第十三話 『花草子』

「毒草?! なにそれ――」

 聞き返そうとしたが、コウはまたも風のようにふっといなくなってしまった。

「もうっ、いきなり現れてなんなのよっ」

 嵐のように去ったコウに腹を立てつつ、コウが言い残したことが耳の奥に引っかかった。

「毒草本って、『花草子』のこと?」

 もちろん誰からも返答はなく、花音は所在なくその場に立ちすくむ。


 楽の音はいよいよ賑やかに響いてくる。

 月明かりはいよいよ明るく、煌々と堂内を照らす。


 花音はしばらく立ちつくしていたが、やがて大急ぎで書架に向かった。

「確か、植物関係の本がこの辺りにたくさんあったはず」


 ここ三日間の返却作業で、どこにどのような本があるかを覚えていた。


 もともと、一度見た本は忘れない、という特技を持っている花音だが、伯言がいい加減に分類して違う印の本が混ざっていたため、何度も書架の間を行ったり来たりしているうちに、書架の分類から本の種類までほぼ頭に入ってしまったのだ。


 目当ての書架から植物の効用について載っている本をいくつか取り出し、『花草子』を開く。


 それらの本と『花草子』を照合していくうちに、花音の顔色が変わった。


「これも……こっちも。みんな毒草だわ」


『花草子』に載っている植物は、すべてが毒草だった。


 量を加減すれば薬になるものから、少量口に入れただけで命にかかわるものまで、じつに様々な毒草が載っている。

 夾竹桃や福寿草、樒といった、民家にも、この後宮の中でさえ植樹されているお馴染みの植物も毒草なのだということに、花音は驚愕した。

「あいつが言った通りだった……」

 目を通しただけで毒草ばかりだと気付いたコウの博識に内心舌を巻く。


「いったい、何者なのかしら」


 思わず見惚れてしまう美麗な容姿に、おそらく一流であろう知識と教養。

 上流貴族の子弟であることは、間違いないだろう。


「でも……奇妙よね」

 上質そうだが着流した衣裳、その上にまとった派手な上衣――とてもまともとは言えない奇異な格好で、おまけに神出鬼没だ。


 そして、この世のものとも思えない、美麗な容姿。

 無造作にまとめたさらりとした黒髪。精悍で、けれども鼻梁や口元は非の打ちどころのない繊細な造りなので、男ながら端麗な顔立ち。そして、一度見たら忘れられない、紫色の双眸。


「や、やだやだ!なんであんな奴のこと考えてんのかしら。もう二度と会うこともないわ、きっと。そんなことより仕事仕事」

 なぜだか慌てて自分を叱咤し、花音は本を書架に戻し、『花草子』を抱えて事務室に戻った。

「あたしは官吏。本が相手の蔵書室官吏よ。閑職だろうがなんだろうが、実家では果たせない理想郷をここで実現するんだからっ。余計なことは考えない、考えない」

 頭をぶるぶる振って、『花草子』を掲げる。

「これのことも。任務は完了したんだから、とりあえず、これはお渡しまで保管しておけばそれでよし!」

 言い聞かせるように叫び、『花草子』を抽斗ひきだしに入れようとして――手が止まった。


 蔵書室官吏である花音の仕事は、訪れた人が希望する本を貸し出すこと。余計な詮索は無用だし、下手をすれば職務に反する。


 わかっている。わかってはいる――けれど。


 藍色貴人は。

 英琳は。

 なんのためにこの本を借りようとしているのだろうか。


「ていうか……」

 花音は眉をひそめる。この本に載っていた植物は薬になり得るものもあったが、ほとんどが毒で、動物や妖獣、人に害があると明確に記されていた。害獣駆除のためか、その調合や処方の仕方まで書かれている。


 それは、人の命を奪う方法にもなり得る。


 こんな危険な本が、なぜ後宮の蔵書室に?


 そこまで考えたとき、花音の脳裏に、入宮式で聞いた噂話がよぎった。

(華月堂には呪いの本が置いてあって、それを使って呪殺された妃の怨霊が今も夜になると出てくるとか…)


「ま、まさかね」

 ごくりと唾をのみこむ。


 月明かりに照らされた臙脂色の装丁が、急に禍々しいものに見えてくる。


「気のせい気のせい」

 花音は首を強く振り、立ち上がった。

「そ、そうだわ!翻訳しなくちゃ!」

 そそくさと蔵書室から辞書と故実書を持ってきて翻訳を始めた。

 近く行われる春の式典、その警護に関する箇所だけだと暗赫の長は言っていた。春の式典について項をめくっていく。

「近く行われる春の式典は……春季龍昇殿祭ね」

 龍昇殿で春と秋に行われる式典で、帝が国の安寧を龍神に祈り、龍昇ノ瀧の水で作った酒を臣下に賜るという儀式である。


 ところどころ辞書を引きつつ順調に翻訳を終え、辞書を書架に戻すついでに三葉へ持っていく本を選んだ。


 事務室に戻り、包子の籠に本を入れていれながら卓子の上の臙脂色の本が気になってつい手に取ってしまう。

 手に吸い付くような鏧蛭の革の質感に、「呪いの本」という言葉が再び脳裏によぎる。

「まさかまさか!ただの植物の本よ、これは」

 自分に言い聞かせるために座って本を開く。美しい挿絵。詳細な植物の――その毒性についての――説明。危険な本のはずなのに、魅力的な。


 なぜだか、ふっとコウの顔が思い浮かび――そのまま、花音は深い睡魔に襲われた。





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