第五話 花音、走る②
無情に閉まった扉を、花音はおそるおそる見上げた。
「し、知らなかった……」
だから、すれ違う官吏が目を丸くしていたのか。
鹿河村では、配達で走るときに裙をたくし上げるのは当たり前だった。花音は動きやすい服装が好きだし、新しい服をあつらえるなら本を買いたかったため、父のお古の細筒袴の裾を、走りやすいようにわざわざ丈を短めに、脛が出るくらいに詰めて履いたりしていた。
脛を見せることが下着姿と同義だなんて――花音は大きく息を吐いた。
「ぜったい後で、伯言様に叱られる」
文殿中を走り抜けたのだ。わりとたくさんの官吏とすれ違った…気がする。伯言に伝わらないわけがない。
羽毛扇をひらひらさせてねちねちと嫌味をのたまう上司の姿が脳裏に浮かび、がっくりと肩を落とす。
そして、ハッと気付いた。
肩に背負った荷。
「まだ返却は終わっていないわ」
こんな所でくよくよしている場合ではない。
このうえ午前中に仕事が終わらなかったら。
「噂通りほんとうにいびり殺されちゃうかも……」
花音の中では、もうすっかり伯言は噂の「鬼上司」だった。
「うううこわいこわい」
花音はぶるぶる首を振って、とにかく返却を終わらせねばと踵を返し、走り出した。
もちろん今度は、裙の裾は手でつまみ上げて。
*
文殿と匠殿は、皇城を後宮まで貫く大道・白陽通りを挟んで、左右に位置する。
文殿の正面門を抜け、白陽通りが見えてきたとき、通りに沿って官吏が集まっているのに気が付いた。中には地面に膝をつき、天承門――宝珠皇宮の正面大門――の方を待ちかねるように窺っているいる者もいる。
「なんだろう?」
すでに文殿の正面門にできている人垣をかき分けて行こうとすると、呼び止められた。
「もし、お嬢さん。白陽通りに出たいなら少し待たれた方がいい」
いかにも人の好さそうな初老の官吏が気遣うように言った。
「何かあるんですか?」
花音が問うと、官吏は穏やかそうな丸顔でにこにこと頷いた。
「皇子がお通りになるそうだよ」
「皇子、ですか」
花音にとっては雲の上の存在、わりとどうでもいい上に今は時間がない。
「急いでいるんです。まだお通りにならないなら、白陽通りを横切って大丈夫ですよね?」
官吏は一瞬驚くと、愉快そうに笑った。
「え、あの、やっぱりだめでしょうか」
「いやいや、通るのはかまわないと思うよ。まだ先導の列も来ないからね。あなたは拝見しなくていいのかい?」
「皇子ですか?」
官吏はにこにこと頷く。
「皇子は双子であらせられるだろう?そのうちの『赤の皇子』が通られるというんで、皆こうして待っているんだよ。『青の皇子』と『赤の皇子』は瓜二つでいらっしゃるらしいが、『赤の皇子』はめったに皇城に姿をお見せにならないからね」
「はあ……」
皇子が双子であることすら知らなかった花音は、赤でも青でも黄色でもいいから早くここを通りたいというのが本心だった。
そんな花音の心の声が通じたのか、官吏は娘を励ます父のように優しく言った。
「いや、あなたのような若いお嬢さんは、眉目秀麗で有名な皇子の御姿を拝見したいのではと思ったが…お急ぎなんだね。まだ大丈夫だと思うから行きなさい」
そうして前にいる人々の列に、人が通るぞと声を掛けてくれた。
「ありがとうございます」
にこやかに頷く官吏に一礼して、花音は人垣を通りぬけた。
『赤の皇子』はまだ到着しないらしく、様子を見ながら白陽通りを横切っていく官吏の姿もけっこうある。
花音も同じようにして、通りのはるか向こう、そびえ立つ天承門の方を窺ったが、それらしき行列はこない。
急いで通りを横切り、匠殿の正面門に着いたとき、白陽通りからわっと歓声が上がった。『赤の皇子』がきたのだろう。
「ま、あたしにはまったく関係のない御方だし」
花音の野望――本読み放題の楽園――を叶えてくれるこの宝珠皇宮の主ともいうべき存在ではあるが、実際の花音の生活とは無縁な存在でもある。
尚食女官や尚衣女官と違い、後宮女官といえども蔵書室官吏の花音は、やんごとなき御方との接点は皆無だ。いわゆる「お手付き」になる可能性もないし、皇子や帝がどのような容姿の御方であるかは花音にとってあまり重要ではない。
本をたくさん所蔵できる環境を整えてくれる帝や皇子であれば、それでいい。
それだけが花音の望みだ。
歓声の上がる方を一瞬振り返ったが、花音は戻ることなく急いで匠殿を工部へ向かって走り始めた。
このとき赤の皇子を見ておけばよかった――と、後に花音は後悔することになる。
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