第十一話 凛冬殿

「呪殺?!」

 思わず叫ぶと、隣室から茶器一式を運んできた柊が静かに首を横に振った。

「白様。あまり過激なお言葉はお控えくださいますよう」

 柊は卓子の上に茶器を並べ、茶を淹れる。

「白様も御存じかと思いますが、現在、後宮には緊張した空気がありますゆえ」

 含むような言い方。はっきりと口にはせずとも、何のことかはすぐにわかる。

(皇位継承問題のことよね…)

 そのことは、花音も伯言や三葉から聞いて知っていた。


 そのせいで、藍悠皇子やコウが常に見張られ、誰が敵か味方かもわからない孤独な状況にあることも。


 なので、柊の言葉に心の底から申し訳ないと思った。

「すいません…」

「いえ。出過ぎたことを申し上げました」

 柊は完璧な揖礼をすると、隣室へ下がっていった。

「柊があんなにしゃべるなんて珍しい。ま、実際ぴりぴりしてるからな、オレの周りは。護衛だから、疲れもあるだろう。許してやってくれ」

「いえ、そんな」

「そんなにしょげるな。まあ茶を飲め。せっかくだから、冷める前に」

 勧められて茶器に口を付けると、ほんのりとした甘みと鼻をぬけるような爽やかな香りに思わず感嘆の声を上げた。

「…美味しい!これ、なんのお茶ですか?」

「んー…ああ、薄荷ハッカだな。蜂蜜を混ぜているんだろう。薄荷には鎮静作用があるからな。オレがジジイ共と話して疲れたって言ったから、柊が気を利かせたんだろう」

 コウも美味しそうに茶器を傾けた。


 普段は粗野なように見えるが、こうして茶を飲む何げない仕草にも品があり、やはり貴公子なのだと思わせる。

 加えて、今日のコウは髪もきちんと結い、冠も戴き、非の打ちどころのない出で立ちをしている。

 それが精悍な顔の稜線や端麗な目鼻立ち、宝石のような紫瞳を一層完璧なものにしていた。

(ほんとに皇子様なんだなぁ…)


「ん?なんだ?」

 急に上目遣いで見られて、花音の心臓は跳ね上がる。

「べべべつに、な、なんでもないわよ、ないです!」

 しどろもどろな花音にコウは首を傾げる。

「どうした、あんまり茶が美味くておかしくなったか?」

「おかしくって、し、失礼ねっ!そんなことないわよっ…いやっ、お茶は本当にとっても美味しいんだけど…」

 余計にしどろもどろな花音を笑って、コウは一杯目を飲み干すと、卓子の上の護符を指の間に挟んだ。

「呪殺っていうのは『呪うまじな』という意味が強い。これには文字通り命を奪う、という意味もあるが、魂や心、もしくは相手の一部を害するという意味合いの方が強い場合もある。この紋章を見た本にも確かそんなことが書いてあったと思う。つまりは嫌がらせ、だな」

「嫌がらせ……」

「古今東西、そういった『呪い』の書物は多い。人間ってのは、争わずには生きていけないものらしいからな。血のつながった家族同士でさえも」


 それを聞いて花音はドキリとする。

 藍悠皇子のことを言っているのだろうか。


「ところで花音、これをどこで手に入れたんだ」

 花音は、伯言や三葉に聞いた話をコウに聞かせた。

「後宮の女官の間で流行ってる、か」

 コウはうーん、と顔をしかめる。

「四季殿のいずれの医師、っていうのが気になるな…」

「心当たりでもあるの?」

「四季殿の医師は皇族とも関わることがあるんで、推薦された確かな身元の者の中から帝が選ぶ。だから、皇族は四季殿の医師についてはよく知っているんだ。こんな怪しげなものを持ちこみそうな者はいないんだが…」

「だが?」

「少し前、凛冬殿の医師が前任者の体調不良を受けて交代したと聞いた。新任者にはオレはまだ会ったことないから、どんな者か知らない。知らないってだけで怪しむ理由にはならないんだが」

 コウは護符を懐に入れて立ち上がった。

「この紙きれが護符なんていうありがたいものじゃないっていうのが、オレの直感だ。だから、今からその医師に会いに行く」

「ええっ、今から?!」

 隣室から、影のようにそっと柊が出てきた。

「お供します」

「おう、花音を送るついでだ。凛冬殿に行くぞ」

「かしこまりました」

 珍しくきちんと着た紅錦の裾を翻し、コウはさっさと部屋を出ていく。

「白様も、どうぞ」

 促され、花音は慌ててコウの背中を追った。


 新緑が目に眩しい中庭を巡る回廊を、コウはどんどん歩いていく。てっきり東宮の玄関に向かうと思っていた花音は慌てた。

「ちょ、ちょっと!」

 コウ、と言いかけて言葉を飲み込む。後ろには柊がいるし、吉祥宮ほどではないにせよ、皇族の御座所だけあって回廊にはさまざまな仕事をしているのであろう人々が行き交っているからだ。一括りに東宮侍従というのだろう。ここで皇子殿下を呼び捨てにするわけにはいかない。

「東宮からは、四季殿へ直接行ける回廊があるのでございます」

 花音の心の中を読んだかのように柊が後ろから言った。

「御庭園を渡り、爽夏殿と凛冬殿の北側へ出ます。私の後ろへお付き下さい。お付きの女官だということで御一緒に参りましょう。華月堂へはその後、お送り致します」

(ええっ、四季殿に行くの?!あたしも?!)

 しかし口調は穏やかだが有無を言わさぬ柊の言葉に、花音はただ頷くしかない。

 四季殿は、吉祥宮の中心。貴妃の住まう、豪華絢爛な場所。花音のような一尚官の行くような場所ではない。以前、七穂のことで清秋殿の近くを通ったことがあったが、それだけでも緊張するような場所なのだ。

 そんな花音の心中などおかまいなく、コウも柊も颯爽とした足取りで進んでいく。花音は深い溜息をつきながらも後ろに付いて歩いていくしかなかった。



「これはこれは、急な御渡りで……」

 凛冬殿の女官長らしき人物はにこやかに応対したが、明らかに動揺しているのがわかった。

「実はその、冬妃様は昼餉の最中でして」

「よい。急に来たのはこちらだ。何も気にするな。もてなしもいらぬ」

「はあ……」

 困ったような笑みを返す女官長にコウはさらに言った。

「今日は冬妃に会いにきたのではない。凛冬殿ここに新しくきた医師に会いたい。まだ、顔を見てなかったのでな」

 冬妃に会いにきたのではないと言われて複雑そうな表情をしながらも、女官長はしばしお待ちを、と奥へ入っていった。

 紅壮は応接室をぐるりと見回してニヤッと笑った。

「へえ。派手好きな袁鵬の娘だからどんなシュミかと思ったら、けっこう落ち着いてるんだな」

「紅壮様」

 柊にたしなめられ、コウは肩をすくめる。

「朝廷随一の権力者、大貴族袁家に購えない品はないだろう。しかも、父親があの派手好きだ。凛冬殿はさぞシュミのイイ殿舎に改造されてるだろうと思いきや、これは娘の冬妃がしっかり者らしいな」

(しっかり者……)


 胸がつきりと痛む。

 満足そうに部屋を見回すコウから、目を逸らしてしまう。


 そんな自分の挙動を疑問に思っているところに、先ほどの女官長が慌てた様子で戻ってきた。

「殿下。申しわけありませぬ、雲母医師が、見当たりません。おそらく、薬草を取りに厨へ行っているのではないかと思われますが――」

「そうか。雲母というのか、その医師は」

「はい」

「わかった。出直す」

 コウはあっさり言うと、恐縮しきっている女官長を筆頭にした女官たちを残して凛冬殿を後にした。

 しばらく歩くと、花音も知っている美しい玉砂利が敷かれた通りに出た。四季殿の

中心を貫く大通りだ。

 すれ違う女官たちが目をまん丸くした後、石畳みに平伏していく中をきまり悪く思いながら足早に通りぬけ、いつのまにか華月堂にほど近い閑散とした場所に出ていた。


 急にコウが立ち止まり、背後の柊に低く呟いた。

「…どう思った」

「怪しいかと」

「ふん、やっぱそうだよな」

 コウは嫌そうに顔をしかめる。

「何?どういうこと?」

 思わず花音が聞くと、コウは花音を側に呼び囁いた。

「さっきのは嘘だ」

「嘘?何が?」

「凛冬殿に雲母とかいう医師がいないってことがだ。医師は、その殿舎の妃が食事中は必ず同席するか、殿舎内にいるはずだからだ」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る