第三話 華月堂の幽霊

 花音は、泣きたいのを堪えてせっせと本を書架に戻していった。


 夢にまで見た本の山が目の前にあるのに。

 ちらっと見ただけでも興味惹かれる題名がたくさんあるのに。


「読みたい!でも読めない……」

 それらを開くこともできないまま黙々と書架に戻さなくてはならない。

 さっさと戻さなくては、三日でこの量の本を書架に戻すことなど不可能だ。いや、そうまでして頑張っても終わるのかどうかあやしい。本を開く余裕などあるはずもなかった。


「あと三日なんて、無理だわよ……」


 本は基本的にしるし別に仕分けされているようだが、近場の書架に印がない本も混ざっている。

 正しい書架の位置を探し、確認し、戻す。その作業のため、室の中を走り回っているのだった。

 おまけに、壁際の高い場所は梯子を使わねばならず、その梯子の移動もかなりな肉体労働。

 高窓から入ってくる初春の風はまだ冷たいが、すでに花音は汗だくで、女官服の袖をたすきでくくっていた。


「もっと林おじさんちの刈り入れとか手伝っておけばよかったわ」

 野山のウサギのように、足だけは速い。それを活かして農作業の手伝いから逃げ回っていたツケがこんなところにくるとは。

 己の非力を嘆きつつ、素早い作業でそれを補おうとして本が手から滑り落ちそうになった。


「おっとと……あぶないあぶない」

 本を何よりも大事にする花音にとって、本を落とすことは我が身の怪我と同じようなもの。

 加えて、皇宮に所蔵されている本がどれだけ貴重なものかもわかっている。床に落とすなどもってのほかだ。

 花音にとっては古本でも皇宮の本でもなべて大事なものだが、そこはお役目もあり、いつもより神経を使って本を扱っていた。


「慎重に慎重に……」

 梯子の上に本を載せれば時間も労働力も節約できて一石二鳥だと気付いた花音は、慎重に梯子の上へ本を積み上げていく。

「これでよし、と」

 崩れない程度に満載した本の山を見上げて花音が梯子を移動させていると、


「!」


 何かに引っかかった感触に、花音はよろめいた。


 その拍子にぐらりと揺れた梯子の上から、きちんと積み上げてあった本の山が崩れるのが見えた。

(本が落ちる!!)

 咄嗟に数冊がなだれ落ちてくるのを受け止め――そのまま頭から床に倒れた。

 瞬間まずいと思ったがすでに時遅し。

 

 新人蔵書室女官 白花音、本を守って後頭部を打ち意識不明。


――にはならなかった。


 倒れ込んだそこは床にしては柔らかい感触だと思うと同時に、「うわっ」という低い声。


「?!」


 人の声に驚いてすぐさま身を起こすと、しっかりとした腕に抱きしめられている。

 そしてその手は、本の隙間から花音の胸のふくらみを握っていた。

「ふうん、まだ成長過程だな」


「!!!」


 腕を振り払って慌てて飛びのくと――人がいた。



 花音とさほど変わらない年齢だろう。

 少年と呼ぶには大きく、しかし大人の男性にしては華奢な。

 長い髪を結いもせず、無造作に括っている。その癖のないさらりとした黒髪が、肩の辺りで乱れていて。


「だ、だだだだ誰なの?!ヘンタイ!!痴漢!!」

「そっちがいきなり倒れてきたんだろう」

 と言った声には、非難というより面白がっている色が濃い。

 口の端をあげた表情がそれを物語っている。

「~~~……――!!」

 花音は腹立たしかったが、高窓からの薄明りの下でもそれとわかる端麗な顔立ちに、何も言えなくなってしまった。


 こんなにも綺麗な顔立ちの人間を、花音は初めて見た。


 精悍な顔の稜線だが、細い鼻梁や唇は繊細で、切れ長の双眸と意志の強そうな眉が印象的だ。

 薄鈍うすにびと白の衣裳に、明らかに女性物の派手な花模様の上衣という、奇異な格好をしている。

 紫瞳しとうであるのも、珍しかった。


「おい、頭でも打ったか?」

 心配そうに覗き込まれて、花音はハッと我に返った。

「ひゃあああ!あの、ええと……」

 昆虫のように超高速で後じさり、今さらなことを心の中で叫んだ。


(な、ななななんでここにこんな人が?!)


 人がいるとは思いもよらなかった。

 第一、鳳伯言の言うことを信じるとすればおおやけな開室は三日後である。


(不法侵入、っていうのかしらこの場合)

 とにかく、勝手に入ってきていることは間違いないであろう。

 とはいえ、ここに人がいたおかげで怪我をせずに済んだ花音である。

 不法侵入だとしても、胸を触られたとしても、ここはまず礼を言うべきだろう。


「あの、その、ありがとうございましたっ」

 頭を下げると、端麗な人物はくっくっと可笑しそうに笑った。

「何もしてないのに礼を言われるとはな。いきなり梯子でどつかれて倒れこんできたんだから、どちらかといえば謝罪じゃないのか?」


 穏当な受け答えを予想していた花音は、絶句した。

(なんなのこの不遜な態度は!!)


「……っていうか」

 何かに引っかかった感触、あれはこの人にぶつかったんだ!

 それで……危うく、数冊の本が床に打ちつけられるところだった。


 花音は、胸に抱いた本をぎゅっと抱え、相手をキッと見据えた。

「ここは蔵書室ですよ。あなたが寄り掛かっているのは書架。本を収納するところです。本が床に落ちないようにするために、書架の周りに物が置いてあってはダメなんです。本を読むならあちらの椅子でどうぞっ。いやっ、ていうか、華月堂はまだ開室してないんですよっ。規則違反ですよっ」


 ぜーぜーと息を切らして一気に叫んだ。

 そんな花音を呆気に取られたふうに見ていた男はすっと立ち上がると、可笑おかしそうに吹き出した。

「ちょっ、何がおかしいんですか!!」

 超絶美麗な少年は、まだ笑いながら肩をすくめた。

「いきなり倒れてきたかと思ったら妙な動きしたり礼を言ったり説教したり。面白いヤツだな。まあ、触らせてもらったことだし、ここはおあいこってことで」

 笑い含みにじゃあなと言うと、男は気流した上衣の裾をあでやかにひるがえした。

「ちょっ……あれ?」



 花音が言葉を探している間に、男は消えるように――本当に消えるようにいなくなってしまった。



 男が出て行ったはずの扉を呆然と見上げて座り込んだまま、花音の心臓はまだ大きな音を立てていた。


 官吏でないことは確かな、奇異な外見。

 いるはずのない場所にいた人影。

 この世のものとも思えない、端麗な美貌。

 そして、消えるようにいなくなった。


――華月堂って、幽霊が出るんでしょ。


 入宮式で聞いた噂が脳裏にひらめく。

「ま、まさかね、ははははは」

 こんな真っ昼間に。


「そ、そうだわ!胸を触った手の感じは現実のものだったし。あれが幽霊なはずないわ!ははははは」

 と己をふるい立たせるように声に出して言ったが、内容が内容だけに余計に落ちこんだ気持ちになる花音だった。 



 昼休みの鐘が鳴って少し経つと、鳳伯言が戻ってきた。

「はあーい花音。頑張ってる~?」

 すでに呼び捨てである。

「ほらあ、さっさとお茶淹れなさいよ。後宮厨から肉万頭まんじゅう分けてもらってきてやったわよ」

 鳳伯言は湯気の上がった籠を掲げ、いそいそと隣接する事務室に入っていく。仕方なく作業を中断し、花音も後につづいた。

「あの衝立の奥に、茶道具があるから。あと器もお願いね」

 鳳伯言は長椅子に座り、籠に掛けられた手拭を取って上がる湯気に歓声を上げている。

 またもや手伝う気は皆無のようである。

 いろいろと言いたいことや思うこともあるが、疲労と空腹に突き動かされて花音は黙って衝立の奥に立った。


「……なぜに??」

 そこにはなぜか、茶器道具一式が揃っていた。


 場所柄、火をおこす場所はないものの、上部に陶板とうばんの張られた長台には茶器一式、茶葉、小さめな器は一揃え、熱湯がきちんと準備されていた。

 首を傾げながらもお茶を淹れる準備をしつつ、花音は思い切って聞いてみた。


「あの、鳳様」

「あたしのことは伯言様とお呼び」

「……伯言様。あの……蔵書室に、人がいたんですけど」

「はあ?人?」

「今は開室してないですよね。なのにあたしくらいの年齢の、その、男が……」


 沈黙。


 伯言は黙っている。それがなにゆえの沈黙なのか、伯言の表情が見えないためわからない。

 急須を持つ手が震えた。


(まままさか、ほんとに幽霊なの……?!)


 背中にじわりと汗が噴き出す。

 しかしそんな花音の思いなど知りもしない伯言は、どうでもいいというように言い放った。

「さあねえ。ここ後宮には街一つできるくらい人がいるんだから、一人くらいまぎれ込んでもきてもおかしくないんじゃなぁい。それより、お茶まだなのぉ?万頭冷めちゃうわよ」


 そんなわけないだろー!!

 まぎれこんでたらおかしいでしょぜったい!!


「で、でも、華月堂はまだ開室してないですし、変じゃないですか?」

「別にぃ。変でもないんじゃなあい。ていうか、冷めちゃうから先に万頭食べるわよ?あんたも早くお茶持ってこっちきなさい」


 途端に美味絶賛の叫びが部屋に響く。

 鳳伯言は花音の幽霊話より、目の前の万頭が大事なようだ。

 

「…だめだこりゃ」


 花音は深々と溜息をつきつつ茶を淹れた。

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