第十九話 青の皇子
東宮、取次の間。
螺鈿の意匠も美しい
英琳の一件のとき、飛燕が現場から『花草子』を持ち帰り、藍色貴人の手に無事に渡ったことは伯言から聞いて花音も知っていた。
そして、藍色貴人が、今上帝の皇子であることも。
顔は拝見しなかったものの、あの気品はやはり、と妙に納得した花音だった。
その藍色貴人――つまり皇子に、呼び出されて東宮にやってきたのである。
「ちょっと、童じゃないんだから静かに座ってなさいよ」
伯言にたしなめられるが、お尻に敷いているこの椅子や絹張の座布団がいったいどれほど高級なのか、皇子殿下はなぜ伯言と自分を呼びつけたのか、などなどを考えると落ち着けというのが無理な話であった。
「伯言様、なんでそんなに落ち着いてるんですか。ここ、東宮ですよ。皇族のお住まいですよ」
皇族など雲の上の存在。入宮してもその感覚は変わらない。
伯言はあきれ顔で言った。
「皇族のお住まいって、そんなこと言ったら後宮自体、皇族のお住まいじゃない。あんたもそこに住んで、毎日働いているんでしょうが」
「そ、そんな、あたしが住んでいる寮と皇族のお住まいはまったく別ものですっ」
「そりゃそうだけど――来たわ」
回廊の入り口から、見覚えのある黒衣の長身が現れた。
「飛燕さん」
思わず声をかけと、飛燕は伯言に揖礼してから花音に向いた。
「怪我の具合はいかがか」
「はい。もう大丈夫です」
花音は頭を下げた。
英琳の死は、後宮の中では事故として伝えられた。
お茶の準備をしていて、誤って毒草を摘んでしまい、毒見をした女官が運悪く亡くなった、と。
毒草や毒キノコにあたって毒見の女官が命を落とすことは後宮では珍しくない。英琳の一件は不幸な事故として女官たちの間に流布し、すぐに忘れ去られた。
しかし、清秋殿では大きな変化があった。
秋妃が、体調不良を理由に里下がりを願い出て、それが許されたのだ。
里下がりといっても、皇子の御寵愛があったわけではないし、秋妃が回復する見込みもわからず、しかも娘を入内させたい貴族は多い。すぐにでも娘の入内に手を上げる貴族が現れるだろう。
事実上の退任で、清秋殿は空席になったということだ。
陽玉に聞いた話では、清秋殿の一行は女官長をはじめ皆見る影もなくやつれ、乱れた着衣のまま半狂乱で笑い続ける秋妃を輿に乗せ、逃げるように後宮を後にしたらしい。
「亡くなった女官の遺体は丁重に供養し、里へ送ることになっている。家族には見舞金と、妹御へ薬の手配もすることになっている。あの女官が安らかに天国へ召されるようにとの、主のご配慮だ」
「そうですか……よかった」
あんなにも妹のことを気にしていた英琳だ。里に帰れたら嬉しいだろうし、妹に薬が届くなら喜ぶだろう。
「あの……いろいろとありがとうございました。飛燕さんのおかげで、傷の跡も残らなそうです」
花音が言うと、伯言が扇子越しに呟いた。
「ほんとよねえ、いいお年頃なくせに、こんな美丈夫に抱っこされちゃって」
思い出して花音は顔が熱くなった。なにしろ、飛燕にずっと抱っこされて小さい子のように泣いていたのだ。
あの日、華月堂に戻ったあと、事務室の救急箱で飛燕が応急処置をしてくれた。
傷が浅かったのもあるが、まるで医師のような飛燕の手際の良さのおかげだと花音は感謝していた。
「それはよかった」
飛燕の顔に、ほんのわずか微笑が差した――ように見えた。
それはハッとするほど温かい表情で。
が、それも一瞬のこと。立ち上がり、扉を開けた飛燕の顔は、いつもの冴えた無表情に戻っていた。
「どうぞ、奥へ。主がお会いになります」
伯言が飛燕の後に続く。花音もその後ろからついていった。
美しく整えられた庭を通り過ぎ、長い長い回廊を歩いた先に、張り出した露台が見えてきた。
天然の岩を彫り磨いて造られたのだろうか。ごつごつとした岩肌に滑らかな石畳を敷き詰めた飾り気のない露台だが、どっしとした荘厳な雰囲気がある。
露台の奥には白い大理石の
その人は黒い欄干の先にもたれかかり、柔らかく落ちる滝を見ている。
飛燕が足元に寄り来客を伝えると、その人――皇子殿下はこちらを振り返って微笑んだ。
「この滝は、龍昇ノ瀧から分岐したものでね」
見れば露台の下からは、薄く霧がたっている。
「この霧を浴びると、心身にいいのだとか。お二人も、もっとこちらに来るといい」
伯言は優雅に揖礼をして、皇子の近くまで進んだ。
「……花音?」
いぶかし気に伯言が振り返ったが、花音は驚きすぎて体が動かなかった。
「う、嘘……」
滝を背に立つ、端麗な姿。
一度見たら忘れられない、精悍さと繊細さを合わせ持つ、端整な顔立ち。
華月堂の幽霊、傍若無人で奇抜な少年。
「コウ……」
信じられないが、目の前の人物はコウだ。
しかし、あまりにも印象が違いすぎた。長い髪はきちんと結われていて、藍錦の上衣に純白の織模様深衣は乱れなく着こなされている。紫瞳の双眸に宿るのも、いつもの
花音は、ハッとした。
皇子殿下は、双子ではなかっただろうか。
本の返却のため文殿を走り回った日、初老の官吏が教えてくれた。皇子は双子で、青の皇子と赤の皇子がおり、今から「赤の皇子」がお通りになる御姿を拝見するのだと。
――あのとき、皇子の御姿を見ておけばよかった。
ひたひたと冷や汗が滲むのとともに、そんな後悔の念が押し寄せる。
「コウ、とは、もしかして我が弟のことかな?」
皇子殿下は微笑み、花音に近付いてきた。
「そなたは、白花音だったね。僕は藍悠という。我が弟は紅壮というのだが……我らは双子。そなたが僕に似た者を
紅壮。コウ。名前を聞いたとき、一瞬ためらったコウの表情を思い出す。
(皇子だったんだ……)
傍若無人で尊大なふるまい、奇抜だけれど気品ある衣裳、高い知識と教養。ちぐはぐなコウのすべてが「皇子」という一言ですべて納得がいった。
花音は慌てて揖礼する。
「おそれながら、弟宮には華月堂で何度かお会いいたしまして」
すると藍悠皇子は軽く顔をしかめた。
「相変わらずふらふらと好き勝手に出歩いているらしい。あれの振る舞いには皆、手を焼いていてね。迷惑をかけなかっただろうか」
「えっ、迷惑なんてそんなことは」
と言いはしたが、コウの変態的行為が頭の片隅に思い浮かび、赤面してしまう。
「伯言。紅壮が来たら東宮に送り返してくれと言ったじゃないか。貴殿でも、雲翁でも、内侍省の武官でも、なんでもいいからあれを東宮まで連れ戻してもらわないと」
「はい。もちろん承知しております。ですが、わたくしの前には姿をお見せになってくださらないので、気が付きませんでした」
藍悠皇子の非難めいた言葉に、伯言はしらっと答える。
白昼堂々、華月堂の床に寝そべっていて、しかも初めてではない様子だったのだ。花音が入宮する前から来ているのだろう。だったら、伯言が知らないはずはない。
(まさか、伯言様、全部知っていて……)
見て見ぬふりをしていた。
そういうことなのだろうか。
藍悠皇子は軽く溜息をついた。
「まあいい。わざわざここに来てもらったのは紅壮の言動のことではないからね」
飛燕が、何かを皇子に差し出した。
臙脂色のなめらかな革表紙。『花草子』だ。
「この本を探し出してくれたことに、まずお礼を言いたい。ありがとう」
伯言が軽く頭を下げるのに花音も倣う。しかし、と藍悠皇子の顔に暗い影が差す。
「間に合わず、女官の中から犠牲者を出してしまった……いや、そなたたちのせいではない。僕がもっと早く動いていればよかったんだ」
「といいますと?」
伯言が問い返す。藍悠皇子は四阿の中に入り、伯言や花音にも大理石の椅子を勧めた。
「二人とも、気付いていると思うが、『花草子』は毒草を扱った本だ。鏧蛭の革でできていることからもわかるが、財力と権力のある者が作らせた本だろう。華月堂には、そういう類の本が実は多くある。これが〈華月堂の呪い〉の正体だ」
「華月堂の呪い……」
入宮式のときに、さんざん聞いた噂話を思い出す。
「女官たちの間でまことしやかに噂される呪いの話を聞いたことがあるだろう?」
藍悠皇子が花音に顔を向けた。
「華月堂には呪いの本があるという話。噂では持っているだけで、触れただけで呪われるというが、そんな馬鹿な話はない。本には、実際に他人を害する薬、食事、あるいは
花音は、『花草子』の項を見たときの違和感を思い出した。ただの植物見本帳にしては偏りのある詳細な内容。
あの違和感の正体は、〈殺意〉だったのだ。
「後宮に入った歴代の妃たちが帝や皇子の寵を競うために密かに作らせたその類の本は、後宮を出るときに処分される。しかし、妃に仕えている者がこっそり持っていたりすると、後々処分に困って華月堂に置いていかれた。亡き母上は、そのことに気付いて、華月堂からその類の本をすべて撤去しようとした。最近になって、僕に残された遺言の中にそのことが記してあることがわかったんだよ」
藍悠皇子は一気に話すと、どこか遠い目をして滝を見やった。
「『花草子』は中でも誰でもが手に入れて扱える毒が載っている本だ。そして、少し前から清秋殿と爽夏殿の貴妃の仲が悪いと耳にしていた。火急だと思ったので、二人に頼んでしまった。巻き込んでしまい、申し訳なかったね」
藍悠皇子が花音の腕にそっと触れた。
「もう怪我はいいの?」
その紫瞳はコウを思い出させ、花音はなぜだか焦ってしまい、顔が熱くなった。
「だ、だだだいじょうぶです!飛燕さんが、とても上手に手当てしてくださったので!」
慌てて言うと、藍悠皇子はにっこり微笑んだ。
「それはよかった。では、二人をここに呼んだ本題だが、何か欲しいものが――」
ねぎらいの言葉と褒賞を口にしようとした藍悠皇子を、伯言が遮った。
「殿下。我らは臣下としての務めを果たしたまででございます。そのような勿体ないことはなさらぬよう」
「いや、しかし」
「もし、何か我らに賜れるのだとしたら、恐れながら……亡き皇太后様の御遺言を遂行するお手伝いをさせてはもらえませんか」
藍悠皇子は驚いたように、伯言を凝視した。
「本の撤去を?しかし……しかし、それでは、そなたたちを危険に巻き込むことになる。僕は……」
藍悠皇子は言葉を探しあぐねているようだ。
それを察するように、伯言が言った。
「すべて、承知しております。けれど、我らは現在、華月堂の官吏。殿下の臣下として、御協力するのが自然ですし、実際、あの蔵書から曰く付きの本をすべて探すのは、殿下と飛燕殿だけではいささか大変なのでは」
「それはそうだが」
「それに、我らにもありがたい話なのでございます。殿下が華月堂に采配をするならば、それは華月堂が皇権直属になったと同じ事。そうすれば、他の部署はとやかく口を出せなくなります。現在、華月堂を礼部の資料保管庫にしたいという話を執拗に持ち掛けられ、困っているところでございますゆえ」
(なるほど……そういうことか。伯言様、やっぱりちゃっかりしてる)
華月堂が皇権直属になれば、礼部は何も言えなくなる。範麗耀が悔しがる顔が目に浮かぶようだ。
藍悠皇子は何か言おうと、何度か口を開きかけたが、やがて静かに頷いた。
「――わかった。では、お願いしよう」
「御意。ありがたき幸せにございます」
伯言は椅子から降り、叩頭礼をした。慌てて花音もそれに倣う。
藍悠皇子は、飛燕を傍に呼んだ。
「飛燕は僕の護衛隊の隊長で、側近でもある。いろいろと役に立つだろう。僕との連絡役はもちろん、必要ならば使ってくれてかまわない」
飛燕は軽く頭を下げた。
「亡き母上は、華月堂を特別な場所として大切にしていた。〈華月堂の呪い〉を祓うべく、ともに力を尽くそう。よろしく頼む」
そうして藍悠皇子は、伯言と花音の手を取り、しっかりと握った。
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