第三話 東宮へ

 花音は吉祥宮を駆けた。

 玉砂利の敷いてある美しい石畳ではなく、木立の中を、である。

 伯言から預かった本を背負い、走っていた。


「ううう、けっこう重いわ」

『呪いの本』七冊は、それぞれはそんなに大きい本ではないものの、まとめるとけっこうな重量になった。

「でも、急がないと」


 コウが待っている。

 花音が華月堂を出てくるとき、コウは華月堂の中の梯子に登り、そこに腰かけて本を読んでいた。

 考えてみればコウも皇子殿下であり、本来待たせるのは不敬だ。

 しかし、読書の誘惑には勝てなかった。


――ほんとうに?


 心の中で、誰かが囁く。

 ほんとうに、本が読みたかったから?


「あたりまえじゃない!『龍昇国古記』よ?お宝本よ?読みたいに決まってる!」

 走りながら叫んだ。はたから見たらかなりな奇人だが、さいわい木立の中には人影もない。

 コウの人懐っこい笑顔が脳裏に浮かぶ。

「違う!違うんだって!!」

 花音はなぜだか自分に言い訳するように叫んだ。


 悔しいが、コウと一緒に『龍昇国古記』を読むのは楽しかった。


 少し前にコウが『龍昇国古記』を東宮の宝物庫から持ってきて、最初はそんな貴本の存在に飛びついたが、花音がわからない古語を知っていたり、難解な表現をわかりやすく説明してくれたり、コウの教養の深さに花音は驚かされた。


 コウは花音を「センセー」と言うが、コウの方がよほど教師のようだ。

 そんなコウと貴本を読み解くのが楽しくないはずない。


 けれど、そんな感情に警鐘を鳴らす自分もいる。


 相手は、皇子殿下なのだ。


 一官吏に過ぎない分際で、皇子殿下と親しくするなんて、畏れ多い。


(だけどなあ)

 父に嘘をついてまで蔵書室官吏になったのだから、皇宮でしか読めないような本をたくさん読んでみたい、というのも正直なところで。

 結局、読書の誘惑に勝てなかった、ということになる。


(……そう。そうよ。あたしは、読書三昧の理想郷をここで実現するんだから)

 志を新たにした頃、東宮へつづく荘厳な門が見えてきた。



「おはよう、花音」

 応接の間に控えていると、藍悠皇子がやってきた。

 藤色の中衣に藍錦の袍を合わせた藍悠皇子は「爽やか」を体現したような佇まいだ。

「あ、眼鏡と裁付、身に付けてくれたんだね。うん、思ったとおりよく似合ってる」

 藍悠皇子が微笑んだ。

「はい、ありがとうございます。眼鏡も裁付もぴったりだし、すごく素敵だし……うれしいです」

 花音も微笑む。ほんとうにうれしかったのだ。

 そして、大理石の広い卓子の上に、花音は背負ってきた本を布に包んだまま置いた。

「伯言様が言うには、皇子殿下からお預かりした目録のうち、あと三冊が行方不明とのことでした」

「そうか……やはり、持ち出されているんだね」

「見つかり次第、お持ちします」

「ありがとう」

 藍悠皇子はそう言って、布の包みを持ち上げた。

「けっこう重いね」

 端麗な顔をしかめて立ち上がると、藍悠皇子は花音の隣に座った。

「肩、大丈夫?」

 そう言って花音の肩にそっと腕を回す。

「後で飛燕に湿布薬を持ってこさせる」

「え、あの、大丈夫です、あたしすっごく丈夫なんで……お気を遣わずに」

 花音はさりげなく藍悠皇子の腕からすり抜けて立ち上がった。

「じゃあ、あたし、失礼します」

 辞去しようとすると、それを制するように藍悠皇子が花音の手を取った。

「ほら、昨日、藤が綺麗な場所があるっていっただろう。少し見ていこう」

「え、あの、でも……」

 華月堂で待っているコウの姿が浮かぶ。

「大丈夫。伯言には許可を取っているから。仕事に支障がないように、少しだけ。ね?」

「は、はい」

 断る隙がなかった。藍悠皇子は花音の手を引いて外に連れ出した。



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