第十話 暗赫
偶然、ということが世の中にはある。
同じ日に同じ本を貸してほしいと、それぞれ違う人物に頼まれるなんて。
「そんなに人気のある本なのかなぁ」
貴人しか手に入らないような本ではなく、英琳のような女官も知っているような本。そのような本なら、一般に流通しているかもしれない。そして、
「でも、聞いたことないし……」
いろいろと思い出してみても、『花草子』という本の題名には覚えがない。
探しながら、ふと思う。
(藍色貴人は、もしかして清秋殿の秋妃?)
英琳が探していたということは、主である秋妃が探していると考えてもおかしくない。
(でも、女官に探させているのに、御自身が出向くってことあるかしら)
しかしそうなると、まったく関係のない人たちがそれぞれに『花草子』を探しているということになる。
そうなると、『花草子』が見つかったら、藍色貴人に優先的にお渡しすることになるだろう。身分上そうなる。
(でもなあ……)
英琳の、思いつめたような表情が気になっていた。
まるで『花草子』が手に入らなければ死んでしまいそうな、そんなふうに見えたのだ。
(考えすぎかな)
少なくとも、興味があって『花草子』を見たいのではなく何か事情があって手に入れたい――そんな様子であることは確かだ。
「見つかってから考えるか」
花音は自分にそう言い聞かせ、黙々と作業を続けた。
*
陽が高くなり、高窓から差し込む光が蔵書室の隅々にまで届きそうになった頃、伯言がやってきた。
ずいぶん遅い出仕だが、花音は伯言が入ってくるまで気が付かなかったし、伯言の遅刻を責められる立場にはもちろんないので黙って作業を続けていた。
「……?」
様子がおかしい。嫌味の一つでも言いにくるかまたまた無理難題を押しつけてくるかと身構えていたが、伯言はそのまま事務室へ入っていく。
そして、今日も無駄に洒落た濃い
(鎧……?)
なぜだか、背筋がぞっとした。
それが鎧だと気付いたのは、微かに金属の擦れる硬い音が聞こえたからだ。
固まった血を連想させる色。
皇宮を守る衛兵をはじめ、兵士や武官は
しかし鎧を着ているからには、武官なのだろう。
「おはようございます」
花音が礼を執ると、伯言は虚ろな表情で花音の前に立った。
背後のいる武官を振り返りもせず、伯言は言った。
「こちらは、内侍省の武官長殿よ」
内侍省の武官――物騒だから気を付けろと、三葉が言っていた。
赤黒い鎧を着た男は、どちらかと言えば
「春の式典について書かれた故実書をお探しだそうよ」
伯言は平静な声で言ったが、花音に向けた顔には嫌悪の表情が浮かんでいる。
「こちらにも、礼部に劣らない故実書があると聞いている。礼部から資料を借りるのは時間がかかるゆえ」
武官長は口をほとんど動かさずに言った。まるで絡繰り人形のようだ。
伯言は今にも舌を出しそうな勢いで嫌そうな顔をしている。開室は明日だし、本当は相手にしたくないのだろうが、同じ宦官同士、断れない事情があったのかもしれない。
そんな
「それでしたら、こちらに」
不機嫌そうな伯言の顔色を見ながら、花音は武官長を書架へ案内する。伯言の顔には「てきとーに相手してさっさと追い払え」と書いてあった(ように見えた)。
武官長は書架の前で佇んでいる。
ずっと、無言で書架を睨んでいる。
(も、もしかして……古語が読めないのかも)
無表情なので何を考えているのかわからないが、目の前に『式典 春』とある本があるのに手に取らないということは、古語が読めないのだろう。
花音は『式典 春』と書かれているものを数冊取って中を
「こちらが、春の式典に関する故実書ですが……」
武官長は無表情でそれを一瞥すると、花音の顔を見る。
「貴殿は、読めるのか」
古語が、という意味だろう。
「はい、だいたいは」
武官長は無言で唸った。
「ここで借りねば、礼部へ行くしかない」
誰にともなく低く呟く。
「春の式典に関する部分だけがわかればよいのだが」
やはりほとんど口を動かさず呟き、細い目が花音を見る。
無言の圧力を感じて、花音は思わず言った。
「よ、よろしければ、内容を翻訳いたしましょうか」
武官長が一瞬、笑んだように見えたのは目の錯覚だろうか。
「よいのか」
花音はコクコク頷いた。良いも悪いもない。ここでそう言わねば、呪い殺されそうだ。
「非常に助かる。では、近く行われる東宮主宰の春の式典、その警備の様子について訳してほしい。数日内に頼む」
かしこまりました、と花音が一礼すると、武官長は踵を返して去っていった。
「いやあね、あの趣味の悪い鎧の色。あの辛気臭い顔。不幸の権化よ。ちょっと花音、塩まいてちょうだい」
伯言がやってきて、ぺっぺと汚いものを吐き出すように顔をしかめた。
「あのう、あの方は……」
「言ったでしょ。内侍省の武官長よ。内侍省の武官はねえ、後宮じゃ《
ふん、と鼻を鳴らして伯言は口元に扇を当てた。
「で?本、渡したの?」
花音が事情を説明すると、伯言は大仰に眉を上げた。
「まったくあんたはバカタレちゃんっ。あんな奴らのために翻訳までしてやる必要ないわよっ」
「す、すみません、いやなんていうか、話しの流れで…あたしも好きで請け負ったわけでは…」
「ていうか、あんたそんなヒマあるわけっ、まだ仕事終わってないじゃない――ん?」
伯言は、蔵書室内を見て目を瞠った、ように見えた。
「ほ、ほら、見てください!けっこう片付いたと思いません?」
「う、うるさいわねっ、まだ完全に終わってないじゃないっ。だいたい、まだ『花草子』見つかってないんでしょっ」
捨て
内侍省の武官のことを、相当毛嫌いしているようだ。
(いろいろ事情があるんだろうな)
陽玉の話を思い出す。
夜間に出歩いているだけで斬られるなら、昨夜の花音も同じだ。赤黒い鎧に遭遇していたら斬られていたかもしれない。
その相手に手伝いを申し入れ、感謝されることになるなんて。
(おかしなことになっちゃったなあ)
そう思いつつ、とにかく目の前にある仕事を終わらせねばと書架に戻る。翻訳は、後ででもできる。
(そういえば……『花草子』のこと、聞きそびれたわ)
見つかったら、藍色貴人が優先であることは承知しているが、他にも貸してほしいと言っている人物がいることを伯言に伝えておこうと思ったのだ。
そうしないと、藍色貴人がずっと手元に置いてしまう可能性もあるからだ。
思いつめたような、白い顔が目の裏に浮かぶ。
英琳がどういう理由で『花草子』を借りたいのかはわからない。しかし、思いの強さは伝わってきた。
だから。
華月堂が、貴賤の別なく誰にでも開かれた場所なら、英琳にもできるだけ早く『花草子』を貸してあげたい――花音は、そう思っていた。
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