第十六話 鬼上司の意外な一面
「し、少々お待ちください」
とりあえず言うと、花音は書架へ向かった。
暗赫の長からの依頼で春の式典に関する資料は把握していた。そのうち、古語で書かれたものとはまさに花音が翻訳を請け負った本である。
(た、助かったー)
まずは一冊。人助けはしておくものである。
(『龍昇国風土記』中世巻…これは地理誌だわ)
伯言がいい加減な仕分けをしていたので、分類ごとの場所はだいたいわかっていた。記憶を頼りに書架を数列うつると、地理誌の書架はすぐわかった。
『龍昇国風土記』は近世頃まですべて背表紙が古語だが、古語が読める花音は迷うことなく中世巻を取る。
『五国正史』神々の祭礼の記述のある巻を後回しにしたのは、古代の即位礼の記録が年代史の書架の隅に置いた記憶があったからである。
そして、花音の記憶は正しかった。
年代史の書架で 二冊を取ると、花音は大急ぎで範麗耀のところへ戻った。
むっすりと座る伯言、勝ち誇った顔の範麗耀。受付の長卓子の周囲は近寄るのも恐ろしい雰囲気だ。
(遅いって嫌味言われるかな…でもっ、言われたものは揃えたから)
嫌味を言われたらひたすら謝るしかない。
「範次官!お待たせして申し訳ございませんです!!」
緊張のあまり敬語がおかしくなりつつも、花音は本を差し出した。
「ご入り用の本、これでよろしいでしょうか…?」
範麗耀が本を取った。ホッとして少し顔を上げて花音は息を呑む。
(もしかして本間違えた?!)
全身が痺れる思いだったがもう遅い。範麗耀は受け取った本をしげしげと眺めてワナワナ震えている。
――叱責される……
範麗耀からも、伯言からも。
そう覚悟して、ぎゅっと目を閉じた、そのとき。
「これはどうも」
範麗耀が怒ったようにボソッと呟いた。
「範次官…?あの、本間違えていたらすぐに探し直してきますので――」
「うるさいわねっ、もういいわよっ」
神経質に怒鳴った範麗耀を尻目に、今度は伯言がフフンと鼻を鳴らした。
「うちの新人がお役に立ってようございました。範次官が雨の中、わざわざ華月堂にいらしたのも、短時間で必要な資料を揃えられる者が優秀な礼部にもいなかった、ということでしょうからなあ」
伯言の言葉に顔を赤くしたり青くしたりしている範麗耀に、さらに伯言は言い放った。
「なかなか使える新人でしょう?ご入り用あらば、またいつでもどうぞ」
花音がぽかんと立ち尽くしていると、ぺしりと扇子が頭のてっぺんを叩いた。
「魔物退治、よくやったわ」
「あのう…本、あれでよかったんでしょうか…?」
伯言は澄ました顔で答えた。
「ま、ちゃんと新人研修したんだからできて当たり前よね」
花音はハッとした。
確かに、伯言の仕分けはテキトーだったし三日で全返却はどう考えてもかなりなムチャ振りだったが、それによって分類の場所をほぼ覚えられたのは事実だ。
結果、意地の悪い注文にも叱責を受けたり恥をかかずに済んだ。
(伯言様、それを狙ってあえてのムチャ振り…?)
もしかしたら、鳳伯言は、そんなに嫌な人物ではないのかもしれない。
「伯言様…」
ちょっと感動した花音がありがとうございましたと言いかけたとき、伯言が扇子をせわしなく扇いで舌打ちした。
「それにしても相変わらず嫌な女ねえ。花音っ、早く塩撒きなさいよう。もう、気がきかない新人ねっ」
伯言はそう言うと、さっさと事務室に戻っていく。
「なっ、気がきかないって!!」
いつもの伯言の言い様にムッとした花音だが。
「ま、いっか」
いつもより腹も立たずに、塩の壺を事務室へ取りに行ったのだった。
*
その後は、書架を磨きながらシトシトと降る雨を眺めて、時間が過ぎた。
範麗耀の襲来で一日の気力を使い果たしたような気がしたが、それでも本を見ると心躍る。
伯言は相変わらず事務室にいるので、花音は書架を磨きつつ、心ゆくまで本を物色した。
(すごい…なにこの
読んでみたかった歴史書や、興味深い珍本まで、手に取る本すべてが読みたくなる。
持って帰るのは職権濫用になるけれど。
(ここで読めば問題ないわよね)
花音はホクホクと、本を開いた。
どれくらい、時間が経っただろうか。
「?!」
項をめくるのに夢中になっていた花音は突然後ろから口を塞がれた。
(こ、声が出せない!)
相手は片腕で花音の口を塞ぎ、もう片腕で花音の身体を抱きこんでいる。
必死で抵抗しようとした、そのとき。
「静かに」
耳元で囁かれた。
ふいに、芳しい香りが薫る。
(藍色貴人?!)
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