第十八話 哀しき真実
英琳は切り分けた葉を容器に溜めていた。脇には
その薬研近くに、開いた本が立てかけられていた。
「それ、『花草子』ですよね」
英琳は黙ったまま花音を見上げていた。
その双眸には何の感情もない。
ただ、痛いほどに澄んでいた。
「『花草子』は、ただの植物見本帳じゃない。そこに載っているのは、毒草ばかりです。その夾竹桃も……英琳さんは、それを知っていたんですか?」
違うわ、ただ興味があって。
そんな言葉が英琳の口から出てくるのを待っていた花音は、英琳の呟きの意味がはじめ理解できなかった。
「……妹は、生まれつき身体が弱くてね」
妹?
(妹って……英琳さんの?)
「宝珠皇宮は龍昇ノ瀧の水を引いているから、様々な植物を育てる植物園があると聞いたの。もちろん、後宮にも植物、それも効能のある植物を多く植えた薬草園あると聞いたわ。だから懸命に勉強して女官試験を受けてここにきたの」
英琳が自分の身の上を語っているのだと、花音はやっと気が付いた。
「英琳さん……」
「わたくしが試験の勉強をしている間、妹はわたくしの針仕事を代わりにやってくれた。わたくしの針仕事は、貧しい我が家の家計を支えていたから。でも、それがもとで胸を悪くしてしまって。わたくしが宝珠皇宮に入宮する頃には、咳が酷くて……」
英琳は立ち上がって、蔵の壁にぶら下がる干した植物をぐるりと見回した。
「ここに干してあるのは全て薬草。もちろん後宮に住まう妃嬪の方々にお出しするものよ。でも、妃嬪の方たちは贅沢な食事を摂って、優雅に過ごして、御身体の悪い方などいない。目の前にある薬草があれば、妹は回復する。迷いは、なかったわ」
「……薬草を盗んだ、ってことですか」
英琳は寂しそうに笑った。
「そうね。花音ちゃんにそう言われると辛いけど……確かに、盗んだことになる。そして、それを秋妃様御世話役の女官長に見つかってしまったの」
御世話役の女官長は、すぐに英琳を下働きから御世話役へ召し上げた。
「表向きは大昇進だから、一緒に入宮した子たちからは羨ましがられたわ。でも、そうじゃなかったの」
御世話役の女官長は、勘の強い秋妃に手を焼いていた。
いずれの皇子にと、父の意向でいち早く入内した秋妃だった。しかし、立太子がまだなため、おいそれと皇子側に接近することができない。そのため、後宮でいたずらに無為な日々を過ごすうち、秋妃の癇癪はひどくなっていったのだ。
「わたくしの仕事は、秋妃様の御乱心を宥め、お相手すること……」
誰も妃には逆らえない。要は、当たられ役だった。暴力は振るわれるまま、言われたことにはすべて従う。
「妹に薬草を送り続けたければ秋妃様のお相手をするように、と言われたの。わたくしが御世話役に入ってからは、秋妃様が御乱心すると、部屋にはわたくしだけが残されるようになった」
赤紫に変色した腕をさする英琳に、花音はたまらなくなって叫んだ。
「そんな!そんなこと、酷いです!誰かに相談すれば、きっとなんとか――」
「いいえ、花音ちゃん。相談できる人などいないのよ。後宮は、そういう場所なの。自分の身は自分で守らなくてはならない。味方なんかいない。みんな、誰かの足を引っ張ろうとして
英琳は悔しそうに唇を噛んだ。
「今からでも遅くない!英琳さん、一緒に何か方法を考えましょう!」
「……ありがとう」
ややあって、英琳は弱々しく微笑んだ。
「じゃあ、英琳さん――」
「でも、もう遅いわ」
英琳は、薬研ですり潰された夾竹桃を見下ろした。
「秋妃様に妹のことを知られてしまったの。妹を殺されたくなければ、夏妃様の御命を……だから、どうしてもやらなくてはならないの」
英琳は虚空の一点を凝視している。その瞳は、闇しか映っていないのではと思えるほど昏い。
「花音ちゃん。わたくしのこと、気にかけてくれて嬉しかった。この後宮で、束の間、温かいものに触れることができた……」
すらり、と何かが光った。
英琳が、握っていた小刀を振り上げたのだと気付いたときには、遅かった。
「ごめんなさい!」
空を鋭く斬る音が耳朶を打った。
「な、七穂さん……!」
間一髪のところで避けたものの、袖の裾が裂けたことに花音は戦慄した。
英琳は、本気で花音を殺そうとしている。
「わたくしはどうしても妹を助けなくては!ごめんなさいごめんなさい!!」
叫びながら英琳が襲いかかってきた。
「英琳さんやめて!!」
花音は必死に避けたが、とうとう部屋の隅に追い詰められてしまった。
「きゃあ?!」
頭上に振り下ろされた小刀を思わず腕で避けた。花音は部屋の隅に倒れ込み、かしゃん、という音と共に、首からかけた眼鏡が落ちて割れる。同時に、左腕に焼けるような痛みが走った。
「……痛っ」
袖口に赤い染みが広がっていく。
「ごめんなさいごめんなさいごめんなさい!!!」
目を見開いた英琳が、大きく小刀を振り下ろしてきた。
(もう駄目――――!!)
花音は、目を閉じた。
次の瞬間くるべき衝撃は、こない。
呻くような声におそるおそる目を開けると、英琳がもがいていた。両手首を後ろから押さえられている。小刀が英琳の手から床に滑り落ちた。
英琳を押さえたまま素早く小刀を後方へ蹴り飛ばした人影に、花音はあっと声を上げた。
「あなたは、藍色貴人の!」
全身黒衣、藍色貴人の護衛らしき人物だった。
「神妙にせよ。事と次第によっては
低く強い声に、英琳は抵抗をやめた。蒼白な顔で呆然としたまま、膝から崩れ落ちる。
「英琳さん!」
花音が肩を揺さぶると、英琳は虚ろに花音を見上げ、そして赤く染まった袖口をみて瞠目した。
「わたくし……そんな、花音ちゃんに何てことを……!」
「いいんです、英琳さん。とにかく落ち着いて、ここから出て――」
言いかけた花音の言葉は、英琳の絶叫にかき消された。
思わず耳を塞いだ瞬間、英琳が懐から何かを取り出して口に入れるのが見えた。
「英琳さん?!」
言ったときにはもう、英琳は身体を折って倒れていた。
「しっかりして!!」
身体を仰向けに起こすと、英琳は苦しそうに胸を押さえ、何かを言いかけて大きく息を吸い込んで――動かなくなった。
最期の瞬間、ごめんなさい、と英琳の口は動いたように、花音には見えた。
「そんな……英琳さん、どうして……」
花音は、人の死を間近に見るのが初めてだった。
どんどん冷たくなっていく英琳の手を握りしめたまま動けず、涙だけがただ溢れた。
そんな花音を引き剥がすように英琳から離し、黒衣の人物は七穂の懐を検めた。
懐からは、薬包がいくつか出てきた。
「『花草子』からすでに毒を完成させていたとみえる。戸口のあたりに複数の毒草があった。薬研にかけてある夾竹桃も毒だ。ここに充満する臭気から、かなりな量を挽いたとみえる。早くここを出た方がいい」
「でもっ、英琳さんが」
「もう死んでいる」
わかっているが、冷静に言われて花音は胸が潰れる思いがした。嗚咽が止まらなかった。
「内侍省が動く前に清秋殿に伝えねばならない。失礼」
黒衣の人物は、花音を抱き上げた。
「あ……」
何か言おうとしたが、何も言えず、花音はただ泣いたまま大きな腕に抱かれてその場を離れた。
それは幼い頃、泣き疲れて父に抱っこされた夕暮れを、花音に思い出させた。
*
黒衣の人物は花音を抱いたまま、清秋殿の回廊へ出た。
すでに夕餉の支度が始まっており、女官たちは忙しく立ち働いていたが、黒衣の人物を見ると驚いて何事か囁き合い、やがて女官長らしき
不自然に着飾った痩せた女で、濃い化粧のせいか貼り付いたような愛想笑いを浮かべている。黒衣の人物と抱かれた花音を見て驚いたようだが、それでも愛想笑いは崩さずに言った。
「これはこれは。飛燕殿。殿下から何か御急ぎの御用でもおありでしょうか」
飛燕、と呼ばれた黒衣の人物はにこりともせず、冷たく返した。
「状況をよく見ていただきたい。この女官は怪我をしている。こちらに所属する女官から受けた傷だ」
「まさか。そのようなことをする者は清秋殿にはおりません」
「厨裏の蔵を検めればわかる。内侍省が来る前に、こちらで対応を考えるのがよろしいのでは。貴殿にも御心当たりがあろう」
内侍省の名と意味含みの飛燕の言葉に、女官長の顔色が変わった。
「なお、その対応についての相談に乗るよう、殿下より申し付けられている。お困りなことあればそれがしに言っていただきたい。――失礼」
踵を返した飛燕に、慌てて女官長がとりなすように言った。
「お待ちください、ではぜひ、その女官の手当てを」
「自らの責務をか弱い女官に押しつけるような者が取り仕切る場所では、怪我人の手当てもお粗末なものとお見受けする。当方で処置するので心配無用だ」
飛燕は振り返りもせずに言うと、清秋殿を後にした。
*
「飛燕さん」
華月堂に向かう道、
「あの……ありがとうございました」
まだ涙が止まらない目で見上げると、飛燕は相変わらず無表情のまま、小さく頷いただけだった。
それを見て、なぜか花音は安心し、飛燕の腕の中で目を閉じた。
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