第十二話 月下騒動

 い月が出ている。


 ほんのりと朧に霞んだ、黄色い月。さきほどよりも高く上った月を愛でるように、どこからか、楽の音が響いてくる。いくつかの旋律が混ざり合い、それがまた美しく響き合っていた。

 おそらく、四季殿では、いずれの殿舎でも月の宴が催されているのだろう。


「終わったわ……」


 月明かり差す堂内を見渡して、花音は満足気に頷いた。


 絶望で幕を開けた出仕初日から三日。堂内を埋め尽くしていた本は、すべて書架に戻った。

 つまりは、開室に間に合ったのである。

 意地と根性で鬼上司のムチャ振りをなんとか乗り切ったのだ。


「我ながらよくやったわ。お疲れさま、あたし」

 痛む肩や腕をさすりつつ、花音は受付の椅子に腰かけた。

「明日はここに座って、そこの扉から入ってきた人に挨拶して……本を借りる人にはこの貸出帳に記入してもらうのよね。ああ、やっと官吏らしく机に向かう仕事ができるのね」と喜びをかみしめる。

 もう女官寮に帰ってもいいのだが、この充実した疲労感と彼方かなたから響いてくる楽の音に心地よく浸っていたかった。


「あ、そうだ!」

 陽玉から持たせてもらった夜食を思い出し、いそいそと事務室から籠を持ってきて長卓子の上に置く。

 布巾を取ると、黒糖の香りがふんわり漂う。思い出したようにお腹がぐぅと鳴り、包子ぱおずを頬張った。

「んー、美味しいぃ!」

 冷めても美味しいという陽玉の言葉は本当だった。ほどよい甘さの黒糖風味の皮に、炒めた野菜や肉餡が入っている。四つあった包子を、花音はぺろりと平らげた。


 整然と片付いた堂内に、月明かりが静かに入る。書架に収まった本も、本来あるべき場所に戻って落ち着いているように感じた。


 美味しいものがあって、たくさんの本に囲まれて。

「幸せぇ。まさにここがあたしの理想郷だわ」

 水筒を飲んで一息ついた花音はしみじみと幸福感に浸りながら、急に立ち上がった。


「そうだわ!本を読もう!」

 こんなにたくさん本があるのに、一冊も読んでいない。

 思えば、本を読まない日がない花音にとって、ここ数日は読みたいのに読めないという拷問の日々だった。

「ついでに翻訳の準備もしておかなくちゃ」

 念のため古語の辞書を禁帯出の書架から持ってきて式典の本と一緒に揃えておく。

 そうして首から下げた眼鏡をかけ、どれを読もうかと書架の間をうきうきと物色しながら、ふと『花草子』のことを思い出した。


 鏧蛭ろうしつの皮で作られた本。それだけでも興味をそそられる。


「やんごとない御方に貸す本を、先に見ちゃうのは不敬かしら……」

 しかし、藍色貴人の遣いは明日来てしまうかもしれない。


 少し迷って、花音は事務室の抽斗から『花草子』を持ってきた。


 手袋などという高級なものは持っていないので、手拭てぬぐいで項をめくる。

 鏧蛭の革でできた項は滑らかで柔らかい。ところどころに古語の文章もあるのでかなり古い本だと思われるが、項に皮特有のひび割れや縮みはなく、扱いやすい。

「図鑑、というより、見本帳かしらね」

 項の多くに、押し花にしたり乾燥させたりした実物らしきものが、玻璃に覆われて貼り付けられている。なかなかに凝った作りだ。

「夾竹桃、福寿草、しきみ……うーん、なんだか地味な顔ぶれね」

 薔薇や牡丹や百合や菊。後宮で人気のありそうな煌びやかな花は見当たらない。

「通好みの本なのかしら?後宮に入るお姫様ともなると、普通の花は見飽きているのかしら」

 変わった植物が見たい、という需要に応えた本なのだろうか。

 そんなことを考えていたとき。


 突然、扉の開く大きな音がした。


 驚いて飛び上がった花音は、扉から入ってきた人物を見てさらに驚いた。


「こ、この前の幽霊!!」


 ゆらり、と動いた人影は、やはり白と薄鈍うすにびの衣裳を着流し、今日は男性物の上衣を羽織っていたが織模様の入った紅色の派手なもので、相変わらず奇怪な格好だった。

 月明かりに照らされた精悍美麗な顔。さらりとした黒髪、大きく見開いた紫瞳。まぎれもなく、この前の幽霊男だ。


「あっ、おまえはー、発展途上なヤツだ!」

 何が可笑しいのか楽しげに笑いながらよろよろと歩いてきて、

「ちょっ、ちょっとちょっと!!」

 いきなり花音に覆いかぶさってきた。


「ちょっとっ……おおお重いっっ!!」

 自分より頭一つ分以上は身長のある男がいきなりしな垂れかかってきたのである。支えきれず花音はよろめいた。

「なんらよー、重いとはしつれいだなー」

 懸命に奇怪な男を支えつつ、花音はうっと顔を背けた。

「くさっ、酒臭いっ」

「そうかにゃー?ちょっとしか飲んでないんだけどにゃー」

「はあそうですか……ってにゃーってなによにゃーって!っていうか、そういう問題じゃないっ!!」

 花音は必死に相手をなんとか立たせて、ゆさゆさと肩を揺さぶった。

「本が酒臭くなるっ!ここは酒気帯び厳禁ですっ、即刻出てってくださいっ」

 花音が厳しくいうと、奇怪な男は不敵な笑みを浮かべて花音の肩に手をかけた。

「オレ様に命令するとは、いい度胸してるにゃー」

「にゃーって……っていうか、臭いっ。何様ですかあなた!!とにかくここは蔵書室ですよ?酒飲むところじゃあ――」


 そのとき、肩に置かれた手に力が入った。


「しっ。静かに」

「え?なにを――」

かくまってくれ。頼む」

「へ?え?ちょ、ちょっと!!」

 美麗な幽霊男はひらりと長卓子を越え、あろうことか花音の着物の裾をまくり上げて足元に隠れた。

「ちょっと――」

 怒鳴ろうとしたしたそのとき、物々しい足音がして蔵書室の扉が大きな音をたてて開いた。


 花音は、息を呑んだ。


 一度見たら忘れられない、赤黒い甲冑。

 暗赫――内侍省の武官だ。


 先頭に、昼間の武官長がいた。相変わらず眼だけが炯々と鋭い無表情だ。後ろに控える全員が同じ仮面をかぶっているように見えた。

「貴殿は、昼間の」

「ひゃ?!」

 答えようとした花音は両足を腕で抱えられて、思わず椅子にすとん、と座る格好になった。

(何してくれてんのよ幽霊男!!)

「このような時刻に、どうなされた」

 花音の焦りなどよそに、武官長が低く言った。

「もう終業の鐘はとっくに鳴ったはずであるが」

「ぞ、蔵書室は猿の刻まで開いております」

 武官長はやはり仮面めいた顔で微かに頷いた。

「なるほど。我らは人を捜している。こちらにきた形跡があるので、中を検めさせてもらう」

 赤黒い鎧がまるで獲物を捕食しようとする蜘蛛のように素早く堂内へ散っていく。そして、長卓子の内側にも入ってこようとした。


「きゃーっっ!!!」


 花音の大声に、武官たちは表情は変えないものの足を止めて振り返った。

(手がっ、手がお尻に)

 体勢を変えた幽霊男の手が裾の中で動き、花音の尻にあたっている。

「ああのっそのですね!そうそう!ただいま武官長様にご依頼を受けました翻訳をしようとしていたところでして」

 花音は必死に長卓子の上に揃えた式典の本と古い辞書を指した。

「この故実書と辞書は古く貴重な本、特に辞書は禁帯出の本なので、この場で騒ぎがあって本が破損するようなことがあれば一大事かと……」

「黙れ!内侍省の仕事をたかが蔵書室官吏が邪魔立てすると申すか!」

 鋭く叫んだ部下を、武官長が「もうよい」と制した。

「しかし、隊長。今日こそは捕えねば」

「黙れ。よいと言っている」


 その一言で、堂内の空気がしん、と張り詰めた。鎧の擦れる音一つ聞こえない。


 武官長は動かぬ表情で発言した部下をじっとみた。部下は、完全に顔の色を失っている。

 やはり動かぬ表情で武官長は花音を振り返った。

(ひえええ……)

 背中を冷たいものが伝う。


 暗赫を一言で黙らせることのできるこの武官長なら、挙動不審な花音が足元に何かを隠していることなど気付いているかもしれない。


 しかし、武官長は手で合図をして堂内に散った暗赫をあっという間に整列させると、「邪魔をした」と言って踵を返しかけ――肩越しに言った。

「そなた、名は」

 長卓子の下でまだ尻にあたっている手の感触にむずむずしながらも、冷静を装って答えた。

「白、花音と申します」

「白花音殿。例のものを、よろしく頼む」

 そうして暗赫は、中庭の闇へ溶けるようにあっという間に消えていった。

「た、助かった……」

 完全に物々しい足音が消えてしまうと、裾から幽霊男が顔を出した。

「はあー、危ないところだった。おまえ、なかなか誤魔化すのが上手い――」


 すべて言い終わらないうちに、華月堂に鋭い音が響いた。


「こんの……一度ならず二度までも!!ヘンタイ!!」


 花音が怒鳴り付けると、美麗な幽霊男は引っ叩かれた頬を撫でながら笑った。

「なんだ、気にするな。女の胸や尻なんぞ触り慣れてる」

「っ――はああっ?!」

 あまりの傍若無人さに腹が立つやら悔しいやらいろんな感情が混ざって言葉が出ないでいると、大きな手がすっと伸びてきて臙脂色の本を取った。

「なに読んでんだ」

「あっ、ちょっと!」

 取り返そうとした花音の手をするりとすり抜け、幽霊男はパラパラと本をめくった。

「ちょっと!貴重な本なんだから大切に扱ってよ!」

「はいはい、鏧蛭の革は丈夫だから心配すんなって」


(こいつ……)

 一瞬で鏧蛭の革だと見抜くなんて。


 普通の人には、高価な物だとわかっても鏧蛭の革だとはまずわからない。専門的な知識がなければ鏧蛭という妖獣のことすら知らないものだ。


「ふうん、『花草子』ねえ。ただの植物見本帳にしては大層な装丁だな」

 花音はハッとした。

「やっぱり、そう思う?」

「ま、後宮は魑魅魍魎の棲み家だ。置いてある本もただの本じゃないってことだな」

「どういうこと?」

 花音は聞いたが、幽霊男は興味がなくなったのか『花草子』を花音の手に返して言った。

「花音っていうんだ。おまえ。ここの官吏なんだな」

「そっ、そうよ悪い?だからあんたが貴族のボンボンだかなんだかであってもここではあたしの言うことに従ってもらいますっ」

 着ているものや鏧蛭のことを知っていることから、教養のある身分の人物――おそらく貴族の御曹司か何かなのだろう――花音はそう見当をつけ、ナメられまいと胸を張った。

 それを聞いてぽかん、とした幽霊男は、大きな声で笑った。

「なっなによっ。何がおかしいのよ!」

「いや、しっかりしてそうでスゲー抜けてんなー花音って」

「う、うるさいわねっ。っていうか、呼び捨てしないでくれる?!っていうか、あんたも名乗りなさいよこの幽霊男!」


 端麗な笑顔が一瞬、こわばったように見えたが、やがてボソッと、

「俺は……コウだ」

 幽霊男――コウは呟き、花音を見た。


 その紫色の眼差しが、ぞくりとするほど美しく、そして……哀しげで。


「ええと……」

 どうしてだか、何か言葉をかけてあげなきゃと花音は焦ってしまった。

 尊大でヘンタイな奴なのに、なぜか頼りなげな、今にも泣き出しそうな子どものように見えてしまって。


 しかし、そんな花音の逡巡をよそに、コウは爆弾を投げつけてきた。


「スゲー抜けてはいるが、引き締まったなかなか良い尻と足をしている。まあ胸は足りないが、気に入ったぞ。」


 ぽかんとしている花音に向かって、ニッと笑うと艶やかな紅の上衣を翻した。

 花音は真っ赤になってその後姿に怒鳴った。

「ヘンタイ!!二度とここに来るなーっ!!」

 コウは快活に笑って、後ろ手に手を振った。


「また来るぞ、花音。――その毒草本には気を付けろよ」










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