第九話 陸健誠
後宮厨を後にした花音は、東宮に向かって歩いていた。
後宮厨は四季殿の南にあり、東宮へ抜ける吉祥門は四季殿の北、吉祥宮の東壁の最北端にある。
そのため、後宮厨から東宮へ抜けるには、東壁のつきあたりをひたすら北上するのが近道である。
ここは役人――後宮なので皆宦官だが――がよく通る道でもある。
四季殿の真ん中を通らずに東宮や帝の御座所である太極宮金剛殿へ行ける道だからだ。
なので、吉祥宮の隅とはいえ、人の往来はけっこうあった。
(後宮厨でけっこう時間くっちゃったな)
戦場のような忙しさの厨で、女官たちを探して本を渡すのに時間がかかった。
女官たちにはとても喜んでもらえたが、昼前にはコウに『五国正史』渡さないと、また伯言の機嫌を損ねてしまう。
そんなわけで、花音は平包にくるんだ『五国正史』を抱えて、小走り気味に歩いていたのだが。
「これは白殿」
抑揚を欠いた、しかし人を拘束するような低い声に思わず顔を上げて、慌てて頭を下げた。
「武官長様!ご苦労様です」
そんな花音に対し、まったく表情を変えずに武官長は軽く頭を下げた。
「その節はお世話になり申した」
少し前、武官長が困っているところを助けたことがあった。古文書古語の解読という、花音的にはお安い御用な仕事だったのだが、よほど助かったのか会うたびに礼を尽くされる。
『暗赫』と呼ばれ恐れられる内侍省の武官。その武官を束ねる長に常に頭を下げられると、かえって恐縮してしまう。
「いえ、そんな――」
言いかけて、花音は武官長の後ろ、四方を内侍省武官に囲まれたに小さい人影に気付いた。
「あなたは……!」
衝撃告白の眼鏡男子だ。
眼鏡男子は驚いたようだが、もっと驚いたのは花音だ。
(後宮は、宦官を覗いて男子禁制なはず…ていうか、宦官なのかしら??)
花音の心の声に気付いたのか、武官長が軽く咳払いして言った。
「我らは、この方の『護衛』を仕っている。凛冬殿まで、お送りする故」
「凛冬殿?」
この少年、こう見えて貴妃と血縁関係のある大貴族なのだろうか。
しかし、大貴族であっても、男性はよほどの事情がない限り後宮には入れないはずだ。
「無論、後宮は本来男子禁制。それゆえ、太極宮及び東宮に許可を得た上で、凛冬殿の冬妃様が陸殿を招いたのだ。学問の講義のため」
「講義、ですか?」
「さよう。しばらくは後宮に通われる。その間、我らが『護衛』を担当させていただいているのです」
「そうだったんですか」
花音はなるほど、と思った。『護衛』を称した見張りだ。
しかし、それならば、昨日は暗赫の目をかいくぐって華月堂へ来たことになる。
そんな度胸がこの内気そうな少年にあることに花音は驚いた。
それに、凛冬殿に招かれているとは、どういうことなのだろう。
「学問の講義って……その方がされるのですか?」
「白殿は御存じないのか。こちらの陸健誠殿は先年、官吏登用試験を首席で合格され、また以前より神童と名高く、その名声はこの龍仙の都まで届いていたほどの才人」
「そ、そうなんですか?!」
花音はただただ驚く。この小柄で内気そうな少年――陸健誠というらしい――が、神童とか才人とは。
眼鏡男子は真っ赤になりながらも居ずまいを正して頭を下げた。
「き、きのうは失礼しました。名乗りもせず…」
(そういえば)
この少年がどこの誰かも知らない花音だ。
「僕は礼部に所属しております、陸健誠と申します」
少年は生真面目そうにお辞儀をした。
花音と少年こと陸健誠のやりとりを見ていた武官長が片眉を上げた。
「失礼だが、陸殿は白殿とお知り合いで?」
「しし知り合いというか……」
陸健誠は真っ赤になってどもっている。
(もうバカっ、華月堂に来たことがバレたらまずいじゃないっ)
才人は、器用な嘘をつくのは苦手らしい。花音はなるべく平静を装って答えた。
「昨日、仕事に必要な本を鳳凰閣で融通していただいたんです」
嘘ではない。
(皇族の命令に従うのは立派な「仕事」よねっ)
そう自分に言い聞かせて澄ましている花音を、武官長は細い眼でじいっと見てくる。
「ほう…」
(こ、こわいっ)
以前も、花音がコウを匿っていたことに気付いた武官長である。
花音は小脇に抱えた平包にぎゅっと力を入れた。
「い、いやー、きのうは本当に助かりました、陸殿。おかげでお役目果たせそうです。武官長様も、ごきげんよう。では、あたしはこれで――」
そそくさと立ち去ろうとする花音に、「待たれい」と武官長が言った。
「な、なにか?」
冷や汗をかきまくっている花音は、気が気でない。
しかし、そんな花音の心配をよそに、武官長は低い声で呟いた。
「御身の背後、気を付けられよ。なにやら不穏な目が」
「え……?」
その顔は、変わらず能面のように無表情だが、心なしか気遣ってくれる色が見える。
「では、我らもこれにて失礼する」
武官長は軽く頭を下げると、歩き出した。
「あ、ありがとうございます」
頭を下げつつ、花音はそっと背後を振り返る。
陸健誠は名残惜しそうにこちらをちらっと見ている。武官たちは変わらずの無表情で立ち止まりそうになる陸健誠をさり気なく促して歩いていった。
「背後…」
歩いてきたのは、後宮厨から東壁までの並木道。
四季殿の周辺のように植物や装飾などで美しく整えられているわけではないが、若葉が美しい木々が心地よい影を作り、そこを女官や下働きの者たちが行き交っている。
後宮の裏手にはよく見られる、日常の風景だ。
「…気のせいよね」
花音は、再び小走りで東宮に向かう。
しかし花音も、気になっていたのだ。
昨日から、誰かに見られている――ような。
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