第十七話 異変

 花音は口を塞いでいる袖にハッとした。

 薄紫の襦に、紺色の錦。

 焚きしめられた、気品あふれる薫り。


(やっぱり藍色貴人だ!)

 しかし、この手や腕は。


(男の人、だよね……?)


 藍色貴人の衣裳は、高貴な姫が着る襦裙だ。

(女装してるってことだ…でもなんで?)


「静かに」

 囁かれた声も落ち着きのある、やはり男性の声だ。

「突然すまない。このままの姿勢で聞いてくれるかな?」

 花音が頷くと、藍色貴人はそっと花音から離れた。そうして、背中に穏やかに低い声が語りかけた。

「先日お願いした本を、取りに来たんだ。見つかったと、伯言から知らせがきたのでね」

『花草子』のことだ。

「そ、それでしたら、あたしの卓子の上に」

 振り向きかけて、花音は動きを止める。このままの姿勢で、ということは、藍色貴人は顔を見られたくないのだろう。女装までしているのだ。

「今すぐ、お持ちします」


 と言ったものの、なんとか振り返らないように横歩きなため、歩き方のぎこちないカニのようだ。


「大丈夫?窮屈な思いをさせて、申し訳ないね」

 藍色貴人は言ってくれたが声が笑っている。

 花音は恥ずかしくも珍妙な格好で、なんとか事務室の卓子まで到達した。


「……あれ?無いわ」

 卓子の上に置いておいた気がするのだが。

 抽斗の中を開けてみる。入っていない。

「うそ、ぜったいあったはずなのに…!」

 全身からどっと汗が噴き出す。すべての抽斗を開けつつ、記憶の糸を辿る。


(そういえば、昨日の夜、ここで『花草子』を置いたまま寝てしまって――)

 今朝は慌てて起きて準備をした。


『花草子』は、卓子の上に置きっぱなしになっていたということだ。


 まさかそんなことはないと信じたい、ある可能性が現実味を帯びて迫ってくる。


 衣擦れの音がして、花音の後ろに藍色貴人が立ったのがわかった。

「どうやら、そこにあったはずの『花草子』が消えてしまったようだね?」

 穏やかで落ち着いた声は、責めたり怒ったりするふうではまったくなく、事実を淡々と述べているだけだ。

 

「消えたですって?」

 扉付近で揖礼する気配がして、伯言が花音の卓子までやってきた。


「どういうこと?昨日はあったじゃない」

「いえ、それが……」

 花音は『花草子』を卓子に置きっぱなしにしたまま仕事に入ったことを伝えると、伯言に扇でぴしりと肩を叩かれた。

「ばかっ。本の扱いがなってないっ。蔵書室官吏失格よっ」

「す、すみません……」

 花音はだらだらと汗をかきつつ平身低頭するしかない。


 こんなときどうすればいいのか――頭が真っ白になってしまって、何も思いつかなかった。


「やっぱり……持ち去られたんでしょうか」

 当たり前のことを言葉にすることしかできない。

 伯言が唸った。

「でもねえ、華月堂に盗みに入る人間はいないと思うのよねえ……ここは吉祥宮よ?いくらでも煌びやかな世界が広がってるのに、こんな質素で貧相な場所を狙う盗人がいるかしらねえ。だいたい『花草子』がそこに置いてあったとして、内容が内容だしねぇ……まあ、鏧蛭ろうしつの革でできているし、知っている人間には価値のある本だけど、パッと見、誰しもが手に取りたくなる本じゃあないわよね」

「誰しもが、手に取りたくなる本じゃない……」

 伯言の言葉に、花音は雷に打たれたように閃いた。


 英琳は、『花草子』を読みたがっていた。


『花草子』は誰もが手に取りたくなる本じゃない。そのへんに置いてあったからといって、誰もが持ち去る可能性のある本ではない。その通りだ。


 でも、英琳は読みたがっていたのだ。

 そして、『花草子』が見つかったことを、英琳は知っていた。


 頭の中で目まぐるしく思考が渦巻く。

(英琳さんが仕える秋妃は、夏妃を憎んでいる……月の宴でも、ひと悶着あったばかりだし)

 英琳は、秋妃にごく近く仕えているのだろう。昨夜の「御乱心」で英琳の腕に痛々しい傷跡があったのがその証拠だ。

 夏妃に何らかの手段で危害を加えることを、秋妃はかねてから英琳に命令していた可能性がある。

 もしくは、秋妃の御乱心に耐えかねた英琳が、秋妃を――。


「英琳さん……早まっちゃダメだよ!」

 呟くなり、花音は走り出し、

「大変ご無礼ながら失礼致します!!」

 下を向いて姿を見ないように、藍色貴人の脇を通り抜けた。

「ちょっとどこ行くのよ花音!!」

「心当たりがあるんです!お叱りは後ほど!!」

 振り向きもせず叫ぶと、裙をつまむのももどかしく花音は清秋殿へ走った。



 すでに午後も遅く、雨のせいもあって暗くなりかけている。

 そんな吉祥宮の中を、花音は走りに走った。


 華月堂と清秋殿はそれほど離れてはいないが、裙を着た女官が雨の中移動するには時間がかかる。普通の女官なら、日が暮れてしまっていたかもしれない。

 足が速く生まれついたことを、こんなによかったと思ったのは初めてだった。


「ごめんください!」

 清秋殿で訪いを入れたのは、夕餉前の休憩のひとときだったため、対応に出てきた女官は口をもぐもぐしているのを隠して出てきた。菓子でも食べていたのだろう。恨めしそうに「なにか?」と聞かれ、花音は慌てて謝った。


「お休み中すみません、あたし、華月堂の官吏で白花音といいます。こちらの女官で、英琳さんという方にお会いしたくて」

 早口でまくし立てる花音にただならぬものを感じたのだろう、女官は一緒に茶を飲んでいたらしき他の女官たちを呼んで英琳の所在を聞いてくれた。

「英琳?そういえば、昼餉の後から見ないわねえ」

「あら、それなら厨の裏にある、土間じゃないかしら。あの人、秋妃様から御薬の調合を申し付けらているそうで、よく土間で薬草を煎じているわよ」

 花音は女官に飛びついた。

「どこですか土間?!」

 その勢いに気圧されたのか、女官は菓子をもぐもぐしながらも花音を殿舎内の厨まで案内してくれた。


 花音は女官に礼を言い、厨に近付いた。

 各殿舎には小さいながら煮焚きのできる厨があり、必要に応じてお茶や軽食が作られる。夕餉は後宮厨から運ばれてくるため、この時間は厨に人けもなく、しんとしていた。

 裏に回ると、食材などを保管するための小さな蔵らしき建物がある。


 そこから、わずかに、石をすり合わせる音がしていた。


 そっと近付き、扉に開いた風通しの格子から中を覗く。


 積まれた野菜や籠に入った果物、酒や味噌らしき甕がいくつも置いてある。

 土間の床に、幾種類もの植物が無造作に積まれていた。そこに、見覚えのある植物を見つけた。

(夾竹桃だ……)

 そして、夾竹桃の束を手に取り、小刀で葉と枝を熱心に分けているのは――英琳だった。


「英琳さん?」


 驚きに目を瞠った七穂が、こちらを見上げた。そうして、更に驚愕の表情を浮かべる。

「花音ちゃん」

 言った声は擦れている。

「何を……何をしているんですか」

 花音は、扉を開いた。

 

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