第十五話 範麗耀再び
次の日は、雨だった。
春の雨は温かく、新緑を柔らかくするというが、今日の雨は肌寒く感じる。
そのせいか昨日とはうってかわって、華月堂は閑散としていた。
ただでさえ雨の日は後宮の女人は外出を極力控える。回廊で繋がれていない宮や殿舎を渡り歩くと衣裳の裾が汚れるからだ。
もちろん、女官や下働きの宮女は雨でも風でも嵐でも関係ないのだが。
そんなわけで、花音は受付に座りつつ裙の汚れを手拭で一生懸命落とし、伯言は事務室の卓子の上に化粧箱――見事な
決して、職務怠慢なわけではない。
花音と伯言は――というか花音が――堂内を掃除し、書架の本の乱れを直し、きちんと準備をして刻限通りに華月堂の扉を開けたのだ。
ところが、まったく人が来ない。
そのうち伯言が「ちょっとだけ事務室で仕事するから、ここお願いね」と席をたった。最初は一人で緊張して座っていた花音だが、伯言はいっこうに戻ってこない。
気になって事務室の中を覗き唖然とした。
伯言は、鼻歌まじりに化粧箱の整理をしていたのである。
(いつの間に化粧箱なんて持ち込んで……ていうか螺鈿細工なんてすごい高級品……ってそうじゃなくてっ、仕事じゃないじゃんあれ!!)
腹が立ったが鳳伯言の傍若無人っぷりに早くも慣れてしまった花音は、事務室の扉をそーっと閉めた。それからふかーい溜息とともに怒りを吐き出し、ああそういえば今朝は裙が汚れたなあと思い出し、手拭を取り出した。
「むむむ……落ちないわ。やっぱり濡れてすぐに落とさないとダメかあ」
ぶつぶつと独り言をいいながら身を屈めて懸命に汚れをはたいているときであった。
「おじゃましますわ」
取り澄ました声に顔を上げた花音は、ぎょっとした。
「範次官……」
「あら、覚えていてくださったの。白花音殿」
吊り上がった目が、にい、と笑った。
「仕事の資料となる本を探してきたの。手伝っていただけるかしら?できるわよねえ。どこぞの田舎からきた礼儀作法も知らない方とはいえ、鳳伯言殿が華月堂の命運をかけて採った新人ですもの」
「華月堂の…命運?」
花音がきょとんとしていると、範麗耀は口の端を上げて呆れたように言った。
「あらあら、知らないのあなた。ここはね、本当は礼部の資料保管庫になるはずだったのよ」
「……え?」
「何か御用ですかな、範次官」
振り向くと、事務室から伯言が出てきたところだった。
「こんな足元の悪い日に範次官自らわざわざお越しいただかなくても、必要な本があるなら遣いを出していただければお届けしますが」
わざとらしい抑揚をつけた伯言の言葉は、慇懃無礼そのものだ。
しかし、範麗耀も負けてはいない。
「あらあ、それはお断りしますわ。裙の裾を上げて文殿を走り回られても困りますもの」
二人の次官の間に冷たい火花が見えるようで、花音はハラハラしながら双方を見た。犬と猿。虎と竜。互いに譲らない強者同士のにらみ合い。
そんな花音を範麗耀は細い目の端でチラッと見やった。
「それより、鳳次官。優秀な新人を採って、華月堂の利用率を皇宮内の他の蔵書楼や蔵書閣と
閑散とした華月堂をわざとらしく見回して、範麗耀は口元だけで笑んだ。
「
(す、すごい……あんなにぺらぺらと淀みなく嫌味を言えるなんて)
軽く侮辱されたにも関わらず、花音は感心してしまった。伯言と対等に会話ができるはずである。
その伯言は黙って範麗耀の言葉を聞いていた。扇を取り出し、口元を隠しているため表情がわかりにくいが、その座った目がすべてを物語っている。
(こ、こわい伯言様)
何かが爆発するのではと花音がどきどきしていると、伯言が静かに言った。
「長い話でしたが範次官殿、御用件を具体的にどうぞ。我らは確かに他の部署より時間的余裕があるかもしれませんが、貴女のお相手ができるほどにはヒマではありませんので」
(また言い返しちゃってるし伯言様!!)
範麗耀が怒鳴り出すのではないかと、花音は気が気でない。それほどに場の空気は冷たく張り詰めていた。
ムッとした範麗耀は怒鳴りはしなかったが、花音を横目でちらりと睨んだ。
(ひっひえええええ)
怯える花音を見て、範麗耀はにたあ、と嗤う。
「では、さっそくお願いしますわ、白殿。春の式典に関する古語資料、『五国正史』の神々の祭礼の記述のある巻、『龍昇国風土記』中世巻、それと即位礼に関する過去の記録で古代のもの――ほんのこれだけですもの、すぐ用意して下さるわね?ああ、でも古語が読めないとちょっと難しいか知らねえ。まさかそんなことはないと思うけれど古語が読めなかったら遠慮なくおっしゃってね」
範麗耀が言った資料や本は、すべて古語で書かれたものである。
古語が堪能でなければ、今この場ですべてを揃えるのは無理な話だった。
また、古語ができたとしても、配属されたばかりの新人が瞬時にできる仕事とは思えない。
(ええっと……つまりこれは嫌がらせ???)
花音はだらだらと全身からヘンな汗が噴き出すのを感じつつ、伯言を見上げた。
むっすりと黙った伯言は舌打ちしそうな表情で扇子を閉じ、書架へ向かおうとしたが、すかさず範麗耀が言った。
「あーら鳳次官、わたくしはこちらの白殿にお願いしたのですよ。なにしろ、あなたが自信を持って朝議で無理を通してまで採用した期待の新人ですもの、できますわよねえ」
場の空気が凍り付く。範麗耀は、さながら獲物を捕えた大蛇のように、うっそりと双眸を細めた。
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