第十四話 華月堂、開室

「……のん。花音」


 どこかで、誰かが呼んでいる。

 父さんだろうか。また本を読むなと叱られるかもしれない。


 綺麗な衣裳も、美しい簪もいらない。嫁になんかいかない。

 あたしは、ただ――。


「んん……むにゃ、本が読みたい……」


「あんたが本読んでてどうすんのよこの大ボケちゃん!!!」


 耳元で怒鳴られ、花音は飛び起きた。

「えっ……ええ?!」

 眠い目をこすり、周囲を見渡す。

 どう見ても、ここは女官寮の自室ではない。

 「ここは……華月堂よね??」

 事務室にある、自分の散らかった卓子だ。


「なっ、なんで」

 回らない頭で必死に考えて、腕の下に敷いた『花草子』を見て、思い出す。女官寮に戻ろうとして、『花草子』を手に持って、そこからの記憶がないことを。


(ここで寝ちゃったんだ!!)

 そして今、事務室の窓からは朝の陽射しが眩しいほど降り注ぎ、花音の脇には怖い顔をした鳳伯言が立っている。


「今日から開室だっていうのに、なんなのそのザマは!!」

 漆黒の高官服をパリッと身に付けた伯言に言われては、何も言い返せない。

「す、すみません……」

「すぐに顔洗ってらっしゃい!!急いで準備よ!」

「はいっ」

 花音は慌てて、衝立奥の水場で顔を洗ってできるだけの身支度を整え、蔵書室へ走った。

――『花草子』を卓子の上に、そのまま置きっぱなしで。



 高窓を開け、書架の埃を払い、梯子を拭き、床を拭き、閲覧用の椅子をきちんと並べ終わったとき、始業の鐘が鳴った。

「終わりました」

 花音が報告に行くと、伯言は薄墨色の扇子を広げて扇ぎつつ、蔵書室を見渡した。

 清められた室内に春の朝陽が差し、空気までもが清浄に感じる。

「ま、いいでしょ」

 伯言は受付の長卓子に入り、扇子を小気味よく閉じた。

「華月堂、開室よ」



 午前中、四季殿の女官らしき人々が大勢訪れた。皆、貴妃のための本を探すためであろう。

 もちろん清秋殿の一行もあり、その中に英琳がいた。

「花音殿」

 英琳が嬉しそうに声を掛けてきた。

「花音でいいですよ、英琳さん」

 そういうと英琳はほっそりした顔にえくぼを浮かべた。

「じゃあ…花音ちゃん。おじゃましますわ。今日からですのよね」

「はい。あの、秋妃様に本をお選びに?」

「ええ、まあ……」

 なぜか英琳は曖昧に微笑み、それから声を低めた。

「ところで花音ちゃん、あの本は、見つかって?」


 花音はドキリとした。「あの本」とは『花草子』のことだろう。


「それが、実は――」

 花音は、事情を話した。

「そう。――それは仕方がないですわね」

 そう言いながらも英琳は目に見えて落胆している。花音は慌てて言った。

「あっ、でも、その御方にはなるべく早く返していただけるよう、お願いしますから!その代わりといってはなんですが、華月堂には他にも変わった植物の本がたくさんあるんですよ!」

 そう言って、英琳を書架へ誘おうと、その白い手を取って――花音はぎょっとした。


 英琳の陶器のように白い手や腕に、赤紫に変色した痣がいくつも見えたからだ。


 英琳は慌てて手を引っ込めた。

「英琳さん、その痣……」

「なんでもないですのよ。そうそう、変わった植物の本というのは、どんな本ですの?」

 いそいそと書架を眺める英琳に尚も聞こうとして、他の女官たちがやってきたので、それ以上痣のことを追求できなくなった。


「あら、変わった本ってなあに?わたくしたちも見たいわ」

 どやどやと女官たちがやってきたので、花音は後ろ髪引かれる思いで本の紹介をする。


「ええっと、こちらの書架には植物関係の本がありまして、こちらには一般的な植物図鑑がたくさんあります。挿絵が美しいものばかりです。変わったものですと、こちらに、植物を使った占いの本や、香りの効能についての本などがあります」

「見て、恋占いですって」

「想い人に振り向いてもらえる香りの煎じ方……惚れ薬ですって!あたしが読みたいわ、この本」

「ねえ、これ一冊しかないの?」

 女官たちに詰め寄られ、対応に追われながら、花音は英琳の姿を目で追った。


 きゃあきゃあ騒いでいる女官たちの輪から外れて、英琳は一人、書架をじっと睨むように見ている。

 そこに置いてあるのは、植物の煎じ方の本だ。

(やっぱり、植物を使って何かをしたいんだ)

 花音は確信した。



 正午の鐘が鳴る頃には、花音はぐったりしていた。

「お疲れちゃーん」

 伯言が受付で扇子をひらひらさせている。

「やあだ花音、午後もあるのよ。そんなに疲れてだらしない。死んだ魚みたいな顔になってるわよ」

「~~~~~!!」

 ずっと受付で優雅に座っているだけだった伯言を恨みがましく睨みつけたが、鬼上司は涼しい顔でさらに仕事を言いつけてきた。

「後宮厨で、お昼を調達してきてちょうだい。なんでもいいけど、辛い物はやめてね。お肌のことを考えると、野菜中心のものがいいわ。あ、でもあたし、人参と牛蒡と韮は嫌いだから。それから、口のまわりが汚れそうなものもちょっとねえ。とにかく、お腹空いたから美味しい物を持ってきてちょうだい」


(なんでもいいんじゃないんかいっ)

 心の中でツッコミつつ、花音は籠を持って後宮厨へ向かった。

 籠には、陽玉へ持っていく本が入っている。

(喜んでくれるといいな)

 そんなことを考えている自分に花音は驚く。これまで、一人で読書に明け暮れてきた花音にとって、誰かに本を勧めるというのは初めてのことだった。


 本の楽しさを誰かに伝えることができる。それがこんなに心躍ることだなんて。


 そんなことを思いながら、後宮厨の裏口へ回った。 

 お昼時、厨の中は火の車のような忙しさだったが、陽玉はまた花音の姿を見つけて戸口まで来てくれた。

「昨日の包子、ごちそうさまでした。すっごく美味しかったぁ」

 花音が言うと、陽玉は笑った。

「そんなにキラキラした目で言われると、また作ってあげたくなっちゃうねえ。あれ?」

 籠の中の本を見て、今度は陽玉の顔がキラキラと輝いた。

「これ、あたしに?」

「はい。空いた時間に読むのにちょうどいいかな、って思って」

 陽玉は本の項をそっとめくり、栗鼠りすのように愛らしい顔を嬉しそうに綻ばせた。

「『諸国御伽噺』かあ。御伽話って大好き。これなら手の空いたときに読めて、鍋が噴いたりしてもすぐに読むのをやめられる。あたしにぴったりだよ、ありがとう花音」

 陽玉はふっくらした手で花音の手を握り、「ところで、お昼調達にきたんじゃないの?何がいい?何でも言ってよ」

 と片目をつぶった。

「ええと……それが」

 花音が申し訳なさそうにワガママ上司の要望を伝えると、陽玉は苦笑しつつも胸を叩く。

「ほんとうに嫌な上司だねえ。ちょっと待ってな。花音がいびられないような物を見繕ってくるから」


 陽玉が厨の中へ入っていき、花音は邪魔にならないように戸口の脇に立っていると、数人の女官が薪を取りにきた。

 花音はなんとはなしに立っているだけだったが、薪の山を間に挟んで、女官たちが話しているのが聞こえてきた。


「……でね、昨日は輪をかけて御乱心だったらしいよ」

「ひえええ、怖い。有名だもんね、秋妃の御勘気ごかんきは」

「お側付きの女官がひどい怪我したってさ」

「ううう、お側付きって役得多いし羨ましいけど、貴妃の御気性にもよるよねえ」

「しっ、女官長とかに聞かれたらまずいって」


 女官たちはそそくさと厨に戻っていった。

 花音は、その場に立ちつくしていた。脳裏に、英琳の痛々しい痣が思い浮かぶ。

(あれは、たぶん秋妃様の御勘気のせいで)

 しかし、あのおとなしそうな英琳が秋妃の機嫌を損ねるようなことをするとは思えない。

 そのとき、陽玉が戸口から出てきた。

「お待たせ、花音。点心盛り合わせなら、あんたの鬼上司も気に入ってくれると思うから」

 ほかほかと湯気の上がる籠を持ってきた陽玉に、花音は思い切って聞いてみた。

「陽玉さん。昨日って、四季殿で何かあった?」

「四季殿で?ああ、月の宴ね。爽夏殿と清秋殿のいつものいざこざでしょ」 

 陽玉が語ってくれた話は、こうだ。


 昨夜は、仁寿じんじゅ殿で月の宴が催された。

 仁寿殿は皇帝や皇后より、皇子・皇女主宰の行事が多く、昨夜の月の宴は名目上は皇子の主催であり、御簾みす越しではあるが双子の皇子――兄君の青の皇子、弟君の赤の皇子が珍しく揃っていた。

「でねえ、お二人とも揃っているっていうんで、各殿舎の貴妃様は競って皇子様方に宴の品を献上したらしいんだけど――」

 秋妃が爽夏殿の品を遠まわしに悪く言ったらしい。

 もともと爽夏殿と清秋殿には確執があるそうで、双方に険悪な空気が流れた。

 すると、赤の皇子が急に退席してしまった。

 一瞬騒然となったが、青の皇子のとりなしもあり、宴は滞りなく続けられたらしいのだが。


「赤の皇子が『茶番だな』って言ったのを、聞いたっていう女官がいてね。赤の皇子が夏妃をかばった、侮辱された、って秋妃様が御乱心したらしいよ」

「え?なんでそうなるの?」

 思わず言うと、陽玉も首をひねった。

「さあねえ、深窓のお姫様のお考えは、あたしなんかにはわからないけどさ。秋妃様は後宮の生活に慣れなくて、少し心を病んでいらっしゃるって噂だよ」

「そうなんだ……」

 

 胸の中がざわり、とする。


 心を病んだ妃に仕える女官が『花草子』を読みたい理由を考えると、あまり良い理由は思い浮かばない。


 陽玉に礼を言って、花音は急ぎ足で華月堂に戻った。



 陽玉の言う通り、伯言は点心盛り合わせを大絶賛し、

「今日までのあんたの仕事で一番いい仕事っぷりよ!」

 とまで言った。

 仕事という意味では、これは陽玉の仕事なので花音としては複雑な心境だったが、鬼上司に初めて褒められて悪い気はしない。

 午後もそこそこに来室者が多かったが、疲れも忘れて気持ち良く仕事ができた。


――英琳がやってきたのは、午後も遅くなってから、もう西日の色が濃くなり始めてからである。


 花音は他の女官の本探しを手伝っていて、最初は英琳に気が付かなかった。

「あちらに、貸出帳がありますので、御名と所属を記入していただけますか」

 そう案内して別の仕事をしようとすると「受付に誰もいない」と言われ、いつの間にか伯言がいなくなったことに気付き、あたふたと書架と受付を行ったり来たりしていたとき。


 受付で貸出帳の記入を点検していて、ふと顔を上げると、英琳が出ていくところだったのだ。


「英琳さん」

 花音はごく普通に言ったつもりだったが、少し声が大きかったかもしれない。目に見えて英琳は肩をぎくりをさせた。

「か、花音ちゃん」

「どうしたんですか?午前中、良い本見つからなかったですか?」

 最後に見た英琳は、書架をじっと睨んでいた。再び来たということは、本を借りられなかったのかもしれない。

 しかし陽玉にあんな話を聞いてしまった今となっては、英琳に『花草子』を貸すのは気が引ける。


「英琳さん、あの……」

 花音は、思い切って言った。

「余計なことかもしれないんですけど、あたしでよかったら、愚痴でもなんでも言ってください!」

 英琳は、びっくりしたように花音を見つめた。

「秋妃様のこと、少し聞いたんです。さっきの七穂さんの腕も……そういうことなんですよね。辛いと思います。だから、一人で悩まずに、あたしなんかでよかったら、いつでも話聞きますから!だから――」


 早まらないでください、と言おうとした花音の手を、英琳がそっと握った。

 袖が上がり、赤紫に変色した痛々しい痣が見える。


「ありがとう。うれしいわ。ほんとうに」

 英琳は、弱々しく微笑んだ。

 弱く、たおやかだけれど、決して折れることのない意志。

 英琳の表情には、それ以上言葉をかけられない何かがあった。

 だから、花音はそれ以上何も言えず、英琳が静かに出ていくのを見ているしかなかった。

 華月堂の扉が目の前で閉じ、幾何学模様の見事な意匠が現れる。

 ほどなく、終業の鐘が鳴った。

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