第七話 告白

 華月堂に戻ると、伯言が受付に座っていた。

 静かに本を読んでいるが、片方の眉が不機嫌そうに上がっている。

「ただいま戻りました」

 おそるおそる声を掛けると、伯言はジト目で花音を見上げて一言、

「遅い!」

 立ち上がって扇で卓子を軽く叩いた。

「どこ行ってたのよっ。紅壮皇子にはめんどくさいこといろいろ言われるし、お昼は食べ損ねるし、サイアクよっ」

「えっ、伯言様お昼食べてないんですか?!」

「食べれるわけないでしょうっ、不在にするわけいかないじゃない」

 どおりで不機嫌なわけだ。

 後宮厨で美味しい包子を食べてきたことを思い出し、一気に後ろめたくなった。

「申し訳ありません!」

 花音は床に届くくらい頭を下げた。

「仕事はちゃんとしてきたんでしょうね」

「はいっ、確かにお届けしました」

「すべて揃っていない事情も申し上げたわね?」

「はい。残りの本も見つけ次第、御届けしますとお伝えしました」

「よろしい」

 伯言は扇を開いた。

「もうお腹ぺこぺこよ。あたし、お昼食べてくるから。後はよろしくね」

「はいっ、いってらっしゃいませ」

 おそらくこの後は戻ってこないであろう伯言だが、今日はそれにも腹は立たない。むしろ、心おきなくお昼を食べてゆっくりしてくださいくらいな気持ちだった。

 出ていきかけた伯言は、ふと立ち止まった。

「そういえば、花音」

「はい?」

 花音が顔を上げると、伯言はちょっと考えるふうにして「やっぱいいわ。あんたはそういうガラじゃないしね」と行ってしまった。

「……?そういうガラ?」

 どういうガラであろう。


 *


 後宮専用の食堂に向かっていた伯言は、懐から紙を取り出す。

 それは午前中、本の返却にきた女官が世間話と共に置いていったものだ。

 掌ほどの真四角の白い紙には、奇妙な紋章が描いてある。

 なんでも、女官たちの間で密かに流行っている『まじない』だそうだ。

「この護符に願い事を書いて持っていると、その願いが叶うんですよ」

 女官は嬉しそうに言って、よかったらどうぞと伯言にもその護符をくれたのだった。

「願いねえ」

 胡散臭そうに護符を指で弄う。

 女官たちの間では、どうやら恋愛・良縁のまじないとして流行っているという話だった。

「あの子は、恋愛ってガラじゃあないしねえ」

――それに。

「愛だの恋だの言っている暇は、今のあの子にはない。悪いけど」

 伯言はその護符を懐の奥にそっと押し込んだ。



 伯言が出て行って間もなく、華月堂の扉が開いた。

「ようこそ――って、あれ?あなたは……」

 浅葱色の官吏服を着た、黒縁眼鏡の少年。

「さささささっき、鳳凰書楼閣で、お、お、お会いしましたっ」

 真っ赤な顔をして、かなりどもっている。

(だいじょうぶかな、この人)

 もしかして、花音を伯言と間違えて緊張しているのだろうか。

「あの、あたしはここの新人官吏で白花音と申します。上司の鳳伯言は席を外しておりまして、たぶん、今日はもう戻らないかと――」

「持ってきました!!」

 唐突に大声で突き出されたそれを思わず受け取る。

「あ!!」

 それは、紺色の見覚えある装丁。

『五国正史』だ。

「本当に持ってきてくれたんですね?!ありがとうございます!!ほんっとうに感謝感激です!!」

 嬉しさのあまり花音は少年の両手を握ってぶんぶん振るった。これでコウの意地悪に対抗することができる。

「…………です」

「はい?」


「好きです!!!」


 蔵書室内に大声が響いた。


 花音は少年の手を握ったまま、時が止まったかのようにしばし固まる。

「…………はい?」

「あなたのことが好きです!!」

 赤い顔をさらに赤くして叫ぶと、少年はものすごい勢いで走って行ってしまった。

 外から何やら階段を転げ落ちるような音と「いたっ」という叫びと砂利の上をよろめくように走り去る音――その嵐のような物音が完全に過ぎ去るまで、花音はそのままの姿勢で立ちつくしていたが。 

「な、ななな……」

 今自分に起きたことを理解した花音は、『五国正史』を胸に抱きしめて叫んだ。


「なんでーー?!」



 陽玉が、ころころと可笑しそうに笑った。

「笑いごとじゃないよ……」

 花音は頬をふくらませた。

「いや、ごめんごめん。ずいぶん直球な告白だなと思ってさ」

 陽玉はまだ笑っている。

 夕方、終業の鐘が鳴ってすぐ、花音は後宮厨に走ってきた。

 誰かに早く話を聞いてほしかったのだ。

「まあでも、花音てば化粧っ気も色気もまったくないけどよく見れば可愛いし、そういうふうに思う殿方がいてもおかしくないよ。よかったじゃない」

「そういう問題じゃなくて」

「なに、なんか問題が?」

「だって……あたし、あの人のこと知らないんだよ?いったいどこでどう好かれたのか分からないよ」

 頭を抱える花音の背中を陽玉がぽんと叩いた。

「もう、花音ってば固く考えすぎ。恋愛って、そういうものじゃない?理由なんかないし、よく知らなくてもひと目見て好きになっちゃうってこともあるでしょ」

「そんなもの……?」

「もうっ、『李氏物語』貸してくれたの花音でしょ」

「あれは物語の中の話よっ、実際会ったことも話しこともない人のこと好きになれるわけないじゃない!」

「会ったことはあるんじゃない?」

 陽玉の言葉に花音は顔を上げた。

「だって、そうじゃなきゃ好きになりようもないでしょう」

「え…でも、あたしあの人とは初対面だよ」

「だーかーらー、花音は知らなくても、どっかで姿を見られていたんじゃない?」

「でもでもっ、どこで?!あたしってほとんど華月堂から出ないよ?この厨と、あとはごくごくたまにお使いに出るくらいで――」

 花音はハッとした。

「文殿……」

 裙をたくし上げて文殿を走ってしまった、あの衝撃的な失態。

 あれを見られていたに違いない。

 陽玉に言うと、陽玉はリスのように丸い目をさらに丸くした。

「その噂聞いたけど、花音だったの?!」

「うん…いや、そんな恥ずかしいこととは知らなくて。故郷の村では足出して走るなんて普通だったし…」

 またもや陽玉が笑った。

「花音て、ほんと面白い!ね、あたし今日はもう上がりだから、食堂で一緒に夕飯食べない?その話もっと詳しく聞きたい!ね、行こ行こ」

 盛り上がる陽玉に引きずられるようにして花音は食堂へ向かったのだった。


 だからこの時、物陰から花音たちを見ている目に気が付かなかった。

 花音たちが去った後、その人物は掌に握りしめた紙を大事そうに開いた。

 そこには、細く繊細な字で書いた文字がびっしりと並んでいる。

 その中央には、黒々とした奇妙な紋章が描かれていた。

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