第八話 陽玉

「くうう、あの鬼上司め……」

 手持ち灯籠とうろうに火を入れながら花音はうめいた。

 

 とっくに終業の鐘は鳴り終わっていた。先刻より、夜間警備が始まることを知らせる鐘の音が、春の夕闇に溶けてこの吉祥宮の片隅にまで響いてくる。


 蔵書室や蔵書楼はその性質から基本的に火気厳禁だ。よって、必要最低限の灯りで作業をせねばならない。

 灯かりは手持ち灯籠が一つ。火気厳禁の場所でも使えるよう、特殊な石で作られた灯籠で、火が小さいわりによく光が拡散し、安全性も高い。その代わり「手持ち」とは名ばかりで、石の性質からか重かった。


 そのため、定位置に灯籠を置いたまま作業をする。書架に本を戻しながら印の違う本を通路から運び出した。


 灯籠を移動させながら通路を全制覇し、後に運び出した本を印別にまとめ、返却する――そのように作業を進めることにした。


 花音は、黙々と作業をしながらふと顔を上げた。


 薄闇に立てかけてある梯子が、何かの影に見えてしまい、慌てて首を振る。


「幽霊とか出るわけないじゃない、ただの噂よ、噂」

 自分で自分に言い聞かせ、昨日の出来事が脳裏をよぎる。


――誰もいないはずの華月堂にいた、美少年。


 美麗な顔の稜線、絹糸のように艶やかな髪、鮮やかな女物の上衣。


 思い返せば返すほどこの世のものとは思われず、花音の心臓は音をたてる。


(まさか、幽霊なんて)


 そう、そんなものいるはずない。

 第一、あの人物には実体がある。

 その証拠に花音の胸を触った――。


「やだやだやだっ、信じられないっ」

 今度は顔が熱い。

 心臓がばくばくと音をたて、顔が熱くなり、いよいよ花音は焦る。

「幽霊の瘴気にあたったのかな」

 ふらふらして、立ち眩みに思わず座り込む。

 このまま倒れたらどうしよう、誰か助けて――と心の中で叫んだ、そのとき。


  ぐうううう ぐうきゅるる


  盛大に腹の虫が鳴いた。

「――あは、ははは。そういえばお腹空いてるかも……」

 なんのかんのでお昼を食べ損ねていたことに気付く。立ち眩みもするはずである。

 花音は、いったん作業を中断して、後宮厨に向かった。



 寮の食事に間に合わないときは、後宮厨の厨房へ直接行けば、あまりものを食べさせてもらえると聞いていた。


 後宮厨の表は、大勢の女官でごった返していた。各殿舎や依頼のあった宮へ食膳を整えに行くためであろう。膳や籠を捧げ持った列が、次から次へと回廊へ出ていく。声を掛けられそうな女官はいない。

 裏口へ回ると、薪の積んであるすぐ脇に戸口があった。


 中をのぞくと、厨房には女官が一人、立ち働いている。いくつもの鍋の蓋を取ってかき混ぜたり何かを入れたり、火の様子を見たり、忙しそうではあるが、話しかけることはできそうだ。


「あのう、すみません」

 おそるおそる声を掛けると、水場で洗い物をしていた手が止まった。

 色白で、少しふっくらとして、くるりと丸い目に愛嬌がある。太った栗鼠りすを思わせる容姿だ。

「ごめん、水の音で聞こえなかった。何か言った?」


 女官が明るく言ったので、花音はホッとした。この人になら、頼めるかも。


「お仕事中、すみません。何か、食べさせてもらえませんか」

 女官はきょとん、として、それから笑った。

「やあねえ、まるで物乞いじゃない。そんなにかしこまらなくても食べさせてあげるわよ。あんた、新人ね?」

 体形に似合わずきびきびとした動作で、女官は前掛けで手を拭きつつこちらへやってきた。

「出仕が始まったばかりで大変ね。去年のこと思い出しちゃう。あの頃は辛かったなあ」

 遠い目になった女官に花音は驚いた。

「去年入宮したんですか?」

「うん。一年あっという間だったよ」

 威勢が良く、堂々としているのでもっと古参の女官だと思った。確かに近くでよく見れば、花音とそう変わらない年頃だろう。

「今は故郷も懐かしいし、辛いけど、じきに慣れるから元気だしなよ」

 言われて花音は顔をさする。

「あたし、そんなに元気ないように見えますか?」

「うん、とっても。ひどい顔色よ」

 言って女官は懐から小さな手鏡を出した。

「ほら」


 小さな、しかしよく磨かれた鏡面には、目の下がうっすら黒くなったひどい顔が映っている。

 空腹だけでは、こんなひどい顔にはならないだろう。やはり、昨日からの疲れが溜まっているのだろうか。


 女官寮には後宮という場所柄、室に鏡が設置されているが、鏡をのぞく間もないまま昨日の夜は倒れ込むように寝てしまい、今朝も支度であわただしく鏡など見ている時間はなかった。鏡は高級品なので、使うことを喜んでいたはずなのに。


「ほんとだ、ひどい顔。すみません、大切な鏡にこんな顔映しちゃって」

 女官は朗らかに笑った。

「どういたしまして。気にしないで、鏡はいつも持ち歩いているから。あ、今この人はすごいお金持ちの娘なのかって思った?そうじゃなくて、あたしはかん州玉容県の出身なのよ」

 函州玉容県といえば龍昇国の北、玻璃はりや鏡の産地として有名な土地である。

「あたしらは物心ついたときから、鏡と関わって育つから。庶民でも女子なら手鏡の一つや二つ、持ち歩いているのよ。あんたは?どこの出身?」

「あたしは、州南陽県です」

「予州か。――ちょうどいい、ちょっと待ってて」


 そう言うと、女官は厨房にずらりと並ぶ鍋の一つを開けて、中のものを皿に取った。

 懐かしい、甘辛い匂いがする。


「煮豚の匂い……八角で煮込んだやつ」

 鼻をふんふんさせて呟くと、三葉が笑った。

「やっぱり故郷の味はわかるのね」

 女官はさらに竈の釜から白飯を取って、厨台で手際よく作業しながら言った。

「あたしは陽玉っていう。あんたは?」

「白花音です」

「ふうん、花音の所属はどこなの?」

 華月堂だと言うと、陽玉は丸い目をさらに丸くした。

「へええ!あの噂の!で、どう?華月堂って幽霊とかいびりとか、本当にあるわけ?」

「ううん……」


 そうとも言えるし、そうとも言えない。


「まだよくわかりません。出仕して二日目だし」

 そりゃそうだ、と陽玉は笑った。

「まあ、こうやって残業のためにご飯取りにきてるんだから、上司が鬼なのは本当なんだね」

 陽玉は可哀想に、と掌に余る包みを花音に押しつけた。

「包み飯。大きく作っておいたから。がんばりなよ」

「ありがとうございます」

「それから、今は夜が物騒だっていうから、女官寮に帰るときは気をつけてね」

「物騒?」

 陽玉が声をひそめた。

「うん、幽霊だかなんだかが出るって、内侍省の武官の警備が厳しくなってる。でもさ、物騒なのは幽霊じゃない」

 陽玉はさらに声を低めた。

「内侍省の武官。あいつら、ほんと感じの悪い、薄気味悪い奴らだからさ。あんたが入宮する少し前、後宮で斬られた女官がいてね。夜間に出歩くのは不審だとかいって」

 花音は背筋がすっと冷えた。「出歩いているだけで……」

「その女官は爽夏殿の女官だったらしいけど。噂じゃ、清秋殿の秋妃の父上が、内侍省の武官に根回しして爽夏殿に嫌がらせしてるってね」

「なんでそんなひどいことを……」

 花音が絶句すると、陽玉は呆れたように言った。

「清秋殿と爽夏殿は仲が悪いんだって。知らないの?」

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