第七話 藍色貴人

 花音は裙の裾に苦戦しながらも懸命に走り、汗だくで華月堂に戻ってきた。


「ただいま戻りました!」

 正午の鐘にはまだ余裕のある時刻なはずだ。実際、後宮から皇城へ行って文殿、匠殿へ行き、午前中で帰ってくるのは普通に考えると難しい。足の速い花音だからこそできた仕事だろう。


 鬼上司も少しは機嫌を良くして、やっと仲良くする糸口が見つけられるかも。


 そんな淡い期待を抱いて華月堂に駆け込んだ花音だったが、その期待は見事に木っ端みじんに消し飛んだ。


「このバカタレちゃん!!」


 戻るなり伯言が腰に手をあてて不機嫌そうに立っていたのだ。

「ちゃ、ちゃんと午前中で帰ってきましたけど……」

「ちがーう!そのことじゃなーい!!」

 伯言は羽毛扇の先端でびしっと花音の裙を指した。

「あんた、まくって走ってたんですって?」

(ひえええっ、もう伝わってる!!)

 どこからどう聞いたのか、ここまで全速力で帰ってきた花音よりも情報が速いとは。

「しかもしかも!あろうことかあの鼻持ちならない礼部の女狐に目つけられちゃって!!」

 礼部の女狐、とは礼部次官・範麗耀のことだろう。

「あの女狐がこの機会を逃すはずないわ。ぜったい礼部尚書と尚書令にまたまたしつこく上申するに決まってるっ。くーっ、あたしの美貌をねたむだけじゃ飽き足らず華月堂にまで魔手を伸ばすなんてっ」


 きーっと地団太を踏んでいる伯言に、おそるおそる聞く。

「あの……範次官と華月堂って、何か関係があるんですか?」

 すると伯言はキッと花音を睨んだ。

「関係あるわけないでしょうがっ。あの女狐が勝手にここ華月堂を欲しがっているだけよっ」


(そういえば)

――礼部の管轄にして差し上げるわ。

 範麗耀は、そう言っていた。


「華月堂はねえ、誰の支配下にも置かれない、後宮の、いいえ皇宮の中で唯一孤高の自由な空間なのよ!あんな女の言いなりになってたまるもんですか!!」

 伯言は虚空に向かって息巻いている。


(仲、悪いんだ……範次官と)

 範麗耀も鳳伯言は、と悪しざまに言っていた。犬猿の仲なのだろう。


「あの女狐に言われるまでもなく、あんたには今日からあたしが礼儀作法を仕込んでやるから、そのつもりでいるのよ!!」

(ひええええ)

 花音は泣きたい気分だった。完全にとばっちりだ。

「それから、礼部の連中と仲良くすんじゃないわよ。誰があの女狐の手下なのかわからないんだからっ」

「はあ……」

 そう言われても、もうそうそう礼部まで行くことはないだろう。

 それとも、この手の遣いは日常なのだろうか。

 そう思って花音がうんざりしていると、伯言が思い出したようにハッと顔を上げた。

「そうだわ、女狐にかまっているヒマはないんだった」

 伯言はうって変わって声をひそめると、花音を手招きした。

「今、事務室に来客があるの」

 そう言って、隣の室を指差す。

「えっ、開室は明後日じゃあ……」

「そうなんだけど、たっての御希望でね。さるやんごとない筋の御方なのよ」

 伯言はさらに声を低くする。


 いずれの四季殿の貴妃だろうか。

 文殿での失態のようなことをされると困るから席を外していろ、ということだろうか。


「じゃあ、あたしお昼でも調達してきます――」

 行きかけた袖をがっちりとつかまれ、花音は転びそうになる。

「危ないじゃないですか!」

「しっ、声が大きい。……あんたも来るのよ」

「はい?」

 薄化粧の美形が間近に迫り、花音は思わず後じさった。

「いい?けっして逆らっちゃダメだし質問もダメ。言われたことに黙って頷くのよ?わかったわね?」

 凄まれて、思わず花音はこくこくと頷く。

 伯言はよろしい、というように頷くと事務室へ入っていった。


「お待たせしまして申し訳ありません」

 人が変わったような応対の伯言に続いて花音も事務室に入り、一緒に揖礼ゆうれいする。


 応接用の長椅子から、薄い紫色の絹衣の裾が流れるように垂れている。

 その傍に、黒い衣裳の人物が膝を付いて控えていた。


「お忙しいところ申し訳ない、どうかそのままで、と主が申しております」

 黒い衣裳の人物が言った。伯言はその場で揖礼したまま控えているので、花音もそれにならう。


(変わった格好の人だな……)

 短衣に袴褶こしゅうという武人風の衣裳だが、全身黒というのは見たことがない。髪も、皇宮では見ないほどかなり短く刈り込んでいる。武人らしい精悍な、そして女官が思わず振り返るであろう整った顔つき。が、おそろしく無表情だった。


 長椅子の人物は動かない。こちらに背を向け、頭から藍錦の長衣を被っているため顔は見えない。


 花音にも、その人物の衣裳が高貴なものであることはわかる。紺や紫の藍色系の衣裳は貴族でも位階が上である証拠だ。


 貴人のお忍びであることは間違いない。


(四季殿のお姫様かな)

 どきどきしながら控えていると、黒装束の男が言った。

「主は、とある本を所望しておられる」

「恐れながら、本の題名はおわかりになりますか?」

 伯言が応じると、男は低い声をさらに低めた。

「『花草子』という」


 花音は首を傾げた。『花草子』?聞いたことのない本だ。


 けれども伯言は、ああ、と頷いた。

「それならば間違いなく、この華月堂の蔵書でございます。しかし――」

 伯言はちらと後方を見やる。

「開室の準備のため、蔵書室はご覧の有様でして。今すぐに御前にお出しすることができかねます」

 男は相変わらず無表情で淡々と言った。 

「事情は申し上げられないが、大至急、その本を探してもらいた。できれば人目に触れたくないと主は希望しておられる。入宮式も済んだゆえ、人の出入りが解禁になるのは間近かと思われるが」

「は。明後日に開室でございます」

「ならば、今日より五日ほどで探していただきたい」


(五日、ってそんな)

 片付けている中で、今のところ『花草子』という本は見ていない。

 うず高く積み上がる本の山を思い出し、五日で探すことができるだろうか、いやそもそも明後日の開室までにすべての本を一人で書架に戻すのはやはり無理があると思い至る。


(これで伯言様も一緒に作業せざるを得ないわね)

 花音は内心ホッとした。

 そんな花音を横目で見やって、伯言はにこやかに応じる。

「かしこましました。これに控える者が、責任を持って迅速に五日間で必ずお探し致しますゆえ、どうぞご安心ください」

 花音は隣で頭を打たれたようにしびれた。


(この上司おには今なんつった?!)


「それはありがたい。よろしくお願い申し上げる。また連絡致す」

 それを機に、貴人が立ち上がった。深々と揖礼する伯言に倣い花音も動揺を押し殺して深々と頭を低くした。貴人が通ったとき、その衣裳の色にふさわしい清涼な芳しい香の匂いがしたが、それすらも心の動揺を鎮めるには至らない。


 藍色貴人が完全に退室した後、花音の口から抑えていたものがこみ上げてきた。

「伯言様っ、あと五日であの本の山から探しものなんて無理ですよっ?!」

 伯言は澄ましている。

「あら、そんなことないでしょ。そもそも開室までに本はすべて書架に戻すようにあんたには指示してるんだから。その中で探せばいいだけじゃない?題名もわかってるんだし」

 ぐっと言葉に詰まって花音は上司を見上げる。伯言は、あらぬ方を見て飄々と羽毛扇を扇いでいる。

「……もしかして、知ってたんですね。あの貴人の用向きを」

 恨みがましく言った花音に、伯言はにっこり笑った。

「あら?なんのことかしらぁ?」

 またもやこの鬼上司は仕事を花音に押しつける気なのだ。


 

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