第十一話 準備完了

 正午の鐘が鳴ると、花音は後宮厨へ向かった。


 いつの間にかいなくなっていた伯言が昼食を準備してくれるはずもなく、花音は自分でお昼を調達しにきたのだ。


 皇城には官吏食堂があるが、それは後宮も同じこと。

 後宮厨にほど近い場所に大広間をもっと大きくしたような殿舎があり、そこは後宮で働く者たちが無料で昼食を食べられる場所だ。後宮では単に食堂、と呼ばれているらしい。

 尚食女官たちが忙しそうに大鍋を次々と担ぎこんでいる食堂ではなく、花音は厨の裏へ回った。


 そっと覗くと、数名立ち働く女官の中に三葉がいた。

「あら、あんたは」

 陽玉は裏口でウロウロしている花音に気付き、やってきた。

「白花音、だったよね?どうしたの?今の時間は包み飯より食堂の方が種類もあるしお得だよ」

「いえ、食堂で食べている時間がなくて……職場で仕事しながら食べたいので、何かあまりものがあったら分けてもらえませんか」


 寸暇も惜しんで仕事をしなくてはならないのは本当だが、陽玉がまた包み飯を作ってくれるかもしれないという淡い期待があるのも本音だった。花音は、すっかり陽玉の包み飯が気に入ってしまったのだ。


 陽玉はくうーっと憐れみの表情を浮かべる。

「入って数日の新人がゆっくりご飯も食べられないほどコキ使われているなんて泣かせるわねえ。いいよ、また包み飯でよければすぐ作ったげる」

「い、いいんですか?!」

 花音が顔を輝かせると、陽玉はにっこり頷いた。

「もちろん。ちょっと待ってな」

 陽玉はきびきびと厨へ戻り、昨日と同じように具を見繕って包み飯をあっと言う間にこしらえてくれた。

「はい。今日の具は油淋鶏ユーリンチーだよ。南方風に甘辛ダレを付けたからね」

 油淋鶏は花音の大好物だ。

「う、嬉しい……ありがとうございます!」

「でもさ、ただのいびりにしては、連日ご飯食べる間もないなんて、ちょっとやりすぎじゃない?」


 花音は、開室が明日に迫っていて、その準備が終わっていないことを説明した。


「そっか。それじゃあ、確かに残業になるね。でも、その上司も手伝ってくれたらいいのに、やっぱり噂通りの鬼なんだねえ。まったくどんな陰険じいさんなんだか」

 陽玉の頭の中では、眼鏡で灰色深衣のくらーいオジサン、が想像されているだろう。花音もそうだったのでよくわかる。

 鳳伯言のムダに華麗な姿が思い浮かんだが、それを陽玉に説明するのは難しそうなので、やめておいた。


「じゃあまさか、夜も残業?」

 花音は請け負った仕事を思い出し、げんなりと頷く。

「たぶん。余計な仕事も引き受けてしまったし」

「余計な仕事?」

 花音が内侍省武官長の話をすると、陽玉は眉をひそめた。

「かさねがさね、あんたツイてないねえ。暗赫に頼まれたら断れないよ」

 陽玉は同情の色をにじませた。

「あ!そうだ、ちょっと待ってて」

 そうして、小走りに厨へ戻って、しばらくして籠を下げて戻ってきた。籠には布巾が被せられて、そこからほかほかと湯気が上がっている。

「これは黒糖包子パオズ。今でき上ったばかりのをもらってきたよ。肉と野菜のがある。冷めちゃうけど、皮が甘めだから冷めても美味しいんだ。ここまで来る時間が惜しいでしょ?」

「陽玉さん……」

 こんなに優しい人が後宮にもいるんだ。鬼上司ばかりじゃない。

「こんなに良くしてもらって、あたし、陽玉さんに何てお礼言っていいんだか……」

「いやだねえ、それほどのことじゃないよ。あたしは尚食女官なんだから、後宮でお腹空かせている人がいたら食べさせてあげるのは当然よ。あ、じゃあさ、お礼にってわけじゃないんだけど、今度、何か本を貸してくれない?」

「本、ですか?」

「うん。本借りたいけど、華月堂まで行く時間がないしさ。故郷では勉強したかったけど、弟や妹もいたから小学どまりだったしね。本を読んでみたいんだ。って言っても、なにを読んだらいいのかわからないんだけどね」

 朗らかに笑った陽玉に、花音は胸をたたいた。

「お任せください!あたしが、おススメの本を見繕ってきますから」

「お、頼もしいねえ。ありがとう。あんたの仕事がひと段落したらでいいからね」

 花音は何度もお礼を言って、後宮厨を後にした。



 作ってもらった包み飯は、油淋鶏の衣がカラリとして、甘辛ダレがよく絡んで、それが青菜とよく合って、辛子が少し入っていて、とても美味しかった。


 しあわせな気持ちで一息ついてから、花音は襷で袖をくくった。

「よし、やるわよ」

 残った書架はあと三列、それと、各列から出た違う印の本。『花草子』もその中んいあるはずだ。

 花音は黙々と作業を開始した。



 春独特の柔らかい夕焼けが、空を染める時刻。


「あったぁ!!」

 茜色の西日差す堂内に、花音の絶叫が響いた。


 なんと、最後の一冊。

 本の山の一番下にあったのが『花草子』だった。


「どうりで見つからないわけだわ」

 拾い上げて、埃をはたく。落ち着いた臙脂えんじ色の装丁に、金泥きんでいで『花草子』と入っている。

 めくってみると、中の項も表紙と同じ質感の、特徴ある砂色の革。


「これは……鏧蛭ロウシツの革だわ」

 鏧蛭は目薬の素になる成分を抽出できる妖獣で、なめした革は薄くしなやかで頑丈、反射する光が目に良い効果があるとされることから本の材質になる。しかし高価なため、市井では滅多に見られないものだ。


「植物図鑑、なのかしら」

 中の挿絵も繊細で美しく、克明に描かれている。そこに付された説明も、字数の多さから詳細なことがうかがえる。

「でも……」

 花音は首を傾げた。

「何か、おかしいわ」

 植物図鑑というにしては、何か違和感がある。

 もっとよく見ようと項をめくろうとした時、脇からにゅうっと黒い扇が伸びてきた。

「あら、見つかったのね『花草子』。よかったわぁ」

 花音は悲鳴を上げて危うく『花草子』を放り出すところだった。

「ははは伯言様っ!?びっくりするじゃないですかっ!!!」

「びっくりしすぎよぅ、あたしだって蔵書室官吏なんだから、ここ華月堂にいて当たり前でしょうが」

「……いませんでしたよね、ずっと。ていうか、まったく仕事してませんでしたよね」

 ドスの効いた低い花音の呟きは伯言の高笑いに瞬殺された。

「とーにかく!見つかったのなら一安心。あとはお渡しすればいいんだから」

「あの、そのことなんですけど……」

「なあに?あ、いいのよ気にしなくて。お越しになるか遣いがくるかだから。あんたが適当に保管しておいてちょうだい」

「え?は、はあ」

「さてっ、これで明日から開室できるわね……って花音!!」

 いきなりの怒声に背筋が伸びた。

「はい?!」

「なによあれ!まだ出ている本があるじゃない!」

「いえ、あれはですね。書架の印が違う本がけっこうあってですね。それを避けて、後で戻そうかと思っていたんです。っていうか、本を積み上げたのって、伯言様ですよね?印が違う本がけっこうあって――」

 伯言は大仰に咳払いした。

「ま、まあまあ、少しくらい本が出ていてもね、蔵書室っぽくて風情がね、うん。ま、おいおい戻してちょうだいね。あっとあたしはもう行かなくちゃ。今日は付き合いでさる御屋敷の月の宴に招待されているの。ってなわけで、花音ちゃんまた明日よろしくぅ~」

 まくしたてるように言うと、伯言は踊るように去っていってしまった。

「……やっぱり手伝う気ナシなのね」

 拳を握りしめ、花音は怒りが爆発――しなかった。

「ま、いっか」


 高窓から、みつ色の丸い月が垣間見えた。

 夕闇の中、それは今宵を祝福するように煌々こうこうと輝いている。


「ここで月見っていうのも、悪くないわ」

 陽玉にもらった万頭もある。

 貴族屋敷の月の宴のように豪勢ではないが、美味しいものがあって本に囲まれて。

「翻訳の合間に書架に戻そうっと」

 未返却の本は印別に分類してある。


 あとは書架に戻すだけ。月を眺めながら。


 そう考えると、ここ数日の苦労も吹き飛ぶような気持ちになる花音だった。




 


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