第五話 配達屋、始めます

 東宮を出て、花音はすぐに後宮厨に向かった。

 朝からいろいろな感情に振り回されたためか、お腹が空いて空いてしかたがない。

「ったく兄弟で人をバカにしてえ」

 花音は、無性に腹が立っていた。コウの意地悪はもちろんだが、唐突にとんでもないことを口走った藍悠皇子にも腹が立っていた。

「くっそう……もう関わらない!関りたくない!って言ってもね……」

 相手は後宮の主。

 ここにいる以上、関わらないわけにはいかない。ましてや藍悠皇子には内密の『仕事』まで言いつけられている。

「……ダメだわ。考えがまとまらない」

 空腹では、考えることも走ることも本を探すこともできない。とにかく食べなくては。

「花音!」

 陽玉が厨の裏口に出てきて花音の格好に目を丸くした

「珍しい格好してるねえ。でも、動きやすそうだし、可愛い」

「ありがとう。おかげで走れるんだけど、もうお腹が空いて空いて…一歩も走れない」

「そりゃいけない。腹が減ってはなんとやらっていうからね。ちょっと待ってて」

 陽玉は笑って、すぐに湯気を上げる籠を持ってきた。

「ふかしたてだよ。包子。あっちで一緒に食べない?あたしもちょうどお昼なの」

 陽玉は片目をつぶって、厨から出てきた。

 厨の裏手に薪の積んである場所があり、そこに丸太で作られた卓子と椅子がある。厨の女官らしき少女たちが、昼食をとっていた。

 その一角に二人で座り、さっそく包子を頬張る。

 できたての包子は皮がもっちりとして、中の肉餡や甘い棗餡がアツアツで最高に美味しく、二人はしばし無言で食べた。

「ふう。美味しかった」

「ほんと、後宮厨のお料理ってなんでも美味しいよねえ。陽玉の選び方もいいんだよね。今食べたい、って思ってるものをズバリ持ってきてくれるんだもん」

 さっきの怒りはどこへやら、花音は満足して水筒をゆっくりと飲んだ。陽玉も水筒を飲みながら懐から大事そうに本を取り出す。

「この間の御伽草子も面白かったけど、これもいい!実際のあたしには縁のない話だから、憧れちゃう」

 陽玉に貸しているのは、『李氏物語』という恋愛物語だ。

 古代に書かれたものだが、今でも読み継がれる人気の恋愛物語である。

 李氏という、類まれな美青年貴公子がさまざまな女性と恋に落ちながら男として成長する、という内容で、女性ごとに章分けされているため気楽に読みやすい。

『李氏物語』でさっきの藍悠皇子のことを思い出して、花音はちょっと苦笑した。

「李氏みたいなイケメン貴公子に見初められて恋に落ちる、なんて……想像しただけでドキドキものよ」

 歓声を上げる陽玉を周囲の少女たちが振り返った。

「なにそれ、陽玉。何読んでるの?」

「『李氏物語』だよ」

「えー聞いたことあるけど、難しくない?」

「ぜんぜん!ていうか、今ハマってるんだ」

「マジ?おもしろいの?」

「もう最高。名作っていうと敬遠しちゃうけど、読まず嫌いってことがよくわかったよ」

「へえー」

 少女たちが陽玉と花音の卓子へやってきた。

「どこで手に入れたの?」

「この華月堂の友だちが貸してくれたんだ」

 陽玉が花音を肘でつつくと、少女たちは興味津々で花音に話しかけてきた。

「あの華月堂の!」

「幽霊、出るんですか?」

「上司、鬼なんですか?」


 幽霊の正体は怠慢な皇子で上司は鬼っていうかオネエです。


 一瞬口から出かかった言葉をグッと呑み込んで花音は笑みを作った。

「あはは。そんなことないですよ普通の職場です。読みやすい本もたくさんあるし、みなさんもよかったら休憩がてら足を運んでくださいね」

 我ながら如才ない受け答えだった!と内心ドヤ顔をしていると、少女たちは溜息をついた。

「行きたいけどさ、無理なんだよねえ時間的に」

「そうそう。華月堂に行って帰ってくるだけでたぶん休憩時間終わっちゃう」

「夜は疲れて寮に帰ったら寝台直行だし……昼間、ちょっとした時間に読みたいなあと思うけど」

「そう!そこよ!」

 陽玉が少女たちを見回した。

「あたしもあんたたちと同じこと考えてたんだけど、それをこの蔵書室官吏・白花音が解決してくれたわけ。この子はあたしが読みやすいだろうって本を選んで、ここに持ってきてくれたのよ」

「「「ほんと?」」」

 少女たちの顔が一気に輝いた。

「あたしたちもそれ、お願いしてもいい?」

「本、読みたいって思ってたんだよね」

「そうそう、せっかう皇宮勤めできたんだし。村にいたら本なんて読みたくても読めないもの」

 純粋に本を欲している少女たちの、期待に満ちた顔を見回すうちに、花音は朝からモヤモヤしていた自分の中の霧が晴れてくるのを感じた。


「いいですよ!本の配達、承ります」


 はっきりと口に出すと、さらに考えがすっきりとした。


 あたしは、これがやりたかったんだ。


 もちろん読書三昧も理想郷だけど、本の面白さや素晴らしさを誰かに知ってもらうことが自分にとって驚くほど喜びになる――陽玉と出会って、そう思ったのだ。


 少女たちが歓声を上げた。

「じゃあ、さっそくお願いしたいな」

「かしこまりました。でも、今日の午後は急ぎの仕事があるんで、本をお持ちするのは明日になっちゃいますけど」

「え!明日持ってきてくれるの?はやーい」

 少女たちが目を丸くすると、陽玉が得意げに言った。

「花音は本の知識豊富だからねえ。足も速いし、配達屋は名案だね」

「配達屋か……」


――後宮で、本の配達屋はじめます。


 心の中にあったモヤモヤがはっきりと形になったことに、花音はこれまでにない高揚感に包まれていた。


「ではさっそく。どんな本が読みたいですか?」


 女官たちから希望を聞き取って、花音は後宮厨を後にした。



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