第二十話 華月堂にて

 東宮を辞した後、伯言と花音は華月堂へ戻った。


 お茶の支度をしながら、花音は衝立越しに伯言に話しかける。

「伯言様。なぜ、皇子殿下のお手伝いをすることが危険なんですか?」

 花音は素朴な疑問を口にした。

 華月堂所蔵の本を探し動かすのに、官吏である伯言と花音が携わるのはごく当たり前のことのように思える。

 けれど、皇子殿下は伯言と花音の身を案じていた。

 衝立の向こうで、伯言が大きく息を吐きだすのが聞こえた。

「そおねえ。ま、後宮が魑魅魍魎の棲み家だからかしらねえ」


――後宮は、魑魅魍魎の棲み家。

 コウも同じことを言っていた。


「そんな説明じゃわかりませんよ」

 花音は頬を膨らませて淹れたお茶を伯言の前に出し、自分も座ってお茶をすすった。

 伯言はしばらくお茶を飲んでから、茶器を卓子に置いた。

月詠つくよみの君、って知ってる?」

 花音は首を傾げる。四季殿の貴妃は、その四季の名で呼ばれる。月詠の君?

「さあ…聞いたことないです」

「月詠の君は、藍悠皇子と紅壮皇子の御母上、つまり皇太后様よ。もう、亡くなられているけれど」

「〈華月堂の呪い〉を撤去してくださろうとした方ですね。素敵な呼び名……あ、でも、四季殿にいた方じゃなかったってことですか」

 皇貴妃、つまり帝の寵愛を受け皇后となる妃は、四季殿から出るのが慣例だと聞いていたけれど。

「四季殿の出身ではあるのよ」

「?」

「月詠の君は、麗春殿の貴妃に仕えていた女官だったの。昔、御父上だか御爺様だかがそこそこの官吏だったという噂はあるけど、はっきりしない。後ろ盾もない、身分の低い女官だったの」

 花音は驚いた。つまり、花音のような立場の女性だったということだ。

「一女官が、皇后になるってこと……あるんですね」

「まあ、ないとは言えないけど特例中の特例よ。普通はなんの後ろ盾も身分もない女性が皇后となるなんて、有り得ない。それだけ、今上帝の月詠の君に対する想いがお強かったということね。だからこそ……禍根を残した」

 伯言はもう一度お茶を飲んだ。

「今上帝は月詠の君以外の妃には見向きもしなかったの。月詠の君がお亡くなりになった後もね。だから今も、皇貴妃、皇后の座は空席だし、皇宮に姫を入内させるなら息子たちへの輿入れだと、今上帝ははっきり仰っているそうよ。つまり、次期帝候補は藍悠皇子か紅壮皇子しかいない。どういうことだか、わかる?」

 わからない、と花音が言うと、伯言は呆れ顔で扇子を開いた。

「もう、ほんとにあんたは疎いわねえ。いい?貴族や官吏が娘を皇宮に入れたいのはなんのため?帝の妃にしたいからでしょう?」

「あ……そうか」

 月詠の君は、身分の低い、後ろ盾のない人だった。

「月詠の君がお産みになった皇子たちだから、貴族の誰も口出しできないってことですか」

「そゆこと」

 伯言はぴしっと扇子を閉じた。

「だからこそ、立太子もまだなのに貴族たちは競って後宮に娘を入れたがる。皇子たちに近付いて、後ろ盾になろうとする。あるいは――亡き者にしようとする」

 花音は、もう少しで茶器を落としそうになった。

「亡き者って、暗殺ってことですか?!」

「暗殺ってこともあり得るし、公にしてってこともあり得るわよね」

「公って、そんな」

「言いがかりをつけて罪に問うとか、まあいろいろとやり方はあるでしょう」


 この宝珠皇宮の中にそんな暗雲が立ち込めているとは、まったく知りもしないし気付きもしなかった。

 そういえば「後宮がたいへんなときなのに」と範麗耀が言ってはいなかったか。


「だから皇子殿下はあたしたちの身の上を心配してくれたのよ。藍悠皇子に敵対、もしくは取り入ろうとする者に危害を加えられるんじゃないかってね」

「でも、でもそれじゃあ」


 あまりにも、皇子たちは孤独である。


「お可哀想よね。皇子たちは。この後宮は自分たちの住まいだっていうのに、誰を信じていいかがはっきり見えない。自分の結婚相手すら、政の道具として後宮にくるわけだから、心の底から信じることはできないわよね」

 伯言は、ほう、とため息をついた。

「まあね、あたしだって、我が身は可愛いし部下のあんたの安全も守ってあげたいわよ。でもね、お可哀想な皇子のために、少し肩入れするくらいはいいかなあって。だから本探しを申し出たの。あたしたち華月堂の利にもなるしね」

 そこはちゃっかりと、伯言は言い切った。そして、片目を閉じる。

「それにね、藍悠皇子は評判もいいし、立太子の有力候補だから。紅壮皇子に肩入れするよりは安全だと思うのよ」

「えっ……」


 そうだったのか。

 そういえば、藍悠皇子は紅壮皇子の言動には手を焼いていると言っていた。


「あの……紅壮皇子って……問題児なんですか」

 花音がおそるおそる聞くと、伯言は声を立てて笑った。

「あんたも会ったでしょう。あの通りの御人よ。誤解されやすいの」

 そう言った伯言の眼差しは、どこか優しかった。弟を案じる兄のような。

 ああそうか、と花音は微笑んだ。

「伯言様は、紅壮皇子のこと、いい人だと思ってるんですね」

 ふん、と伯言は鼻を鳴らす。

「ま、悪い子じゃないわよ。ちょっとやんちゃすぎるけど」

 だから、伯言は紅壮皇子が華月堂に来ていることを黙認しているのかもしれない。  

 今までも、そして、これからも。

「引き受けたからには、多少の危険は覚悟の上よ。あんたも、そのつもりでいなさいね」

「はい」

 花音は、神妙に返事をした。

「後宮に呪いがあるっていうのはね、半分は噂話で半分は現実」

 伯言は、自ら急須を取って茶を注ぎながら言う。

「『花草子』はその現実を司るものね。昔から、後宮の女官の間では有名な本でね。表向きは植物の本だけど、毒草がとてもたくさん載っているの」

「知ってたんですか?!」

「当たり前でしょ。あたしをなんだと思ってんのよ。まあ、藍悠皇子が女装していらしたときは御真意もわからなかったからちょっとビビったけど」

「そんな――じゃあ、なんで」

「なんで、そんな本を置いておいたのかって?まあ、必要悪、ってところかしらね」

「必要悪……」

「後宮に暮らす者は妃から末の女官まで、多かれ少なかれ皆、その苦しさ厳しさを知っている。『花草子』はその苦しさを束の間やわらげてくれるものなのよ。秋妃は典型的な例だし、あの英琳という女官もそうでしょう」


 確かにそうかもしれない。

 秋妃も英琳も、してはいけないことだとわかっていても、己の行き場のない黒い気持ちを消化するために『花草子』を見ずにはいられなかった。


「でもそんな……本がそんなことに使われるなんて」

「そうね。本は、誰にでも平等に開かれた、この世でも数少ない尊いもののはずなのにね」

 伯言の言葉に、花音はハッと顔を上げた。

 女装のイケメンは、そっと微笑む。その顔の造形に似つかわしい、優しい笑顔で。


「だからあたしは、華月堂を守っていきたいのよ」

 そう言って、伯言は帰っていった。


「あたし、伯言様のこと誤解してたのかも」

 無茶苦茶なこと言うし、ムチャ振りしまくりだし、ワガママだけれど。

 本に対する熱い想いは、自分と同じなのかもしれない。


 そう思って、花音は少し胸が温かくなった。



 


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