第四話 花音、走る①

「いたた……」

 翌朝、花音は身体中の痛みで目が覚めた。

 こんなにひどい筋肉痛になったのは、人生初めてかもしれない。


「腕が上がらないわ……やっぱり無理が祟ったんだ……とほほ」


 初出勤の昨日は、終業の鐘ぎりぎりまで書架に本を戻し続けた。

 昼食後も伯言に手伝う気のないことは変わらず、というか再びふらっと姿も見えなくなったため、一人で働かざるを得なかったのだった。

 

「体力には自信あるんだけどな……」 

 足が速いのは生まれつき、それが近所でも評判で、よく遠くまでのお使いを頼まれた。

 花音としては出先の木陰で読書をするのが楽しみでもあったので、頼まれれば引き受けた。

 評判が評判を呼び、いつしか花音は速配で小遣い稼ぎができるまでになった。

 おかげで足の速さは村一番、しかし家事畑仕事はさっぱり、な娘になってしまったのだが。


ここ宝珠皇宮にきてから運動らしい運動もしてないから、仕方ないか」

 痛む身体になんとか女官服を通し、ぎくしゃくと歩いて華月堂へ向かう。


 すれ違う女官が怪訝気けげんげな顔で通り過ぎていく。社交的な笑みを返すのにも疲れてきた頃、やっと身体も多少は動くようになったので先を急いだ。

 けれど、思ったより時間がかかってしまったようだ。

 余裕をもって女官寮を出たつもりが、吉祥宮の隅にある華月堂に辿り着いたのは始業の鐘の鳴る直前だった。


「おはようございます」

 おそるおそる扉を開けると、正面の長卓子の前に伯言が仁王立ちしていた。


「遅い!!」


 いぶした銀色の深衣に羽毛飾りの扇。およそ蔵書室官吏にしては洒落しゃれすぎているその姿を上目遣いで見て頭を下げる。

「す、すみません。でも始業の鐘はまだ鳴ってないし――」

 と花音が申し開きを始めたところで、厳かな鐘が南の皇城から響いた。

「ほら、今。今鳴ってますよ」

「ほら、じゃないわよこのバカタレちゃんが。あんた、新人でしょ?新人は誰よりも早く出仕して机拭いたり窓開けたり雑用をするんでしょうが」

 そんな話は一言も聞いてなかった花音である。

「でも昨日、伯言様、終業の刻限になっても戻られなくてお会いできなくて、御指示も今聞いたので――」

「いやあね。口答え?これだから近頃の娘っ子は困るわぁ」


 花音を娘っ子呼ばわりするほど伯言は年長ではなさそうだが、ともかくも機嫌を損ねてしまったらしい。


「す、すみません。明日から気を付けます」

 さらに深く頭を下げると、頭上で伯言が言った。

「もういいわ。それよりあんた、持久走が得意なのよね?」

 それをどこで、と問う前に、伯言が優雅な仕草で背後の長卓子を指した。


 そこには、本が十冊ほど置いてある。その上には、小さな紙が一枚。

「これは…皇宮の、地図?ですか?」

「ご明察よ。それを見ながら、そこにある本を皇宮の各所に返却してきてちょうだい。遅くとも午前中で終わらせてくるのよ。書架の返却も終わってないんだから」



 後宮に住まう妃嬪は、外へは出られない。

 帝や皇太子に付き従ってのお出ましや出産・病時の里下がりは例外で、いちど後宮に入ればその後の人生のほとんどを後宮で過ごす。

 そのため、本は妃嬪と外界をつなぐものの一つであり、外界から本を借りてくるのは後宮蔵書室である華月堂の仕事であった。

 借りれば返すのであって、その返却を花音は命じられたのだが。


「場所がいろいろすぎる……午前中で終わらないっつうの!!」


 文殿の長廊下に、花音の叫び声が響いた。

 行き交う官吏たちが眉をひそめて通り過ぎる。花音は慌てて口を押えた。


 吉祥宮から皇城へ出て最も近いのが文殿で、とりあえずと思い天文庁に星占の本を返却した。

 次は、と思って地図と本を確かめて、そこで初めて本の返却場所が皇城中に散らばっていることに気付いたのだ。


「くうう、またしてもあの鬼上司……」

 地図の確認をさせないほどに急いで追い立てたのは、こういうことだったのか。

 羽毛飾りの扇子の下、ほくそ笑む伯言の顔が脳裏に浮かぶ。

 花音は掌で涙をそっと拭い……ではなく、掌を握りしめて勇壮に振り上げた。


「くっそう……負けるもんか!」


 懐からたすきを出し、袖をくくる。くんすそもひざ下までくるようにたくし上げて腰で折りこみ、風呂敷に包んだ本をしっかりと背中にしょった。

「やってやろうじゃない!速足はやあし村一番の意地を見せてやる!!」


 花音は気合いを入れて走り出した。


 白いすねも露わに文殿の長廊下を疾走する少女に、人々はぎょっとして振り返る。

 しかし当の花音は周囲の驚愕と好奇の目などまったく気にしていなかった。

 気になるのは時間だけ。


(あと半刻で文殿の太常たいじょう庁と鴻臚こうろ庁、それと礼部に本を返してたくみ殿に向かわないと!!)


 そのことで頭がいっぱいだった。


 太常庁と鴻臚庁はともかく、礼部では格式に則った礼をして

入室しなくてはならないため時間がかかる。

 それは匠殿・工部でも同じだ。

 匠殿では工部への返却しかないが、工部からは香炉、塗箱ぬりばこ、茶器、屏風についての本と、最も多い冊数を借りているため、それなりに丁重にしなくてはならない。

 無作法があって後から伯言に報告され、それをねちねち言われるのはごめんだ。時間に余裕をもって工部に向かいたかった。


 軽い散歩ほどにもなる長廊下を突き当りまで走ると、回廊を右に折れて進む。出くわした官吏の一団が仰天して、先頭にいた老官吏は腰を抜かした。

「こっ、ここは文殿ぞ!そそそのような格好で走るなどと言語道断!」

 背中から上ずった老官吏の叱責が聞こえる。

(ひええええごめんなさい!!)

 と心の中で叫びつつ花音は速度を変えることなく走り、美しい中庭を規則正しく囲んでいる回廊を爆走、太常庁の扉を叩く。


「はい、どちらさまでしょうか」

 対応に出てきたこれも新米らしき少年官吏は目を丸くした後に可哀想なほど顔を赤くし、「後宮蔵書室より、本の返却に参りました!ありがとうございました!」

と花音がなかば押し付けるように渡した本もされるがままに受け取り、目の前の足丸出しの女官を正視することもできず、口の中でもごもごとお礼らしき言葉を言っている間に花音は次の目的地へ向けて走り去った。


 同じことを隣棟の鴻臚庁でも敢行し、花音はそのまま礼部に走った。


 礼部の前ではおとないを入れる前に呼吸を整え、姿勢を正して扉を叩く。

「はい」

 出てきたのは女性官吏だった。

 花音より少し上の少女だろう。花音を見るなり目を見開き、息が止まってしまったかのように見えた。

「?」

(どうしたんだろう。走ったから、髪が乱れているかな?それにしても…)

 目の前の少女はうろたえて、声さえも出せずにいる。

 仕方なく花音は用件を告げた。

「後宮蔵書室より、本の返却に参りました」

 本を手渡すと、少女はハッとして本を受け取りながらも口を開いたり閉じたり、言葉を探しあぐねている様子だ。

「ありがとうございました。あの……?」

 花音が少女に問いかけようとしたとき、少女の背後からよく通る声がした。


「貴女ね。華月堂に入った新米官吏というのは」


 いつの間にか、少女の少し後ろに妙齢の女性が立っていた。


 すらりとした長身に涼やかな緑碧りょくへきの襦裙がよく似合っていて、少し目の吊り上がった細面の美人だ。


 帯は控えめな色ながらも錦織、秀でた額に花鈿かでんが施されていることから、高級貴族なのだとわかる。また、目の前の少女は慌てて脇に下がって頭を下げたので、礼部の上官でもあるのだろう。


「鳳伯言はいよいよ気でも触れたのかしら。こんな野蛮な娘をわざわざ自分の部下にするとは」

 棘のある言葉に花音が立ちつくしていると、隣の少女が「こちらは、礼部次官の範麗耀はんれいよう様ですよ」と慌てたようにささやいた。

 花音は慌てて頭を下げた。

「し、失礼しました!蔵書室官吏、白花音と申します。後宮にてお借りした本を返却に――」

「さっき大声で言っていたのが聞こえたわ。それより、今さら頭を下げてもあなたの野蛮さはどうにもならなくってよ」

「え?あの……」

 その場の空気が凍り付くような、圧倒的に冷たい範麗耀の態度に戸惑っていると、範麗耀は更に冷たく言い放った。


「あなたの田舎ではどうだか存じませんが、この龍泉の都においては女性が公の場で足を出すのは、下着姿で歩いているのと同じですのよ」


 一瞬の、沈黙の後。


 花音の顔が真っ青になり、真っ赤になった。


「そ、そそそそ」

 とにかくたくし上げていた裙を慌てて元に戻し、しどろもどろに言う。

「そうとは知らず……あの、その、失礼しました!!」


 下げた後頭部に大きなため息が降ってくる。その息でそのまま凍り付いてしまうのではないかと思うほど範麗耀は冷ややかだった。

「どういたしまして。どこぞの田舎からきた田舎娘なのでしょうから、教えて差し上げてますよ、いくらでも」

 恥ずかしさのあまり顔を上げられずにいると、範麗耀はさらに続けた。

「ただでさえ今は後宮が落ち着かないときだというのに、こんな田舎娘を部下に採るとは。相変わらず何を考えているのかわかりかねる御仁だこと。――白花音とやら」

「はっはい!」

 慌てて顔を上げると、冷たい美貌が花音を見下げて言った。

「あなたの上司にお伝えになって。『部下に礼儀作法も教えられないほど忙しいのなら、蔵書室はいつでも礼部の管轄にして差し上げますわ』とね」


 再び頭を下げた花音の頭上で、礼部の扉がばたん、と大きな音を立てて閉まった。




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