第一話 藍悠皇子、再び

「かーのーんー!!」


 伯言の大声が華月堂事務室に響いた。


「ははははい?!」

 温かいひだまりの中、夢かうつつかと舟を漕いでいた花音はがばりと身を起こす。


 そこには、翡翠色の深衣を纏った美しすぎる上司、鳳伯言が仁王立ちしていた。

「寝てんじゃないわよっ。ただでさえ忙しいんだから」

 深緑色の扇でぴしりと額を叩かれる。

「痛っ!痛いですよ伯言様!」

 花音は涙目で訴えるが、美しき上司は「愛のムチよ」の一言で片付ける。

「御伽噺にもあるでしょう。冬のために蟻はせっせと支度をして無事に冬を越せました、ってね。来るべき時のために準備を怠らないことが大事よ!」

 鼻息も荒く事務室を出ていく伯言の背中を花音は恨めし気に見やった。

「伯言様は……本を運んでくるだけだからいいけどさ」

 深々と溜息を吐き、花音はしぶしぶ作業に戻った。


 花音は、本の修繕作業をしているのである。


 温かいというより暑いと感じられるようになったこの頃、後宮の女官たちは更衣の準備に忙しい。

 聞けば後宮の更衣というのは衣裳や寝具はもちろんのこと、調度品から大型の加家具、御簾に至るまで、すべてを取り換えるのだそうだ。

 半期に一度のこの大仕事に女官たちは寸暇を惜しんで働いており、したがって華月堂は閑古鳥が鳴いているのだった。

 華月堂でもちょうど本の虫干し作業の時期である。なので、人が来ないのもそれはそれでいいのだが、

「そうだわ!ついでに修繕もやっちゃいましょうよ」

――伯言のその一言が悪夢のはじまりだった。

 虫干しの済んだ本を点検して、必要があれば修繕するのだが、紐を通したり糊を付けたりの細かい作業は花音の苦手とするところだ。

 悪戦苦闘しながらやっていると「なあにあんた、下手ねえ。もうちょっと丁寧にやんなさいよ」などと伯言から小言を言われる。伯言はといえば、せっせと本を運んでくるが修繕はやらない。本を運び、これは紐交換だの糊付けだのと細かい指示をしたのちは自分の卓子で鼻歌混じりに化粧箱の整理などをしているのである。

 花音はここ数日、うららかな春の陽射しに眠気を誘われつつ、苦手な作業と格闘しているのであった。


「失礼する」


 突然、低い声がしてぎょっと顔を上げると、いつの間に室へ入ったのか、戸口にひっそりと黒衣の青年が立っていた。

「飛燕さん」

 花音は思わず立ち上がって頭を下げる。

「ちょっと、飛燕殿。気配なさすぎ。もうちょっとそれとわかるように登場してよう。何か前触れがあるとか、扉を叩くとかさあ」

「は。申しわけありません」

 伯言の言葉に、飛燕は静かにかしこまった。

「主がお見えになるので先触れに参ったのですが、鳳様も白様も作業中であられるようでお声をかけられずにいました」

 神妙に言った飛燕の背後から、涼しげな瑠璃色の紗の上衣を頭から被った人影が現れる。伯言が椅子を下り、揖礼した。

「ようこそ、皇子殿下」

「藍悠、でいいよ。伯言。息災かな?」


 紗を飛燕に渡しながら爽やかに言ったのは、龍昇国皇家の第一皇子、藍悠皇子だ。


「龍帝家の御庇護のおかげをもちまして」

 伯言は優雅に返答する。藍悠皇子は頷くと、花音に向いた。

「花音も。官吏の仕事には慣れた?」

 そう言って花音の卓子まできた藍悠皇子は、急に黙りこんだ。

「な、なにか?」

「いや……もしかして本の修繕、してるの?」

「は、はあ」

「そうか……いや、うん、頑張ってるね。なかなか……」

「……いいですよ、皇子殿下。お気を使わないでください。自分でもわかってますから」

 花音がふくれ面をすると、とうとう藍悠皇子が噴き出した。

「ごめん。いや、あんまりその、糊の付け方とかが個性的だから……」

 藍悠皇子はまだ笑っている。いつの間にか背後に立っていた飛燕はいつも通り無表情だが、顔の筋肉を震わせまいと必死になっているように見えた。

 べったりと糊が付きすぎて皺になった項や、ぶきっちょに結ばれた綴じ紐を見下ろして花音は溜息を吐いた。

 それを見た藍悠皇子は慌てて花音の肩に手を置いた。

「今日は、花音と伯言に頼みがあってきたんだ。休憩がてら話しを聞いてくれないかな?」


 *


「帝が?」

 伯言はやや眉を上げ、「それは――確かにお珍しい」と言葉を選ぶように言った。

「やはり、そう思う?」

 藍悠皇子は芳香立ち昇る茶器に口を付けた。飛燕が用意した茉莉花茶は、部屋中を芳香で包み込んでいる。

「父上は行動派で、政のことにしても臣下が心配するくらい現地に足をお運びになる。お忍びも多い。書斎にこもって読書ということはほとんどしない御方だ。だから、気になる」


 今上の帝、稜炎帝――つまり、藍悠皇子の御父上だが――が、近頃部屋にこもってずっと書を読んでいる、というのである。


「御身体の具合でも悪いのかと思ったけど、そうじゃない。それに、ずっと同じ本を読んでいるらしいんだ」

「同じ本とは?」

「『五国正史』だよ」

 伯言は唸って茶をすする。花音は畏れ多いと思いながらも言ってみた。

「歴史を学び直そうと思われたとか、何か確認したいことがあるとか、そういうことじゃあ……?」

 伯言の扇が軽く花音の頭を弾いた。

「おバカちゃんねえ。今上の帝は博識の誉れ高い御方なのよ。『五国正史』なんか頭に入っておられるに決まってるでしょう」

「そうなんだ。今さら『五国正史』というのが解せなくてね」

 藍悠皇子は身を乗り出した。

「父上のお考えを知りたい。それで僕も『五国正史』を改めて読んでみようと思ってね。それで、ここに借りにきたんだ」

 藍悠皇子は伯言をじっと見つめた。伯言は表情を変えず、やはり藍悠皇子をじっと見ている。やがて、

「かしこまりました」

 と言った伯言は、花音を肘で突っついた。

 探してこい、ということだろう。


 花音は手を伸ばしかけた茶菓子を諦めて席を立つと、蔵書室へ行った。


「『五国正史』ね……あったあった」

 歴史関係の本の棚ですぐに見つかった。

『五国正史』は龍昇国と周辺の四国の歴史について書かれている、広く知られた歴史書だ。ある程度の蔵書数の場所なら、必ずおいてある類の本である。

「そうだ……そうよね」

 藍悠皇子の住まう東宮にも、おそらく蔵書室くらいあるだろう。

 そこに『五国正史』はあるのではないだろうか?


 首を傾げつつ事務室に戻ると、藍悠皇子は嬉しそうに『五国正史』を受け取った。

「どうもありがとう。ところで花音、藤の花は好き?」

「藤の花、ですか?はい、好きです!」

 故郷にも藤棚のある家は多かった。里山には野生の藤があった。

「葡萄みたいで、綺麗で美味しそうですよね!」

 そう言うと、藍悠皇子は笑った。

「花音はいいね。うん、とってもいい――後宮に藤がとても美しい場所があるんだ。今度一緒に行こう」

「はい!」

 故郷の藤を思い出し、懐かしく嬉しく花音は元気よく頷いた。


 藍悠皇子と飛燕が帰り、花音が茶器を片付けていると、伯言がふーんとかへーえとか言いながら花音をじろじろ見てくる。

「なんですか、伯言様。お菓子はもうさっき全部召し上がったから無いですよ」

「あら、あれ美味しかったのに残念…って違うわよっ」

 伯言は扇を開くと、花音にすすすと近寄ってきた。

「な、なんですか」

「藍悠皇子、イケメンでしょ」

「へ?」


 唐突な意見に花音はぽかんとした。そんなことは、考えたこともなかった。もちろん、藍悠皇子が端整な非の打ちどころのない容姿なのはわかる。わかるが、相手は皇子殿下だ。イケメン、という言葉が到底結びつかない。


「イケメンって……それ、女官の間で流行ってる言葉ですよね。かっこいい男、ってことですよね?」

 陽玉情報だ。

「藍悠皇子は皇子様ですよ?そんな俗っぽい言い方があてはまるかどうか――」

「そういうことじゃなくて!あんた、藍悠皇子を異性として見ているのかってこと」

「はああ?!」


 そんなわけない。


「あり得ないですよ!相手は皇子殿下ですよ?異性どうこう以前に身分が違いすぎます!」

 花音が憤慨すると、伯言は扇の下で囁いた。

「バカねえ。藍悠皇子も、男なのよ。ま、ほどほどにね」

 意味深に言うと、伯言は鼻唄まじりに残りの茉莉花茶をすすった。








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