第二十二話 夢の行方

 花びらが風に舞い、宝珠皇宮の景色を薄紅色に染める。

 あちらこちらで花々が満開を迎え、宝珠皇宮の堅牢流麗な景観が一層華やぐ季節である。

 行事多いこの季節、後宮で注目されるのは『春の式典』である。


 この式典は東宮主宰で、後宮に入った者たちを歓迎する催しとされている。


 が、実際は各殿舎の妃が妍を競う場である。


 ここで初めて皇子や帝に謁見する妃もいるとのことで、どの妃も気合いが入らないわけがない。

 特に今年は皇太子候補二人の皇子主宰とあって、どの殿舎も準備に余念がない――のだそうである。

 妃はもちろんのこと、仕える女官たちまでが衣裳から簪にいたるまで準備を怠らず、従ってどの殿舎もその前を通りかかるだけでぴりぴりとした空気が伝わってきた。


 しかし花音にとっては、縁のない、雲の上の話だ。

「あたし官吏でほんとうによかったわ」

 衣裳だの、簪だのと気を遣うのは苦手だった。そんなことに時間をとられたら、本を読めなくなってしまう。


 というわけで、後宮中が春の式典の準備一色に染まっている現在、華月堂は訪れる者もない静かな場所となっていた。


(これで、たっぷり読書ができる!)


 花音はホクホクしたが、そういうときに限って、伯言はいる。

「もうみんなどんだけーって感じよねえ。たかが春の式典でそわそわしちゃって。あたしたち仕事なさすぎて御給金泥棒みたいになっちゃうわよねえ」

「……伯言様、忙しくても仕事してないから同じですよね」

「え?なんか言った?」

「いいえ、べつに」

 花音は事務室の卓子で優雅に座って扇をあおいでいる伯言に一礼し、蔵書室へ入った。


「くうう、あたしの一人読書時間が!」花音は小さく地団太を踏んだ。

 伯言は事務室の卓子で何やら個人的な読み書きをしたり、化粧箱の整理をしていたりと相変わらずで、仕事をしているわけではない。

 が、花音としては上司がいるのに堂々と本を読みふけるわけにもいかず、仕方なく書架の間を歩き回って本の傷みを点検したり、埃をはらったり、モヤモヤとした時間を過ごしていた――ときだった。


「失礼」

 よく通る声に受付の方を見やると、見覚えのある、長身の黒衣姿が。


「飛燕さん」

 急いでいくと、飛燕は花音に小さな包みを渡した。

「これはなんですか?」

「油紙だ。腕の傷に貼るといい」

「ありがとうございます。でも、傷はもう大丈夫ですよ」

 花音が元気に答えると、飛燕は心なしか顔を赤くした。

「刀傷は塞がって後、何もしないでいると跡が残る。そなたは、女人ゆえ」


――気を遣ってくれているのだ。

 そう気づいて、花音は嬉しくなった。


「飛燕さんて、優しいんですね」

 すると飛燕は咳払いをして、「今日は、主が貴殿に用がおありなので」と事務室の方へ行ってしまった。

 藍悠皇子は、どうやら伯言と話をしているようだ。


「少しなら読めるかな……」

 受付の抽斗にこっそり隠した本を取り出し、項をめくろうとしたとき、「仕事中すまないね、花音」

 藍悠皇子が、事務室から出てきたので手を止める。

「あ、あはは、いえ、とんでもないです」

 花音は内心がっかりしつつも、ハッと気づいて揖礼する。

「皇子殿下におかれましては、ご機嫌麗しゅう」

 すると藍悠皇子は柔らかく笑った。

「気楽にしてくれていいよ。むしろ、その方がいいな。君は妃や他の女官と違って飾らないし、気安くできる人だから」

「そ、そうですか?」

 そんなもんだろうか。

 気安くしてくれと言われてハイそうします、とも立場上言いにくいが、それが藍悠皇子の望みなら堅苦しくしても仕方ない。

「じゃあ……改めまして、おはようございます」


 花音が言うと藍悠皇子は微笑み、そして花音に顔を近付けた。


 精悍な顔の稜線、繊細な造りの鼻や口元。そして、一度見たら忘れられない、紫色の瞳。

 じっと目を覗きこんでこられて、思わず心臓の音が高鳴る。

「あ、あの…」


「伯言に、例の本の目録を渡しておいた。すまないが、よろしく頼む」

 甘い声で囁かれたが、例の任務のことだと気付いて気が引き締まる。


「わかりました。頑張ります!」

「頼もしいね、花音。聞けば、たいそう足が速いのだとか」

「え、それをどこで」

 伯言か、と思いきや、藍悠皇子はおかしそうに笑った。

「いや、文殿を可愛らしい少女が俊足で走り抜けたって話は、皇宮中の噂だよ。まるで野ウサギのようだった、てね。裙では走りにくかっただろうに」

「あ……」

 耳まで熱くなる。あの失態が、皇子殿下の耳に届くほどに広まっているなんて。

「いえ、あれはですね、本当に申し訳なくお恥ずかしく……その、二度とやりませんので、はい」

 藍悠皇子は笑って、飛燕から美しい塗箱を受け取った。

「これを。花音のために特別に作らせたものだ」

「あたしに?」

「開けてみて」


 触るのも手が震えそうな美しい塗箱だ。


 おそるおそる蓋を取って、花音はアッと声を上げた。

「あたしの眼鏡!」


 英琳の一件で落としたままになっていた。

 以前、父が誕生日にあつらえてくれたその眼鏡は、飾り気もなにもない質素な作りだが、字がよく見えるし気に入っていたので、内心がっかりしていたのだ。

「水晶は無事だった。見事な良い品だと修理をした工部の職人も驚いていたよ。どこで手に入れたのかって、知りたがっていた」

「そ、そんな大層なものでは…」


 娘想いの良い父だが、懐は常にさみしい。工部の職人が由来を知りたがるような高価な品ではないはずなのだが。


 藍悠皇子は残念そうにつづけた。 

「でもね、縁枠と鎖が残念ながら破損していたから、作り直させたんだ。気に入ってもらえるといいけれど」

 曇り一つなく磨き直された水晶は、銀色の縁枠に収まって見ちがえるようだ。鎖は翠色の玉をあしらった、まるで若草の首飾りのようで、地味ではないが派手すぎない、とても趣味のいい物だ。気に入らないはずがない。

 花音は歓声を上げた。

「うれしいです!本当に、何てお礼を言ったらいいか……」

 次いで、眼鏡の下の、霞んだ薄紅の布に目がいく。

「それも、ぜひ君に」

 出して広げて花音は驚いた。

「こ、これって、袴、ですか?」

 かなり細筒な袴らしきそれは、膝から下は特に細く上は膨らんでいる形で、飛燕が履いているものと同じようだ。

「君のために特注で作らせたんだ。皇宮の中でも、特別な任務に就いている者しか身に付けない。もっというと、動きが俊敏な者しか身に付けられない」

「え、えーと」

 反応に困っていると、藍悠皇子が飛燕に目配せをした。飛燕が頷く。

「それは、裁付さいつけと言って、護衛や間諜の者が身につけるものだ。動きやすく、走りやすい構造になっている」

「つまりね、例の依頼のことで、急に連絡をとる必要がある時、もちろん飛燕やその他の手段も使うんだけど、華月堂こちらからも連絡手段があるといいかなと思って」

「はあ……」

「他ならぬ仕事請負人が俊足なんだから、これを使わない手はない」


 走れ、ということだ。


「だから、これからはいつもその袴を身に付けていてほしい」

「いつも、ですか」

 通常の裙の下にこれを着るとなると、かなりかさばるのだが。


 花音の心の声が伝わったかのように、飛燕が言った。

「女人の護衛や間諜の者は、裁付の上に筒衣や深衣を着て調整する者もいる。試してみてはどうだろうか」

「そうか!じゃあ、上に合わせる物も何か私が見繕って花音に届けさせよう」

 なぜか嬉しそうに言う藍悠皇子だった。

 花音は、眼鏡を首から下げ、かけてみた。

「すごい!」


 本を手に取って、中を開く。水晶をかなり磨き上げてくれたのだろう、一点の曇りもない。


「日常生活では特に困らないんですけど、本を読むときに眼鏡があるとすっごく読みやすくて。本当にありがとうございます!」

 眼鏡をかけたり外したりしてはしゃぐ花音を見て、藍悠皇子は微笑んだ。

「君は、かわいい人だね」

「え?」

「いや…いいんだ。花は一から育ててこそ男冥利に尽きるというもの。花音、また来るよ」

「?」

 藍悠皇子は爽やかに笑んだまま、去っていった。



 正午。

「お腹空いたわー。この前の点心三昧、アレがまた食べたい!」

 という伯言のワガママにより、花音は後宮厨にきていた。


 裏戸から覗くと、大鍋をかき混ぜる三葉は花音にすぐ気がついた。

「あら!花音!久しぶり!」

 嬉しそうに前掛けで手を拭いてやってくる。

「この前借りた御伽草子、すっごくおもしろくて。仕事中も読めるし。ほんとうにありがとう」

 陽玉は嬉しそうに言う。


「本を読むとさ、なんかこう、お話の中に入っていって、さあーっといろんなこと体験して、そうすると読んだ後、なんかスッキリしてるんだよね。すごいよ、本って」


 目を輝かせる陽玉を見て、花音も嬉しくなった。

「それはよかった!本を読むって、いいよね」

 しばし陽玉と御伽草子の話で盛り上がり、陽玉にお呼びがかかったところでハッとして用件を伝える。

「へえ。あらそう。花音の鬼上司が点心盛り合わせ気に入ってくれたんだ。そりゃあよかった。ちょっと待ってて。すぐ用意するから」

 陽玉は快く引き受けてくれ、すぐに籠一杯の点心を用意してくれた。

 籠を返す次いでにまた本を持ってくることを約束し、花音は華月堂に戻った。

「んーいい匂い!」

 伯言はよほど早く食べたかったのか、珍しく自らお茶の準備をして待っていた。

 アツアツの点心をパクつきながら、伯言がさらりと言う。

「そういえばさあ、あんた、暗赫の依頼、どうなったのよ」

「ああ、あれは」

 翻訳はもう終わっていた。あとは渡すだけなのだが。

「お渡しする機会がないっていうか…ていうか、内侍省って行っていいものなのかどうか……」

 内侍省=宦官の園、という図式が頭にあるため、出向くのをしり込みしていたのだ。

 伯言がバカタレちゃん、と言った。

「行っていいに決まってんでしょ。取って喰われやしないから、サッサと届けていらっしゃいよ。嫌なことは早く終わらせるにかぎるわよ」

(伯言様が何かするわけでもないのに)

 とことん暗赫を嫌っているようである。

「わかりました。食べたら行ってきます」

 武官長が来るのを待つつもりだったが、上司に言われては仕方がない。花音は溜息が出ないように肉万頭を頬ばった。



 内侍省の建物は、後宮の中の皇城に近い場所にあった。

 取次を頼むと、すぐに暗赫の長がやってきた。

 相変わらずの無表情である。

「あの、御依頼のものをお持ちしました」

 花音が原書と翻訳した書付を渡すと、やはり動かぬ面のような顔で武官長は受け取った。

「かたじけない。これで、おあいこですかな」

「おあいこ?」

 怪訝に思って首を傾げると、武官長は玄関広間に掛けてある額縁を見上げた。そこには毛筆で『忠誠』と書かれている。

「我らはこの後宮の治安を預かっております。後宮は、外の法が通じぬことも多くある場所。先日の清秋殿の一件もその一例です。貴女様は、よくご存じのはずだが」

 花音は息を呑んだ。

 暗赫は、花音が七穂とかかわりのあったことを知っているのだ。

 花音の動揺などまるで無視して武官長は続ける。

「やんごとない身分の御方でも、後宮の秩序を乱すような目に余る御振舞は、お諫めするが忠誠というもの。それが皇族を、後宮を御守りする我らの務めと心得ております」

「はあ……」

 花音がびくびくと相づちを打つと、面の中の細い目がじろりと動いて花音を射抜いた。


「次はありませぬ。月夜の晩など、かの御方を、お匿いなさらぬよう」


 御免、と言って、武官長は踵を返した。

 

 背中に、冷たい汗が流れる。

 あの月夜の晩。コウが花音の裙の影に隠れていた時。やはり、暗赫の長は気付いていたのだ。あの場にコウがいることを。

 暗赫の黒い噂と、無表情な赤黒い集団が脳裏に浮かぶ。


――次は斬る。


 そう言われた気がして、花音は身震いした。



 華月堂に戻ると、伯言はいなくなっていた。

 やっと本が読める――花音が浮かれて本を取り出したのも束の間、

「やっほーセンセイ来てやったぞー」

 赤い牡丹の上衣を翻してコウがやってきた。

「……頼んでません」

 またまた楽しみを邪魔された花音は、思い切り低い声で言った。

「ていうか、なんなんですか。こんなところで油売ってないで、春の式典の準備とかしたらどうですか」

「まあまあそう言うなって」

 牡丹の上衣の下、純白の織物の懐からコウは本を取り出した。

「これ、一緒に読もうと思って。ていうか、解読できないとこがあるんだ。教えてよセンセー」

「はあ?なんであたしがあんたの……こほん、貴方様の読書に付き合わなきゃならないんですか」

「え?だってオレの専属家庭教師だろ?生徒の勉学には付き合わなきゃな」

 コウは、白い歯を見せてニッと笑う。


 花音は差し出された本を嫌々手に取り、しばし眺めて――眺めて――中を開いて目を瞠った。


「こ、こ、こここれを、どこでっ?!どこで手に入れたの?!」

 本を持つ手が震える。


 花音の手にある本は、『龍昇国古記』。


 ざらりとした質感の表革は龍の革でできていると言われ、龍昇国の謎を解く一つとされている本であり、現存するかどうかも怪しいと言われる、幻の本。


「ほ、ホンモノなの?!」

「まあ、宝物庫にあったんだからホンモノじゃないか?」

「ほ、ほほほ宝物庫?!」

 花音はコウに詰め寄った。

「なんつーところから本持ってきてんのよ!ヤバいから!重罪だから!今すぐ!!今すぐ返してきなさいよ!!!」

 するとコウはけろりと言った。

「え?いいの?読みたくないの?」

「えっ、そ、そそそれは」

「読みたいだろ?」

「…ぐ……」

「読みたいよな?」

「………この、バカ皇子!!!」

 花音としては思いっきり罵ったつもりだったが、コウの悪戯っぽい笑みに軽くあしらわれてしまった。

「じゃ、読もうぜ。どこからいこうか――」



 ただ本に埋もれ、ひたすら本を読みたいだけだった。

 それだけのために、父に嘘をついてまで宝珠皇宮にやってきた。思い描いた夢を、叶えるために。


 けれど。


 人生、まったく思い通りにならない。

 夢を追っても、思いがけない方向へ舟は進んでいってしまう。


――でも、それもいいのかもしれない。


 そんなことを思いながら、目の前の宝物級の本に心躍らせつつ、花音は窓の外を見上げる。

 今が盛りと咲く桜が、はらはらと美しく舞い散っていた。




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