全な姿を現すという伝承にございます」

「この紋章が、白虎神のものだと?」

「いいえ、黒き虎を象った紋章かと思われます。伝承には、黒き虎は欲望のままにその聖なる力を使い、大御神の怒りを買って封印された。その封印場所には印が彫られている、と。その印が、これによく似ているのです」

 伯言は自分の卓子へ行くと、一冊の本を持ってきた。


 紺色の、見覚えある装丁。


 コウが目を瞠った。

「『五国正史』!まさか」

 伯言は頷くと、仄かに香が薫るしおりを挟んだ項を開く。

「これにございます」


 そこには、周囲を茨の棘に囲まれた獣の顔のような絵が描かれている。

 獣の顔は苦悶に歪んでおり、それが茨の棘と相まって複雑な柄の紋章に見える。

 それは、護符に印刷されているものとよく似ていた。


「聞くところでは、まじない道具として女官の間で流行っているとのこと。龍昇国から出たことのない、本すらほとんど読んだことのない女官たちの間でこのような物が流行るということは、誰かが意図的に持ち込んだとしか考えられないのです。帝、もしくは皇子殿下にご報告を、と思案していたところでしたが…」

「一介の蔵書室官吏にしては鋭いな、伯言」

「恐れ入ります。お褒めの御言葉として、お受けいたします」

 慇懃に頭を垂れた伯言にコウは顔をしかめながらも訊ねる。

「出所はわかっているのか」

「いえ。そこまでは、まだ」

「凛冬殿だ」

 今度は伯言が軽く眉を上げた。

「凛冬殿。では、袁鵬様は」

「さあな。袁鵬の差し金なのか、袁鵬のツテで紛れ込んだのかわからんが、その怪しげな紙きれの出所は雲母という凛冬殿専属医師だ。気に入らないのは、黒百足が出たのが、凛冬殿を出てすぐってことだ」

「そうでしたか…」

 伯言は花音をちらと見た。花音は、湯呑を手で包んだまま俯いている。

「花音。大丈夫なの?」

「はい、もう落ち着きました」

「そんな作り笑いしちゃって。さすがのあんたも瘴気にあたったようね」

「はは…でも、なんか華月堂に来てほんとにラクになりました」

 花音は、いくらかよくなった顔で今度はにっこり笑った。

「息苦しかったのも治ったし…不思議。華月堂効果かな、なんちゃって」

「そうよ。この華月堂は守りの建物として設計された聖堂なの」


 花音とコウは、同時に伯言を見た。伯言は得意そうにそ知らぬ顔をしている。



 古ぼけた木柱の影で、唇を噛む少女がいた。

「口惜しい……もうちょっとで呪いが成就するはずだったものを……!」

 少女が握りしめているのは――黒々とした紋章の描かれた、小さな紙片。西虎国の護符だ。

「いい――まだ機会はあるはず。必ずやあの御方を取り返してみせる」

 にやり、と口の端を上げた少女の顔。


 それは、その少女を知る者が見たら、同じ人物だとは気付かないかもしれない。

 いや、ヒトだとも思わないかもしれない。


 少女の上がった口の端からは牙がのぞき、頭には黒い獣耳が生えていた。



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