第八話 西虎国の護符

「あれ?」

 花音は、卓子を拭いていた手を止めた。


 朝、出仕してすぐに棚や卓子を拭くのは花音の仕事だ。

 いつも通り伯言の卓子を拭いていると、化粧箱の下に何やら小さな紙が挟まっている。


 それは、見覚えのあるものだった。


 蔵書室から戻ってきた、蒼碧の深衣姿に声を掛ける。

「伯言様、これ、どうしたんですか?」

 ああそれねと、伯言は書類を整えながら言った。

「本の返却にきた女官にもらったのよ。最近、女官のあいだで流行ってるんですって。願いが叶うおまじないだそうよ」

「願いが叶うおまじない…」

 花音は、懐から小さな紙を取り出して伯言に見せた。


 伯言の卓子にある紙と同じ、奇妙な紋章が描かれた紙だ。


 伯言と花音は、顔を見合わせた。



「すごい効き目があるんだって」


 昨夜の後宮食堂。


 夕飯の汁麺をすすりながら、陽玉が小さな紙を花音に渡した。

「その護符に願いごとを書いて肌身離さず持ってると、叶うらしいよ」

「ふうん…」

 花音は掌の大きさほどのそれを、しげしげと眺める。

 花音自身は呪いや迷信をあまり信じないので、ただの紙切れにしか見えない。

 ただ、紙に黒々と描かれた紋章が気になった。

「この紋章、なんだろう?」

「白虎神だそうよ」

「白虎神って…西虎国の守護神の?」

「なんでも、四季殿のいずれかにお仕えしているお医者様が西虎国の御出身だそうで、西虎国でよく効くって言われている護符をお持ちなんですって。あたしたちみたいな下々の女官にも、お願いすれば薬と一緒にくれるんだそうよ」



「…というわけなんです」

 花音の話をじっと聞いていた伯言は、指の間で弄っていた小さな紙を検分するようにじいっと見た。

「白虎神…言われてみれば確かにこんな紋章だったかしらねぇ」

 伯言にしては珍しく、歯切れが悪い。

「何か気になるんですか?」

「うーん…まあねぇ」

「?」

 不思議に思いつつ、花音はコウに約束していた『五国正史』のことを思い出し、立ち上がった。

 先手を打ってこちらから届けた方が文句を言われずに済むだろう。

「伯言様、あたし、ちょっとお届けものがあるので東宮へ行ってきます」

「え?ああ、わかったわ」

 昨日の藤の花見のことなど、東宮と言ったらいろいろツッコまれると思ったが、伯言はうわの空で蔵書室へ行ってしまった。

「どうしたのかしら伯言様…」

 気にはなったが、とにかくコウへ『五国正史』を届けなくてはなるまい。

「あっと、それから」

 後宮厨の女官たちに見繕った本も一緒に平包にくるみ、しっかりと背負った。

 歩きつつ、白虎神だという紋章をもう一度しげしげと眺める。

 子どもの頃、御伽噺の類で白虎神を見たことがあった。

「それとは、ちょっと印象が違うような……」

 小さい紙に小さく描いてあるからだろうか。過去の記憶とあまり重ならないような気がする。

「後で調べてみようかしら」

 護符を懐にしまい、花音は急いで華月堂を後にした。

 今日は普通に襦裙姿なので、チリひとつ無い白い玉砂利と磨かれた石畳の上を歩く。

 しばらく歩いて、花音はふと後ろを振り返った。

「……気のせいかな」

 気を取り直して、先を急いだ。



 先に、後宮厨に寄った。

 まだ午前中だというのに、厨は戦場のような忙しさになっていることに花音は圧倒された。華月堂とは大違いだ。

 おそるおそる裏口に立っていると、忙しく行き交う女官の一人が声を掛けてきた。

「あなた、華月堂の!」

 本を配達することになっている女官の一人だ。

「お約束した本を持ってきたんですが、なんだかすみません」

 花音が申し訳なさそうに言うと、女官はいいのいいのと花音を連れて薪の積んである場所へ行った。

「厨はさ、一日の仕込を午前中にやるから、まあ朝は毎日あんな感じよ。気にしないで」

「はあ……」

「それより、こんなに早く持ってきてくれるなんて、陽玉が勧めてくれた理由がわかるわあ」

 嬉しそうに笑うので、花音もホッとして平包を解いた。

「確か、いろんな場所に行ってみたいって言ってましたよね。だから旅行記を持ってきました」

 花音は本の中から『瀧のゆくすえ』という本を出した。

「たきのゆくすえ…?えー、難しそう」

「いえいえこれは、ある老学者が国中を旅してその土地の美味しいものを食べる、旅行記であり食紀行なんですよ」

 ぱらぱらと本をめくった女官の顔が、だんだん綻ぶ。

「わ、ほとんど簡易文字で書いてある!これならあたしでも読めるかも」

「そうなんです、読みやすさもこの本の特徴なんですよ」

「花音っていったっけ?ほんとありがとう!今日は鍋番だからさっそく読むよ!あ、そうそう」

 女官は本を大事そうに懐にしまいつつ、何かを取り出した。

「これ。マジで効くからあんたにもあげる。あたしは『つまらない仕事が楽しくなることが起こりますように』って書いて願ったら、叶ったもんね」

 女官は懐の本をぽんと叩いて、ありがとうと言いながら走っていってしまった。

「これって……」

 花音が渡されたのは、あの白虎神の護符だ。

「花音ー」

 入れ違いに、陽玉がやってきた。

「本持ってきてくれたんだって?」

「うん。で、お礼にって、きのう陽玉にもらったのと同じ護符をもらったんだけど……これ、みんな持ってるの?」

「そうだねえ、あたしも知り合いの女官からもらったし、そう言われてみるとけっこうみんな持ってるかも。特に恋愛に効くっていうから後宮では女官の間で流行ってるらしいんだ」

 そう言って陽玉は意味深に声をひそめた。

「きのう、告白された人。どうなの?いい感じなら、お付き合いできますようにって願ってみたら?」

「何言ってるの陽玉!そんなんじゃないわよ…」

 眼鏡男子からの衝撃告白。忘れかけていた。

 と同時に、藍悠皇子の「お戯れ」も思い出してしまう。

「あれ、花音やっぱり白虎神に願おうかなって迷ってる?」

「違うってば」

「あたしはお相手も見つかってないから、ほら」

 陽玉は懐からこっそり小さな紙を取り出した。

 あの黒々とした紋章の周りに小さい文字で「良縁ありますように」と書いてある。

「これで素敵な御方に出会えたら、ほんと白虎神サマサマよね――おっといけない、そろそろ戻らなくちゃ」

 またねーと陽玉は慌ただしく厨の中へ入っていった。

「恋愛ねえ」

 たて続けに殿方に好意を寄せられたと知ったら、故郷の父はどんなにか喜ぶだろう。

 しかし実際、突然(少なくとも花音は)会ったこともない少年と、雲の上の貴人、というどちらもまったく現実味を欠いた話なのである。


 だからなのか、恋愛に効くというその護符も、なんとなくありがたいものとして見られない花音だった。

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