第二話 紅壮皇子、再び

 翠色の玉をあしらった、まるで若草の首飾りのような鎖をおそるおそる首にかけてみる。

 銀色の縁枠に収まる、曇り一つない水晶。

 のぞくと、視界はよりはっきりした。

 薄紅色の細筒――裁付というらしい――は、測ったかのごとく花音にぴったりの大きさだった。上に何を合わせるか迷ったが、丈が短くなって直そうと思っていた深衣があったので、それを上から着た。

「すっごい動きやすいわ!」

 花音は驚きと感動に思わず叫んだ。

「毎日この格好したいくらいだわ。これなら歩きやすいし、いざってときも走れるし。藍悠皇子に感謝して、ちゃんと『仕事』しなくちゃね」

 花音は気合いを入れて華月堂へ向かった。



 昨日。


 終業間際、伯言の卓子に呼ばれた。

「例の目録の本のことなんだけど」

 花音はハッとした。


『花草子』の一件で、藍悠皇子から探してほしいと言われた本の目録。

 それは、藍悠皇子の母后である月詠の君様が、処分してほしいと遺言された「呪いの本」だ。


「ざっと見たところ、こんな感じね」

 小さな紙を見せられた。そこには美しい手蹟で本の題名が十冊ほど書かれていて、ほとんどに赤で線が引いてある。

「残ってるのはあと三冊、ってことですか」

「そういうこと。その三冊は華月堂ここにはなさそうなの。おそらく、誰かが故意に持ち去って所持している、あるいは持ち去った人物はすでに後宮にいないかもしれない」

 ふう、と溜息をついて伯言はいつになく真剣な表情で花音を見上げた。

「華月堂と本のやり取りをした他の部署に紛れてるってこともあるかもしれないし、見かけたらすぐに回収できるようにこの三冊の題名を覚えてちょうだい。書き出すことはできないから頭に入れるのよ」


 花音は穴の開くほど紙を見て、三冊の題名を覚えた。


「ところで伯言様、いつの間に『呪いの本』を探していたんですか」

 伯言は呆れたように眉を上げた。

「虫干し、してるでしょ」

「……あ」


 そういうことか。

 伯言は、せっせと本を運んでいた。修繕をまったくやらなかったのは『呪いの本』を探していたからなのか。


「あたしが意味もなく虫干しなんてやるわけないでしょ。虫干したのよ。この目録だけ持って書架をうろうろしてたら怪しいじゃない」

 怪しいって。

「はあ、でも、華月堂には今、誰も来ないし、怪しむ人なんていないんじゃないですか」

 花音が言うと、伯言は扇をぴしりと突き付けて言った。

「甘い。甘いわよバカタレちゃん。後宮の中にはとかく耳目が多いんだから」

「はあ……」

「藍悠皇子がわざわざここに『五国正史』を借りにきたのも、そういうことよ」

「そうなんですか?」

「当たり前でしょ。『五国正史』なんて東宮の図書蔵にもあるに決まってるじゃない。見張られているから、藍悠皇子はここに本を借りにきたのよ」

「ええ?!そんなことってあるんですか?」

 いくら皇子殿下だからって、そこまで監視されるのだろうか。

 伯言は扇を開き、声を低くした。

「帝位継承をめぐって、今は皇宮全体が波乱のときなのよ。帝位継承権を持つ双子の皇子のどちらが帝位を継承するか。皇子たちは食べたもの、行った場所、読んでいる本、そういうものすべてが見張られているの。あちこちから飛ばされた間諜によってね」

「…………」


 花音は絶句した。

 雲の上の話でよくわからないが、生活のすべてを見張られているというのはさぞ窮屈で大変だろう。

 ふとコウの――紅壮皇子の悪戯っぽい笑み顔が浮かんで、花音はぶるぶる首を振った。


「?なあに、御手洗い行きたいの?」

「ち、違いますっ」

「まあいいわ。そういうことだから、見つかった本だけ明日にでも東宮に届けてくれる?」

「えっ、さっきお渡しすればよかったじゃないですか」

 途端に、伯言がニンマリ笑う。

「あんたを御指名よ。藤の花、御一緒するんでしょ」



 というわけで、花音はしまいこんでいた高級な塗箱を開け、藍悠皇子から賜った品を身に付けたのだった。


 動きやすい服装のおかげで足取りも軽く華月堂に着くと、受付に派手な藤色の女物の上衣が見えた。

 無造作に束ねたさらりとした髪を弄う物憂げな美貌が、花音を見るなり、ぱっと輝く。


「おはよーセンセー」

 その無邪気な笑顔に花音の心臓はなぜか跳ね上がった。


「な、なにしにきたの…いらしたんですかっ」

「まあまあ、怒るなよセンセー。これでも超多忙なところを時間作ってきたんだぜ」

「怒ってませんっ。そしてお忙しいならわざわざ華月堂ここに来なくてもいいんですよっ」


 これ以上ここにいるとコウにまで心臓の音が聞こえてしまう――花音はふいっと事務室へ向かった。


「あ、待てよ」

 コウは、女物の長い上衣を纏っているにも関わらず身軽に長卓子を乗り越え、花音の前に立った。

「続き、一緒に読もうと思って持ってきたんだけど」

 藤色の上衣から、濃海老茶色の書物を取り出す。

 幻の貴本、『龍昇国古記』だ。

「読みたいだろ?」

「う……」

 もちろん続きを読みたいと思っていたところだった。

「読むよな?」

「うう……うぐぐぐぐ……」

 花音が唸っていると、コウは可笑しそうに笑った。

「センセーわかりやすすぎ。いいじゃん、読もうぜ。伯言にはさっき許可取ったから。急ぎの仕事が終わったら、いいって」

 東宮への用事を先に済ませてこいということだろう。

「オレはここで待ってるから、早く仕事終わらせてきてくれよ」


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