跋 うつしよ

 人の背丈ほどの書架が、きっちり等間隔で並ぶ。

 書架は鉄製の頑丈なもの。収まっている本はどれも古いが、丁寧に扱われてきた物特有の、落ち着いたたたずまいを見せている。まるで、この書架に収まっていることに誇りを感じているように。

 書架にはちょど、高窓から西日が差していた。

 だが、茜色の西日は、本にはあまり当たらない。絶妙な位置で窓が設計されているからだろう。

 そして、西日は、薄暗くなるこの時刻、あたかも照明のようになっていた。


 誰もいないはずのこの時刻、その西日を見上げて佇む長身の影があった。

 

「愛、だな」


 蔵書室内に響いた声に、長身の影はゆっくりと振り返った。

「ここは緻密な考察のもとに設計された場所。そこかしこに設計者の愛が溢れている。類稀たぐいまれな才能も」

 声の主は、真っ直ぐに長身の影に向かって歩いてきた。

 大きなたぶさの玉の簪が、西日を透かして微妙な色を放つ。陽の光によって色を変える珍玉は、持ち主の物を見る目の確かさを示しているようでもある。

「あの子は、天才だった。あたしはいつも、いつだって、あの子の背中を追いかけてきた。今も。きっと、一生そうなのだろうなと思う。ここに来る度に、そのことを思い出すよ」

「あんたも天才と言われているじゃない」

 長身の影が、微笑んだ。

「簪から宮殿まで、作れないものはない。天才職人、蔡水木」

 言われて、水木は顔をしかめる。

「あんたにそう言われると、からかわれているようだ」

「あら。あたしは本当のことしか言わないわよ」

「……そうだろうか」

 水木は、長身の影を見上げた。

「昔を知る人は皆、あんたは変わってしまったという。それも仕方がないと。そして、、あんたの狙いなんだろう?だからそうやって、昔からの親友の前でもオネエ言葉を使う」

 長身の影は、微笑んだまま、黙って水木を見つめた。

「いいんだ、それでも。あんたには、何か考えていることがあるんだろう。だから、白花音を部下にした」

「……あの子なら、今日はもう帰ったわよ。珍しく、終業の鐘と同時に。後宮厨の女官に本を届けるって言ってたわ。あたしには考えつかない発想で、あの子は本の素晴らしさを後宮で広めようとしている。良い官吏になると思うわ」

 水木は肩をすくめた。

「やっぱり、肝心なことは言わない、か。まあいい。あんたが何も言わないってことはわかっていたから。今日は白花音じゃなくて、あんたに会いにきたんだ」

 水木は後ろ手に持っていた大きな酒瓶を取り出した。

「月が、綺麗だから」

 長身の影はにっこりと、頷いた。

「いいわね」

 見事な幾何学模様の扉が開き、二つの影がそこから出ていく。

 薄闇の中に、楽の音や人々のさざめきが溶けている。朧な月は、冬の間にちぢこまっていた人々の心を解き放つように夜を明るくする。

 宝珠皇宮に、春がやってきたのだ。

 二つの影は、暖かな春の夜風の中、静かに歩いていった。


* 


 塗りっぱなしの茶けた壁、装飾のない屋根や欄干。

 修繕や手入れはされており、清潔ではあるが、およそ煌びやかな吉祥宮にそぐわない地味で素朴な建物。


 老いも若きも貴尊も卑賤も、書に親しみたい者は誰でも訪れることができる場所。


 古人曰く、華に遊び月に歌うがごとく自由に書を紐解くべし――


 故に、この建物を華月堂と呼ぶ。




             ~其之一『花草子』 完~

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