第四話 兄弟

 回廊のきざはしから降りると、飛燕が控えていた。


「藍悠様、こちらを」

 飛燕は、藍悠皇子の足元に沓を置いた。歩きやすそうな外用の沓だ。

「白殿も、こちらを」

 花音にも、沓を置いてくれた。これまた歩きやすそうな沓だが、藍悠皇子のものとは違っている。よく見ると、飛燕が履いているものとよく似ていた。

「この沓は白殿に差し上げます。『仕事』の際はこちらの方が動きやすいでしょう」

「はあ…ありがとうございます」

 こんなに走りやすそうな沓をもらえるのは嬉しいが、この沓に履き替えるということは藤を「少しだけ見る」のは難しそうだ。

「どうしたの花音?沓が履きにくい?」

「え、いいえ、そんなことはないです」

 実際、柔らかい革でできた沓はとてもしなやかに足に馴染んだ。

 藍悠皇子はにっこり笑った。

「よかった。僕が選んだんだ。花音の足にぴったりだと思って」

「なんだか、いろいろとお気遣いいただいてすみません」

 花音が恐縮すると、藍悠皇子は再び花音の手を引いた。

「気にしないで。女性への贈り物を選ぶのがこんなに楽しかったことは僕も初めてだから。さあ行こう」


 軽く走り出す藍悠皇子と共に、中庭を駆けた。

 花々がいろとりどりに咲き乱れる吉祥宮とは異なり、落ち着いた雰囲気の庭だった。花よりも、萌え出ずる新緑が目に鮮やかだ。桜の薄紅色が、ところどころ控えめに配置されている。小さな川や池など、水が多く通されているのも吉祥宮とは大きく違うところだ。

 静けさの中、時折、鳥のさえずりが聞こえる。

 思わず時を忘れてしまうような庭だ。

 手を引かれるままに庭を小走りに進んでいくと、藍悠皇子の足が止まった。


「うわあ……!」

 思わず、花音は感嘆の声を上げた。


 龍の銅像から水がこんこんと水が湧き出る、小さな泉がある。

 その傍に、藤がたわわに揺れる場所があった。

 大理石の支柱が大きな藤棚を支えている。藤棚の下にはゆったりとした籐椅子がしつらえてある。


「ここにどうぞ」

 藍悠皇子は優雅な所作で花音を籐椅子に座らせ、自身も隣の籐椅子に腰かけた。

「ここで上を見上げると、まるで夢の中に迷いこんだかのような不思議な気持ちになるんだ」

 花音も天井を仰いだ。藤の花弁の連なりが隙間なく揺れて、一面薄紫色の世界だ。満開の桜とはまた違った、幻想的な趣があった。

 風が吹き抜け、鈴なりの花弁が揺れる。

 思わず『五国正史』の一節が浮かび、口にする。

「……神龍国を通り抜けし道に紫雲たなびき、薫香ただよう」

 風脈に乗って自在に宙を翔ける龍が、様々な美しい景色を見初め、この地を鎮座する場所として選ぶ。龍昇国誕生のくだりである。

「「水脈充実し、清流其処かしこに湧き、清浄なる気満ちる」」

 低い声が重なったことで我に返り、花音は驚いて身を起こす。

 藍悠皇子は気持ちよさそうに椅子に寝そべったまま言葉を紡ぐ。

「気脈通り、森羅万象みな内に生命力を湛え、大地ますます豊かになる」

 長いまつ毛に縁取られた双眸が開き、花音を見た。

「『五国正史』を改めて読み返すと、ここの庭は神龍がこの地を翔けめぐった景色を再現しているのだろうと感じる」

「確かに…そうですね」

 花音もそれには同意だった。そう考えると、庭の荘厳さや落ち着いた感じ、後宮の他の場所では感じられない独特な雰囲気に納得がいく。

「嬉しいよ。ここへきて、同じことを感じてくれる人がいるなんて。やっぱり君は、思ったとおりの人だ」

「え…」

 藍悠皇子が椅子を立って花音の椅子の前に膝を付き、手を握った。

「僕と結婚しよう」


…………。


……。


…。


「はいいいいい?!」


 花音は絶叫してのけぞった。

「な、ななななにをお戯れを!!!!!」

 声まで裏返る花音を藍悠皇子は真剣な眼差しで見ている。

「戯れじゃない。僕は本気だ」

「…………」

「伝統や格式も大事だ。しかし、今こそ大事なのは共感と革新だと思う」

 藍悠皇子の手に力がこもる。

 その藤色の瞳は、とてもふざけているようには見えなかった。

 が。

 花音には藍悠皇子が一時的な戯れを言っているとしか思えない。

(じ、実は名うての女たらしとか……?)

 外見の堅実な感じとは違って、少し気に入った女官には手を付けるのかもしれない。よく軽い恋愛もので後宮が舞台の物語では、美しい貴公子が次々に女性と恋に落ちるではないか。よくもまあそんなに恋愛のことばっかり考えてられるもんだといささか花音は呆れてしまう。

 そう考えるとゲンナリしたが、今後も後宮でうまくやっていくためには藍悠皇子の御機嫌を損ねるわけにはいかない。ヘンな汗をかきながら、花音は苦し紛れに笑顔を作った。

「あ、ありがとうございます。お気持ちは嬉しいんですが、あたし……ええと、その、そう、夢!夢があるんです」

「夢?どんな?後宮にきて女性がみる夢は、皇族から寵愛を受けて后になることじゃないの?その夢は、僕が叶えてあげられるよ」


 まさか父に嘘をついて嫁入り話から逃げて官吏になって読書三昧の理想郷を実現したいから宝珠皇宮にきた――などと言えない。


「ええっと、ですね……」

 花音が言葉に詰まっていたときだった。

 何やら、人が争うような声が近付いてきた。

「お待ちください!」「やだね。おまえこそついてくんなよ」

 何事かと藍悠皇子が立ち上がったと同時に、木立から飛燕と派手な藤色の衣が現れた。

「コウ?!」

 コウは、藍悠皇子と花音を交互に見て、鋭く目を細めた。

「ここで何してんのセンセー。オレ、ずっと待ってたんだけど」

(ひえええええ)

 ドスの効いたコウの言葉に、今度はどっと嫌な汗が流れる。

「ええと、その……申し訳ありません!!」

「仕事って、東宮にくる用事だったのかよ。最初に言ってくれりゃあオレも東宮ここに戻ったのに」

(そ、そりゃそうよね……)

 東宮はコウの住まいなのだ。

 しかし、東宮にきた用事が用事だけに余人に言うわけにはいかなかった、という事情をどういうふうに説明したらいいだろう。

「しかも、お兄サマと一緒ってのが気に入らねえ」

 コウは藍悠皇子を睨んだ。藍悠皇子も負けてはおらず、睨まれても平然としている。


 藤色の中衣に藍錦の袍を合わせ、きちんと髪を結った藍悠皇子。

 白い織柄の簡素な中衣に派手な藤色の女上衣に、無造作に結った髪の紅壮皇子。

 対照的だが、よく見れば二人は驚くほど似ていた。

 双子だから当たり前なのだが。


 しかしこの兄弟、どうやら仲良しではないらしい――花音は一瞬でさとった。


「オレを待たせてる間、お兄サマと花見して遊んでたわけだ。へー」

 場の空気が冷え冷えとする中、藍悠皇子が花音とコウの間に割って入った。

「白尚官は悪くない。彼女は、私が頼んだ本を届けにきてくれただけだ」

「へえ?東宮図書蔵には大抵の本が揃ってるのにな?お兄サマなら宝物庫にも入れるだろ。手に入らない本はないはずだけど?」

 嫌味たっぷりのコウに、藍悠皇子は溜息を吐いた。

「『五国正史』が図書蔵になかったんだ。僕が探し方が足りなかったのかもしれないけど、探す手間も惜しくてね。そういったことを東宮侍従に頼みたくないのは、おまえも同じだろう?」

「腹黒いお兄サマお得意の『いかにも』っていう説明をどうも」

「僕は、白尚官がおまえと約束があることを知らなかった。『五国正史』を持ってきてくれたお礼に藤を見ようと誘ったのは僕だし、そのことについては謝ろう」

 藍悠皇子が穏やかに言ったが、コウはふいっと踵を返した。

「おまえに謝られる筋合いはない」

 振り返りもせず、行ってしまう。

「藍悠皇子、すみません」

「いや、いいんだ。花音が謝ることじゃない」

「あたし、あの……今日はありがとうございました!失礼します!」

 花音は急いで走った。

 まだ間に合うかもしれない。

 東宮の中を走り回るわけにはいかないが、殿舎と殿舎の回廊で追いつけば――

「わぷ?!」

 回廊の壁を曲がったところで、何かにぶつかった。

「おまえ、ほんとに足速いんだな」

 コウが呆れた顔で立っていた。

「えらいかっこうで文殿を走ったってのは、あながちウソじゃないんだ」

「そ、それをどうして……ってそれはどうでもいいです!」

 花音は姿勢を正して頭を下げた。

「ほんっとうにごめんなさいっ」

 事情はともあれ、コウを待たせてしまったことには変わりない。

「おれも『五国正史』読みたい」

「へ?」

「で、あの腹黒ヤロウ曰く、東宮図書蔵にはないんだよな?」

 コウは悪戯っぽい笑みを浮かた。

「華月堂の在庫は腹黒ヤロウが持ってる。とすると、どっかから借りてこなきゃならない。行ってくれるよなセンセー。生徒のために本を調達するのは当然だろ?」

(イジメだわ!官吏イジメ!!兄弟喧嘩のとばっちりじゃない!!!)

 コウは意地悪い笑みを浮かべている。花音が断れないのをわかっているからだ。

「わかったわよっ……じゃなくてわかりましたっ。すぐに!調達して!お届けしますから!!」

 花音はヤケクソで叫ぶと、東宮を後にした。



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