第九話 清秋殿の影

 華月堂に戻ると、さっそく事務室で包み飯を開けた。

 トロリとした甘辛ダレの香りが室に広がる。初春の寒さ残る薄暗い部屋に温かみが差したように感じて、花音は思わず顔を綻ばせた。


「うわあ、美味しそう」


 大きくまとめた白飯の中心に、包菜つつみなと煮豚が詰められている。香ばしい胡麻がふってあるのも絶妙だった。

「さすが尚食女官だわ、陽玉さん」

 あんなに短時間で、こんなに美味しいものを作れるのは才能だ。花音は感動しながら掌にあまる包み飯を無心で食べた。


 お腹が満たされると元気が出てきて、花音は一心不乱に作業に集中した。


 誰もいないことはもはや怖くはなく、むしろ集中できて嬉しかった。薄暗い手持ち灯籠の灯かりも風情あるものだと感じるようになった。

「これで本が読めれば最高なんだけどなぁ」

 ぼやきつつ、本を書架に戻していく。藍色貴人から言われた『花草子』は、今のところ見つかっていなかった。


「草子」というからには、そんなに格式ばった本ではないのだろう。場所柄か、そのような気軽な本が多く、気を付けて題名を見ていたが結局見つからなかった。

 気が付いたとき、遠くで酉の刻を知らせる鐘が響いた。

「いけない、帰らなきゃ」

 花音は慌てて、帰り支度をして華月堂を出た。



 華月堂から出ると、花音は女官寮への道を急いだ。

 花音が室を与えられている女官寮は吉祥宮の東、東街ひがしまちと呼ばれる一角にある。

 爽夏殿と清秋殿の間を抜け、清秋殿の北を通り、吉祥宮と東街の間にある内左門ないさもんをくぐる――これが華月堂から女官寮への近道だった。


 空には朧月がかかり、時折、生温かい風が吹いてくる。


 すでに深更といえる時間にさしかかっているので当然だが、人影はない。見回りの武官にも遭遇しなかった。

 忘れていた恐怖心がじわりと背中に滲み、花音の足は自然と早くなる。

(だいじょうぶ、もう少しで内左門が見えてくるはず)

 何がだいじょうぶなのかわからないが、自分を励まして清秋殿の北へと角を曲がったそのときだった。


 ふわり、と何かが視界を横切った。


 全身からどっと汗が噴き出す。声を上げそうになるのを必死でこらえた。

(な、なに今の影)


――呪殺された妃の怨霊が今も夜になると出てくるとか…


 噂話が脳裏をよぎる。足がすくんで、前に進めなくなった。

(だいじょうぶ、ほらもういないし)

 影は消えている。

(見間違いかもしれないし)

 薄暗い中で根詰めて作業をしたので、目が疲れているんだ。

 そう自分に言い聞かせて、すくむ足を叱咤して歩を進める。

 少しでも明るいところを歩こうと、石畳を逸れて玉砂利の上、清秋殿の外燈籠の灯かりが仄かに差すほうへと歩みよって――


 なにか、柔らかいものにぶつかった。


 花音は声にならない悲鳴を上げた。

 しりもちをついた痛さと、玉砂利の冷たい感触が手に触れる。くらい影が花音に覆いかぶさるように立っている。

 こないで、と口をぱくぱくさせたが言葉にならず、花音は玉砂利を投げつけようと握りしめた。が。

「大丈夫ですか?」

 花音に薄い明かりを差しかけたのは、幽霊ではなかった。



「驚かせてしまってごめんなさい」

 その女官は申し訳なさそうに言った。

「お怪我はありませんか?お召し物は大丈夫だったかしら」

 手巾を取り出して花音の裙をはたいてくれる。

「いえっ、あの、大丈夫ですから」

 さっきの自分の滑稽こっけいな驚きようを思い出して恥ずかしくなり、慌てて言った。

「こちらこそ、すみませんでした。こんな夜更けに殿舎の裏を通ったら、あやしまれて当然ですよね」


 怪しい影はむしろ自分だ。

 花音は、清秋殿の女官が様子を見に来たのだと思った。女官の言葉遣いや佇まいが凛としていて高貴な人物に近いことを感じさせたからだ。


「いいえ、そんなことは」

 女官は曖昧な返事をして、それから花音が落とした荷物を拾ってはたいた。

「すみません、お荷物も……貴女様は、華月堂の官吏でいらっしゃるんですね?」

 荷物をくるんでいる平包の布には、官吏を示す紋章が入っている。

「はい、つい三日前に入宮しました、白花音と申します」

 花音が名乗ると、女官は微笑んだ。

「私は英琳えいりんと申します。清秋殿で秋妃様のお世話をしております」

 と申しましても、まだ下働きですが、と七穂は言った。

「内左門へ行かれるのでしたら、お送りしますわ」

「え、そんな、こんな時間に申し訳ないです」

 内心その申し出に甘えたい自分をぐっと押さえて言うと、英琳は微笑んだ。

「私のことならご心配なさらず。今夜は宵番ですから」

 そう言って、花音と並んで歩き始めた。


(不思議な人だな……)

 梔子くちなしの花を思わせる襦裙の色は薄闇でも分かる。黄色系の色は清秋殿の御色であり、それが濃いのは女官の中でもある程度の身分であることを示す。

 しかし、微笑んだ白い顔はどこか寂しそうで儚げだ。


「お役目とはいえ、こんな夜更けに、その、怖くないんですか?」

 花音なら、こんな闇の中を一人でうろうろするなど考えただけで怖い。

「もう慣れましたわ。後宮にきて、三年になります」

 英琳はやはりどこか寂し気に微笑んだ。

「最初は怖かったです。でも、慣れてしまうものです。すべてのことに、良くも悪くも」

「はあ……」


 そんなものなのかなと花音は思う。きっと、英琳は入宮したとき、今の花音と同じくらいの年頃だっただろう。自分もあと三年経てばこうやって落ち着いて行動できるのだろうか。


「あそこが内左門ですわ」

 少し先に、小さな松明たいまつの灯かりが見える。

「ほんとうに、ありがとうございました」

 事実心の底から感謝しながら、花音は頭を下げた。

 いえ、と言ってからも、英琳はうつむいてその場を動かない。

「?」

 花音が怪訝に思っていると、ふいに英琳が顔を上げた。

「華月堂は、近いうちに開室すると聞きましたが」

「え、ええ。今、準備しているところでして。明後日に開室です」

 まだ片付いていない蔵書室の風景を脳裏に浮かべつつ冷や汗をかいていると、英琳が意外なことを言った。

「開室前に、本を貸してもらうことはできますか」

「本?どんな本でしょう」

 思わず聞くと、英琳は思いつめたような表情で言った。

「花草子、という本なのですが」

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