第二十一話 赤の皇子

 伯言はそのまま戻らず、花音は終業の鐘が鳴るまで受付に座っていた。

 女官が一人、裁縫の本を借りにきただけ。

 花音は本を物色して、興味惹かれる本を数冊選べた。

「幸せ……父さまに嘘ついてでも宝珠皇宮にきてよかったわ」

 本を胸に抱え、花音は独り言ちた。

 入宮式からずっと、終業の鐘が鳴っても仕事をしていた。今は仕事はひと段落している。


 本を誰にも邪魔されず読み放題読む――いまこそ、その夢を実現するときがきたのだ。


 蔵書室官吏になった幸せをかみしめながら、閉室の準備を始める。

 書架の間を歩き、乱れた本がないかを点検して歩いていると、


「やっほー」

 なんと書架に立てかけた梯子の上に、コウが座ってひらひらと手を振っていた。


 仰天した花音は危うくしりもちをつくところだった。

「なななにが『やっほー』よ!!いつの間に入ったの?!」

 花音はずっと受付に座っていたのだ。

「さあな。おまえの目はフシアナなんだろう」

「失礼ねっ、だいたいあんた――」

 怒鳴ろうとして、慌てて口を押える。


 コウは、皇子殿下なのだ。


「ん?なんだよ」

「いえ、あの、その……」

 花音が言葉に詰まっていると、梯子の上でコウは大きく息を吐いた。

「その様子じゃ、オレが何者なのか知ったようだな。ま、気が付かないほうがおかしいけどな」

「なっ、言ってくれれば、いや、くださればよかったのに……よかったのです!!」

 苦しい敬語でもごもご反論すると、コウは可笑しそうに笑った。

「だから花音はボケてるって言ったろ。後宮に皇族と宦官以外、男がいるのかよ」


「あ……」

 言われて花音は衝撃を受ける。そうだ。そうじゃないか。そんな当たり前のことをすっかり忘れていたなんて。


「まあいい。そんなことはどうでもいいことだからな」

 コウは梯子からふわり、と音もなく着地した。猫科の肉食獣のようだ。

「おまえさ、ヒマなんだろ。オレの専属家庭教師になれ」

「はあ?!」

 思わず言って口を押えたが、その手をコウの手がつかんだ。

「いいよ、いつも通りで。急に敬語とか使われても、調子狂う。で、どうなんだ?オレの専属家庭教師。まあ、オレが皇子だとわかったからには、おまえに拒否権はないけどな」

 勝ち誇ったようなコウの顔を見て、花音はキッと顔を上げた。

「あ、あたしにだって仕事を選ぶ権利は……」

「権利は?」

「……ありません」

 そう。ここは後宮。そして相手は後宮の主なのだ。反抗できるわけはない。

「……あ!でも!あたしは雇われの身だし、あたしの上司は伯言様だし」

 花音はにっこり笑ってみせた。

「というわけで、あたしに決定権はありません。悪しからず」

 コウの手を振り払ってさっさと戸締りを確認し、受付に戻った。

 その花音の後ろを、唸りながらコウが付いてくる。

「そうか、伯言か……めんどうだな、あいつは。でもまあ、なんとかなるか」

 よし、とコウが勢いよく言ったので、花音は思わず振り返った。

「な、なに?」

「伯言の許可があればいいんだな」

「それは……」

 伯言が許せば、花音に否応はない。

「でも、専属家庭教師なんて、皇子なんだからいくらでもいるでしょう」

 まっとうな反論ができた。これにはコウも頷くはず。

 と思いきや、コウは肩をすくめて笑った。

「は。どいつもこいつも頭悪くてつまらない奴ばっかりでな。すぐ辞めるし。この後宮、いや宝珠皇宮にオレの家庭教師をやろうなんて酔狂な奴はいない」


――なんか分かる気がする……


 そう思った花音は、首を振った。

「だったら!あたしにも勤まるわけないですよ!!」

 コウはニヤリと口の端を上げた。

「そうでもないさ。おまえは、オレにはないモノを持ってるからな」

「は?なにそれ」

 尻とか胸とか性的嫌がらせ言ったら蹴っ飛ばしてやる、と花音が身構えると、コウ――紅壮皇子はさらりと言った。

「本に対する知識と情熱」





 数日後。


 朝、出仕すると、むっすりとした伯言が待っていた。

「伯言様?おはようございま――」

 そのとき、伯言の背中からひょっこりコウが現れた。

「よ。伯言は良いって言ったぞ」

「え?」

 なんのことだか一瞬わからず、専属家庭教師のことを思い出して花音は叫んだ。

「正気ですか伯言様?!」

「仕方ないでしょー、皇子殿下直々の御指名だし」

 扇を開きつつ、伯言は言う。

「蔵書室官吏としてもちろん働いてはもらうわよ。掛け持ち任務ってことで」

「そんな」

 だって、そうしたら、空いた時間に本が読めなくなるじゃない!!

「そ、空いた時間に講義してくれればいいから。オレ、ここにくるし。なんて親切な生徒だろうオレって」

 コウは得意げに頷く。

「ってことでよろしくな」


 どこへともなく去っていった。


「はあ……あたし、なんだか朝からどっと疲れたわ。頭痛がするから、今日はもう早退するわ。後はよろしくね」

「え?!だって始業もまだで――」

「午前中には紅壮皇子がまたいらっしゃるから。あんたはそれまでここでちゃんと受付してんのよ」

 まったく花音の言うことも聞かず、伯言は扇をひらひらさせて行ってしまった。


 空いた時間に本読み放題、閑職の華月堂――なはずだったのに。


 上司には仕事丸投げされるわ、皇子からは専属家庭教師とかムチャ振り押し通されるわ、これでは読書三昧どころじゃない。


「ぜんっぜん閑職じゃない!!!」


 花音は一人、叫んだ。

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