第二話 美しき鬼上司

(次官?!)

 ということは、この鳳伯言なる人物は蔵書室官吏。

 しかも花音にとっては上司になるわけで。

(じゃあ…これが噂の、鬼上司??)


 けれど。


 優雅な身のこなし、中性的な顔立ちはいずれの殿舎の妃と言われてもおかしくないほどの美貌。おまけに化粧をしている。

 かろうじて深衣と長身で男性と判別できるが。

 鬼どころか、どこぞの姫か貴公子かと思われる麗貌だ。


 美しい。美しすぎる――宦官。


(たぶん宦官、だよね?)

 後宮にいる男性官吏は、例外を除いて宦官である。

 しかし、宦官はその特殊な役割から内侍省に所属しているはず。皇宮の知識に乏しい花音でさえそれくらいのことは知っている。

(蔵書室が内侍省の管轄なのかな……??)


 その時、鋭い音をたてて扇が閉じられた。


「ひゃあ?!」

 目の前でやられたので花音は驚き、思わず叫ぶ。なんとも言えない奥ゆかしい芳香が扇から薫った。

「ダダ漏れ。頭の中ダダ漏れよ白花音。顔にすべてが出たんじゃあ後宮で生き残れないわよ!返事は!」

「は、はい!」


(後宮で生き残れないって…あたしは妃嬪じゃなくて官吏なんですけど)

 などと心の中でツッコむ花音に、鳳伯言は扇をビシッと突きつけた。


「いい?まず蔵書室は内侍省管轄ではない。どこの指図も受けない孤高の役所なの」

 得意げに言うが、「孤高」とは……物は言いようである。


――やっぱりここ華月堂が閑職だっていうのはほんとなんだわ。


 左遷された宦官や他では使いものにならない老官吏が骨を埋めるためにやってくる職場なのだろう。

 さきほどから、鳳伯言より他に人影を見ない。いくらなんでも、官吏が一人の職場などあり得ない。

 しかし、ここ華月堂が官吏の墓場ならそれも納得できる。


「それから、あたしが宦官かどうかを聞くのは失礼よ!女性に齢を聞くのと同じくらい失礼!」


――いや、聞いてないし!ていうかものすごい女言葉だし!!


 ひそかにドン引いたが、黙ってコクコクと頷いた。

 宦官になる経緯は様々で、中には望まないで宦官になることも少なくないという。聞いてはいけない類のことなのだろう。


(後宮にいる間、内侍省の官吏に接するときは気を付けなくちゃ)

 心の中で己に訓戒していると、美しすぎる上司がこちらをじっと見ていることに気が付いた。

 頭のてっぺんから足の先までまったく遠慮なく花音を観察している。

(う、李家のおばあちゃんみたい……)

 李家の老婆とは村長老の一人、村の娘たちに家事裁縫を仕込む達人で、年頃の娘を持つ親の救世主的存在である。

 その李家の老婆が最初に娘たちと対面するとき、じろじろと品定めのように見られるらしい。ただ見つめられているだけなのに「身ぐるみはがされたような」気持ちになるのだ、と。

 まさに今の花音の心境も同じだった。

 しかも相手は老婆でなく、美しすぎる男――宦官だけど――なのである。

 灰色の双眸が思いのほか眼光が鋭く、花音はだんだん不安になってきた。

「あ、あの…?」

 思わず言うと、鳳伯言は再び扇を花音の鼻先に突き付けた。


「白花音。南陽県鹿河村出身。十六歳。父は白遠雷、私塾の教師。この身元で間違いないわね?」


「は……はいっ」

 言われて背筋が伸びる。


(そう、ここはあたしの職場なんだわ)

 閑職だろうとなんだろうと、ここは花音の職場であるし、読書三昧の楽園である。気合いを入れて返事をした。

「よろしい」

 ぴし、と扇を手元に戻して、鳳伯言は艶やかに笑んだ。


「では、さっそく仕事よ」



――華月堂には部下をいびる鬼上司がいる。

 入宮式で聞いた噂話が、頭の片隅から響いてくる。

「ほ、ほんとかもしれない……」

 うず高く積み上げられた本の谷間に座り込んで、花音はがっくり肩を落とした。


 あれからどれくらい経ったのだろうか。休みなく仕事をしている。


 仕事とは、本を書架に戻すこと。


「ここにある本を書架に戻してね。本の印と同じ印の書架に戻すのよ。それだけ。簡単な仕事でしょ?」


 たしかに簡単だ。簡単なのだが。


「読んでたらとても片付かないわ……」

 書架の下、まるで地面からにょきにょき生えた鍾乳石のような本の山が薄暗い蔵書室の奥まで続く。

 確認したところ、すべての書架において同じ状況なのである。

 つまり現在、この室の中の本はほとんど書架から出されており、そのすべてを戻さなくてはならないのだった。

 目の前に垂涎の本が山とあるのに、手に取る度にムラムラ湧きおこる読書欲求を抑え込み、ひたすら本を書架に戻している。

 花音にとっては、肉体的にも精神的にもツライ仕事だ。


「あらあ、まだこれだけしか終わってないの?」

 ひょっこりと鳳伯言が書架の間から顔を出した。

「あと三日したら華月堂開室よ。それまでに本を全部きっちり書架に戻してね~」


「はい?!」

 花音は耳を疑った。


(今なんつったこの上司??)


「あの、開室って」

「三日後に通常通り開放するってことよ。正月から入宮式までは利用休止期間だったの。ここは後宮の中でも身分関係なく来られる娯楽室だから、女官の間じゃまあまあ人気なのよ。まあ、吉祥宮の隅っこにあるからなかなかここまで来る時間のある女官も少ないけど、それでもけっこう来室はあるのよ。間に合うように頑張ってちょうだい」

「……あの」

 花音は努めて冷静に聞いてみた。

「虫干しでもしていたんでしょうか?なんで、こんなに本が全部出ているんですか?」

 すると鳳伯言は扇を広げてしれっと言ったのだった。

「冬の間に返却本を戻そうと思っていたのだけど、ほら、素手で本を触ると手が荒れちゃうでしょ。今、工部の知り合いに専用の手袋を発注しているところでね」

(はああ?!)

 何を言っているんだろうこの人はと思ったところに、美しき上司はさらにトドメの一言を言い放った。


「手袋がきてからまとめて戻そうと思ったら、労働力がやってきたから」


(労働力?!この人いま労働力っつった?!)


「あらあら、そんな恨みがましい目で見ないでよ。たまたま量がちょーっと多くなっちゃったけど、本の返却は蔵書室官吏の基本のキよ。新人研修の一環ね、うん」


 取って付けたような理屈をのたまうと、鳳伯言はぱちんと扇を閉じた。

「そうそう、腹が減っては仕事もできないわ。あんたが、お昼を調達してきてあげる。あたしってなんて良い上司なの~。花音、あんたは幸せ者よ!ということでしっかり頑張ってちょうだいね~」


 じゃね~と扇をひらひらさせて、鳳伯言はどこかへ行ってしまった。

 手伝う気は皆無らしい。


 花音は口を挟む間もなく、その優雅な後姿を見送るしかない。


 呆然とつっ立ったまま、しかし腹の底から怒りが込み上がり、ふるふると拳を握りしめた。

「あンの……鬼上司!!!」

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