第一話 夢の一歩、その先に

 まだ寒さ残る初春。

 ここは龍昇国の中心、龍泉の都にそびえる宝珠皇宮、後宮。


 いつにも増してにぎやかなのは、年若い少女たちのさざめきが後宮のあちこちから聞こえるからだ。

 花々をほころばせる暖かな風に乗って、彼女たちの喜びや期待が後宮中に広がっていくようであった。


「ほら、そこの方々!お静かになさいませ。あなた方は今日から宮仕えの身なのですよ。恥ずかしくないように振る舞いなさい!」

 年かさの女官の叱責が飛ぶが、少女たちのさざめきは止まらない。


 彼女たちが浮足立つのも無理はない。


 国中の女子が一度は憧れる、皇宮仕え。

 しかし、その栄誉にあずかるには、皇宮から課される難関試験を突破しなくてはならない。

 世に言う女官試験、正式には宝珠宮官登用試験である。

 少女たちはその宝珠宮官登用試験を突破し、宝珠皇宮後宮にやってきたのだから。

 

 中でも後宮の中心・吉祥宮では、その壮麗な殿舎群を目にした途端、感極まって泣き出す少女もいた。


 金色の欄干、磨き上げられた回廊に美しく整えられた庭園。連なる飾り燈籠。陽の光を反射する屋根瓦は雄大な河の波のように煌めき、どこまでも続く。


 麗春殿、爽夏殿、清秋殿、凛冬殿。四貴妃が入内する四季殿には、それぞれに雅やかな趣向が凝らされ、新米女官は仕事も忘れ、見惚れてしまう。あちらこちらで歓声が上がる。


 そんな地に足のついていない少女たちを叱りつつ、各殿舎の女官たちが殿舎内を案内し、仕事を説明して回っていた。

 美しい殿舎の間を、回廊を、真新しい女官服に身を包んだ少女たちが列をなして移動する様は、小さな蝶の群れのようだ。

 入宮式後の後宮において、初春恒例の景色の一つである。


 四季殿には現在、すべての殿舎に貴妃が入っていることもあって、今年の吉祥宮は皇宮のどこよりも早く春めいていた。



――そんな、吉祥宮の片隅で。



「ついに来たわ」


 一人の少女が、頬を上気させて立っていた。


 子猫のような、大きな翠色の双眸。つんと摘んだような鼻。

 けっして美人とは言えないが、ふっくらとした頬やきゅっと端の上がった桜色の唇は、見る者が思わず微笑んでしまうような愛嬌がある。透けるような白い肌に漆黒の艶やかな髪が映えるが、編んで巻き付けただけの簡素な髪型のため、その美しさが活かされていない。

 浅葱色の上衣に薄い紅色の裙、という新米女官定番の服装には、気持ちのいいくらい飾りっけがない。

 唯一、首から下がった眼鏡が装身具といえば装身具だが、なんの変哲もない黒い縁枠に水晶が収まっているだけ。こちらも「美」より「実」を取ったのが明らからな質素な品である。



 新米女官といえどもここは後宮、控えめな簪や帯留めくらい身に付けているものだが……。

 

 しかし、そんな飾り気のなさとは対照的に、少女の表情は明るかった。


 その視線の先には、ここが絢爛豪華な吉祥宮かと疑ってしまうほどに地味な建物があり、少女はそちらに向かって颯爽と歩き出す。


 塗りっぱなしの茶けた壁、装飾のない屋根や欄干。

 修繕や手入れはされており、清潔ではあるが、まるで寺院のように地味で素朴な建物。

 唯一、扉に施された幾何学模様の意匠の見事さが光っている。

 少女はその扉の前まで来ると、呟いた。


「ついに来たわ……華月堂。ここであたしの理想郷生活が叶うのね。父さま、ごめんなさい。最初で最後の娘の嘘をどうか許してね」


――遡ること、半年前。



「花音!!何度言ったらわかるのだ!!」

 父の大きな声に、少女は正座したまま身をすくめた。

「蔵に入るなとあれほど言ったではないか!」

「だって……父さま。蔵に行かないと、本が読めないじゃない」

 不平たらしく言うと、さらに大きな声が居間いっぱいに響いた。



「そ、そんなに怒鳴らなくても……父さま、血圧上がるよ?」

「うるさいっ!私だって不便なんだ!塾で使う本もいちいち蔵から出し入れしているのだぞ!」

「え、だから、本を蔵から出したらいいんじゃあ……」


「いいじゃない!!あたしは本が読みたいのよ!!」



 父娘の争いは、敷地内の小さな小屋にまで丸聞こえだった。

 そこは怒鳴り声の主、白遠雷が営む小さな私塾である。

 集まってきた生徒たちが、ボロ母屋から聞こえる遠雷先生父娘のやり取りに顔を見合わせ、肩をすくめた。

「またはじまったな。本を読みたい娘と、本を読ませたくない父の終わりなき戦い」

 この父娘の喧嘩は長い。生徒たちは、溜息を吐いて黙々と本を読みはじめた。


 生徒たちの予想通り、遠雷と花音の言い争いは止まらない。


「本など読まずに、家事裁縫花嫁修業に励みなさいっ。その方がよほどおまえのためなのだよ!」

「嫌よ!だいたい、嫁なんかいかないかもしれないじゃない!」

 すると遠雷は、大きな身体に似合わぬ花柄の手巾を取り出し、鼻をすすり始めた。

「花音や、おまえも十六歳。嫁にいってもいい齢だ。三軒隣の姜さんちの娘さんも、お向かいの関さんちの娘さんも、先日結婚が決まったそうだよ」

「そ、それは知ってるけど」

 嫌な予感がする。

 花音は後じさったが、袖の裾をがっちり父に掴まれた。

「なぜおまえだけ結婚が決まらないのだ?」

「そ、そんなことあたしに聞かれても……」

「それはずばり、おまえに花嫁修業が足りないからなのだよ」

「そ、そんなことは」

「ある!あるのだ!!この前、れん君の御父上に言われたのだ。『花音ちゃんは可愛いし、足も速いし、物知りだし、倅もまんざらじゃないみたいだけど、嫁にはちょっとねえ。うちは農家だから、家事肉体労働ができねえと嫁にはねえ』と……」


 簾とは、林簾。近所の農家の息子で、花音とは幼馴染である。


「はあ?!ちょっと待ってよ父さま!!なに勝手に林家のおじさんと話してんの?!ていうかなんであたしが簾の嫁にならなきゃいけないのよ!!」

「この際、簾君のことはいい。問題は、昔から懇意にしているご近所さんからも嫁仕事ができない娘だと思われているところだ!ああ、すまない母さん、私の育て方が悪かったようだ……」

「悪くないし!っていうか天地がひっくり返ったって簾の嫁になんかならないわよ!!」

 ぜーぜー息を切らして花音が怒鳴ると、遠雷は手巾でさめざめと涙を拭った。

「死んだ母さんは、おまえの花嫁姿を楽しみにしていたのに……私は母さんに顔向けできないよ」


(はじまった……)

 嘘泣きだとわかっていても、これを言われると花音も二の句が継げなくなる。

 花音を生んで間もなく母が亡くなり、父が私塾を細々と営みながら男手一つで育ててくれたことは事実だからだ。


 本来ならば一人娘の自分が嫁にいって父を安心させてやるのが親孝行。

 わかっている。それはわかっている。

 

 近所の娘たちもまるで大売出しのように次々と嫁ぎ先を決めているし。


 十六歳ともなれば、子を産む女子も少なくない村だし。


(だけど、だけど!!)

 花音は、どうしても本が読みたいのだった。


 私塾を営むだけあって、貧しいながらも本だけは家にたくさんあった。それを読んで育ってきた花音は、本への情熱溢れる少女に成長したのだった。


 もっとたくさんの本を読んでみたい。

 名前しか聞いたことのない本、古今東西の古文書、異国の本。本のことを考えればきりがない。


 くりやで火をおこしながら本を読んでいて鍋を焦がすことは日常茶飯事、新しい飾り帯やくしでも買ったらどうかと父がなけなしの家計から小遣いをやれば古本を買ってくる。

 女子力ゼロな十六歳なのである。


「今からでも遅くない。花音や、李家のお婆さんの所にしばらく住み込んで家事裁縫の一切をイチから仕込んでもらって――」

 花音は大きく息を吸い込むと、懇願しかけた父の言葉を遮り、言い放った。


「あたし、女官試験受けるから!!」


 嘘泣きも忘れて口をあんぐり開けた父に、さらに花音は宣言した。


「尚食女官になるわ。後宮厨で働くの。それなら料理に礼儀作法に花嫁修業もばっちりでしょ!」



――これが一生に一度きりと誓った、父への嘘である。



 花音は、を受け、蔵書室官吏に登用された。


 家にいても、読書は禁じられ、花嫁修業を叩きこまれた末に嫁にいかされるのがオチである。

 だったら、父に嘘を吐いてでも逃げるしかない。

 しかも、蔵書室官吏になれれば好きなだけ本に囲まれて、本を読める。


 そんなやや短絡的な考えの元、いやしかし花音的には大真面目に、勉強に励み、見事試験を突破し、龍泉の都にやってきたのだった。





「父さま、どうしてるかな……」

 今ごろ大喜びで母の墓前に報告をしているであろう父の姿を思い、つきんと胸が痛む。


 それに、入宮式で聞いた話も気になっていた。


『蔵書室って、閑職なんでしょ。失脚した宦官とか老官吏の墓場だって。後宮の女官に付きものの役得も何もないって』

『蔵書室官吏?ああ、華月堂でしょ。あそこ、いろいろ噂が絶えないよね』

『そうそう、呪いの本が置いてあって、それを使って呪殺された妃の怨霊が今も夜になると出てくるとか…』

『上司が鬼だって。ものすごい意地悪で、三日と続かないって』

『新米女官が上司にいびり殺されたって聞いたわよ。上司にいびられて、辞表出して、実家に帰って首をくくったって。それ以来、新人はあそこ華月堂には配属されないって。あなた、気を付けなさいな』


――そんなあんなの会話が脳内を駆け巡り、しかしぶるぶると首を振る。

「だいじょうぶ。たくさんの本に囲まれて好きなだけ本が読めて、お給金までもらえるんだもん。まさに夢の世界、理想郷だわ。多少のことは我慢しなくちゃ!」

 今は、蔵書室官吏になれたことへの喜びと期待の方が大きかった。


 わずかに広がる不安をぐっと頭の奥へ押しやり、夢への一歩を踏み出す。


 扉に手を掛けて、訪いを入れた。

「失礼します。この度の入宮式で、蔵書室に配属になりました。白花音と申します」

 一拍おいて、「どうぞ」という優雅な声が返ってきた。女性?いや、それにしては声が低いような。


「失礼します」


 掌にまで心臓の音が伝わる。

 扉を、両手で開けると――


 薄暗い室内、長卓子の奥に大きな籐の椅子があり、優雅に足を組んで座っている人物が言った。

「いらっしゃい」

 濃紺錦の深衣。

 明らかに男性だ。が。

(化粧、してるよね??)

 うっすら紅を差しているように見えるがとても自然だ。細面で通った鼻梁、距離があってもそれとわかる整った顔立ちは中性的だからだろう。


 地味な灰色深衣に眼鏡のおじさん、という脳内予想がガラガラと音をたてて崩れていく。


(な、なにこの人……本を読みにきた人、かな?)

 目の前の人物の態度の大きさはまるで高級貴族の貴公子である。官吏には見えなかった。


 しかしその人物はゆったりと扇を動かし、婉然と言った。 

 

「華に遊び月に歌う――ここは書に親しみたい者が貴賤の別なく訪れる、後宮唯一の憩いの場。ようこそ華月堂へ。あたしはここの次官、ほう伯言よ」



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