第六話 工部尚書 蔡水木

 匠殿は、文殿とだいぶ雰囲気が違っていた。

 文殿のようにかしこまってゆったりと歩く官吏は少ない。

 皆、袖をたくし上げ、あるいはぴったりとした動きやすい作業着姿で立ち働いている。

 中庭の至る所で議論が交わされ、あるいは四阿あずまやの卓子を囲んで何やら手作業をしたり、模型と思しき木組みが並べてあったりする。


 一言で言えば、活気がある。


 文殿の格式高い雰囲気も厳かで皇宮らしいが、こちらの方が花音は好きだ。


 ついさっき、自分の粗相を冷たく指摘されてかなり凹んでいたため、この活気ある空気にホッとした。


「さて。本を返すには…とりあえず、事務室のある場所に行くべきよね」

 工部の門をくぐると、すぐに大きな広場があり、そこでもたくさんの職人らしき人々が忙しく行き交っている。

 花音は辺りを見回し、かまどで指示を出している人物に話しかけてみた。

 するとその人物はにこやかに「こちらへどうぞ」と言って、回廊へ入っていった。

 黙ってついていくと、奥へと進んで、大きな両開きの扉の前で止まった。


「しばしお待ちを」

(この扉、どっかで見たことが……)

 その人物が室の中へ入り、それを待っている間に花音は扉の意匠を眺めていたが、ハッとした。


(そうだ。華月堂の扉だ!)


 美しい幾何学模様が細かく意匠されたその扉は、華月堂の正面扉と酷似している。ここが普通の室でないことは明らかだ。


(まさか、この室って……)

 扉が静かに開いて、先ほどの人物が顔を出した。

「中へどうぞ。尚書がお会いになります」

 どっと冷や汗が背中から流れる。

(しょ、しょ尚書って)

 貴重な本を借りたのだから然るべき人物に挨拶を、とは思ってきたが、まさか尚書とは。


 言われるままに中へ入ると、その天井の高さに圧倒された。


「す、すごい……」


 天井が丸くなっており、四角く切られた枠には玻璃がめぐらされ、さんさんと光りが入ってくる。これならば、天気の良い日なら灯かりがいらないだろう。

 部屋の両脇は壁がすべて書架のような棚になっていて、本はもちろん、植物や石など、さまざまな物が所狭しと並んでいる。

 初めて見る斬新な室に目を丸くしつつ、花音は室の奥の一際ひときわ奇妙な一角に注目した。


 石、鏡、瓦、金属、絡繰り、その他何だかわからない部品。様々な物がうず高く積まれた巨大要塞、のように見えるのは大きな執務卓だろう。

 その巨大要塞の向こうで女性が立ち上がった。


「あんたかい、華月堂の遣いっていうのは」


 大きなたぶさに大きな玉のかんざしを一つ差し、それが彼女の潔い雰囲気を象徴している。

 下合わせの淡雪色あわゆきいろの着物を襷でくくり、白い腕や肩が露わになっているばかりか豊満な胸のふくらみまでもがすれすれに見えそうだ。女の花音でさえ目のやり場に困ってしまう。


 対する彼女は興味深そうに、大きな薄い茶色の瞳で花音を無遠慮に観察している。白い顔にそばかすの散った、猫のような愛嬌のある顔には感情の読めない笑みが浮かんでいた。


 そばの椅子に官服らしき上衣が無造作に掛けてあるが、それは高官を表す漆黒で、彼女がここの主であることは間違いなかった。


「工部尚書、蔡水木様でございます」


 職人風の官吏が恭しく言うと、蔡水木は嫌そうに顔をしかめた。

「堅苦しい挨拶はいいよ、面倒くさい。あんたも仕事中ご苦労だったね。下がってよい」

 官吏は一礼すると、室をきびきびと出て行った。


 それを待って花音が挨拶をしようとすると、蔡水木が片手を上げた。

「言っただろう。堅苦しいのはナシだ。あんた蔵書室官吏だって?あの性悪男のところの新人だね」

(性悪男?!)

 伯言のことだろう。そうに違いない。

 蔡水木は傍らに置いてあった長い棒をひょいと取り上げ、慣れた手つきで火を点けて一口吸った。煙管きせるらしい。形よくすぼめた口から細く煙が上がった。

「今日はなんだい。入宮式までに仕上げた新人官吏の支度品やら四季殿の姫様方からの注文やらでこっちは猫の手も借りたいほど忙しいんだ。手袋なら後回しだとあんたの主に言っときな」

「いえ、あのう……」

 つんけん言われて、花音はおどおどしながらも肩から風呂敷を下ろして本を差し出した。


「後宮でお借りしていた本を、返却に参りました。工部からはいにしえからの貴重な蔵書をたくさんお借りしまして、ありがとうございました」


 実際、工部から借りていたのは、龍昇国古語で記された貴重な本だった。

 本来ならその道の専門家しか手に取ることができないような工芸品の数々を詳しく解説した、古文書とも呼べるものばかり。花音は幼い頃からの習慣で龍昇国古語がだいたい読めるが、素人はまず読めない。工芸品の挿絵が美しいため後宮では人気があるのだろう。


 丁寧に口上を述べて頭を下げ、本を蔡水木の前に置こうとしたが場所がなく、花音がおろおろしていると蔡水木が快活に笑った。

「こりゃあいい」

 何がおかしいのか「いい」のか、蔡水木はひとしきり笑うと気風きっぷの良い音を立てて煙管を置いた。

「それが古からの書だとわかるとは、なかなか見どころがあるじゃないか。せいぜいあの性悪男につぶされないように頑張りな」

「は、はあ……ありがとうございます」

 何と言っていいものやら、とりあえず礼を言い退室しようとすると、後ろから呼び止められた。

「あんた、名は?」

 花音は慌ててかしこまり「白花音と申します」と名乗った。


 何ともいえない沈黙が、部屋に降りた。


「……?」

 巨大要塞のような卓子の向こうには大きな玻璃の入った窓があり、逆光で蔡水木の表情はわからない。しかし、何か無言の呼び止めというか、花音を動けなくする何かがあった。


「あの…?」

 遠慮がちに言うと、蔡水木はハッと身じろぎをした。

「ああ、すまない。白花音、だったね。返却ごくろうだった」

 言われて、花音は怪訝に思いつつも工部尚書室を退室した。


「なんだったのかな」

 すっきりしないまま回廊に出てきたが、すぐに余計な思念は打ち消された。


 巳の刻の鐘が、無情にも響きわたっている。

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