第12話 はばたきの3月
まだ肌寒い、今日この頃。私は、この約一年を振り返っていた。
今までの私の人生で、一番色付いていた、楽しかった日々。
直面したのは、自分の弱さという、目を逸らしていた真実。
何度も迷って、逃げて、立ち向かって……そうして、私たちは互いを知った。
もっと、こうであったなら――羨んでいる理想像はあるけれど、彼に教わって、少しずつそれは夢から現実にスライドしていった。
――私には、決めたことがある。
勝手に実行すると怒られてしまうだろうから、今度はちゃんと伝えることにした。いつ言おうかドキドキするけれど、そろそろ告げなければならない。
先日互いに話をして、未来の展望を聞かせてもらったばかり。だというのに、私のそれは、すべてを否定するかのような提案だ。果たして、彼は何と言うだろうか……。
それでもこれが、私たちの『一番』の願いを叶える方法だと思うのだ。
まさか、この私が一番毒づいていた、奇跡や夢を信じて縋ることになろうとは、思っていなかったけれど。
彼は、きっと驚いて否定するだろう。もっと先でも良いのではと、言われるかもしれない。
そんな、いろんな「かも」は案の定、彼の口からあれもこれもと湧き出てきた。
「何で……」
「君の描く未来は、すごく魅力的だったよ。だけど……」
「さくらさんは、いつも勝手に一人で決める! 何で、そんな大事なことを決めてしまうの?」
「……それでも、君が望まないなら、私は――」
「……考えたい。お願い、考えさせて」
「うん」
予想していたことではあったけれど、告げるまでに勇気を振り絞ったけれど。それでも戸惑う彼は、真っ向から頭ごなしの全否定だけはしなかった。それだけでも十分だった。
これは、私一人の気持ちでは決められないし、実行できはしない。
私たちが同じ方向を向くことで、初めてスタートラインに立てるのだから。
そう――私たちは、始まってすらいない。ゼロですらないんだ。
だから、マイナスという生温い眠りから、目覚めなければならない。
願いを、叶えたいのであれば――
彼はしばらく考えると言って、今日は帰った。きっと、すぐに答えは出せないだろう。
どちらでも良い。彼が悩んで決めてくれたのなら、賛成でも反対でも私は受け入れよう。今度こそ、もう逃げない。
彼の夢をそばで見守るか、遠くで私も頑張るか……。いずれにせよ、私たちが願いを叶えるために選び、掴み取る未来。
それが、どうか願わくば、彼の狂気ではないことを。
そうではないことだけを、私は、ただただ祈っていた。
「結局、そういう話に落ち着いたんだ?」
「まだ保留中ってところだけどね」
レオくんに考えを伝えた日の、夕方。部活帰りのリュウを見つけた私は、彼に少し時間をもらった。
出会った時よりも、随分と仲良くなれた気がする。リュウは相変わらず悪態を吐きながらも、こうして私の要望を聞き入れてくれていた。
それが嬉しいようで、どことなく寂しいと思うのは、ワガママだろうか。
「結局、別れないなんて……一番ズルいやり方だよね。死んで幽霊になって、更にレオの心を永遠に捉えたままなんてさ。……やっぱり、嫌いだ。僕、お前みたいなやつ、嫌い。大嫌いだよ」
リュウが俯いてしまったので、その表情を窺い知ることはできない。
高い声が、わずかに震えていた。
「ごめんね、リュウ」
「簡単に謝るな。僕は、一生許さないからな。その奇跡とやらを起こさないと、絶対に許さない。レオとの約束を守らないやつは、許してなんてやるものか」
怖くない睨みを向けられて、淡い苦笑が自然と浮かぶ。
まるで、強がる小型犬。触れられたら、頭を撫でてあげるのに。……噛みつかれそうだけど。
「わかった。恨まれるのは嫌だから、頑張るね」
「何を頑張るんだよ」
「わからない。だけど、私にできることがあるなら、何だってする。それがたとえ、地獄での修行だとしても」
「……お前、地獄に堕ちるのかよ」
「それくらいの気持ちってこと。……何があろうと、諦めない。絶対に叶えてみせる。それが、私たちの願いだから」
「残りの二年を一緒に過ごすよりも?」
「一日でも早く、叶えるためだから」
まっすぐ向けられる視線は、やがて溜息とともに閉じられた。
小さな唇が、やんわりと微笑む。
「わかったよ。まったく、頑固な幽霊だな。……絶対、約束守れよ。僕も待っててやるから」
「リュウ……ありがとう」
「ま、それもレオがどっちを選ぶか――それ次第ってところか」
「そうだね。どちらになっても、ならなくてもいい。今のレオくんが本気で考えて決めてくれたなら、私はどんな未来でも構わない」
「そうかよ。……悪かったな」
「え?」
突然の謝罪に、目を丸くした。いったい、どうしたのだろうか。
「僕は、お前を目の敵にしてた。レオを沼に引きずり込むお前を、不幸の根源だと決めつけてたんだ」
「リュウ……」
風が吹く。美しい髪がさらりと揺れて、彼の片目を隠した。
「レオがああやって笑えるようになったのは、本当に最近なんだ。ずっと悲しみと戦って、苦労して、ここまで来たんだ。お前を心の支えにしながら、お前の言葉に囚われて、お前に苦しめられてきた。思い出に泣きながら、それでもレオはお前に縋ってきた。口を開けば『お姉さんが』『お姉さんに』『お姉さんの』『お姉さんだったら』って――いつもお前のことばっかり。そばにいる僕は何の役にも立たないのかと思うほど、レオの頭の中はお前で支配されてた」
無感情に語る瞳が、彼の過去の色を伝えてくる。
想いが、突き刺さるようだった。
「それでも、レオは現実を見ようと足掻いてたんだ。それなのに、お前は現れた。二度と出会えないはずのお前が、ここにいた」
ざあっと風が暴れる。私たちの髪をバタバタと翻して、視界を塞いだ。
「その時はまだ、僕には見えなかったから。だから、レオが言ってることの意味がわからなかった。そういった存在が見えることすら、レオは隠していたから。その時初めて、僕は知ったんだ。――レオが、境界線にいることを」
風がやむ。両の目が、まっすぐに私を捉えていた。
「憎かった。恨めしかった。死んでもまだレオを離さないのかって、悔しくなった。だから『お姉さん』がお前だと知って、会いに来た。付き合い始めたっていうから、別れさせてやろうって思った。消えてしまえって願ったんだ――お前のこと、何も知らないのに」
リュウは、力強い瞳を崩さなかった。だけど、声が泣いていた。
私は、口を開くことすらできなかった。
「全部聞いた。全部、レオに聞いたよ。僕がレオの隣にいた分、お前はここでたった一人、レオを見守ってたんだろ? 何も覚えてないのに、レオのことを見守り続けてたんだ。そんなこと、死の間際に願えるか? 自分のことじゃなくて、レオのこと? ――こんなの、僕がどうこう言えることじゃない。口を挟んでいいことじゃない。僕がしてることは、すべて余計なことだったんだ」
「――そんなことない。リュウは、ずっとレオくんのことを想って考えていた。そのどこにも、余計なことなんてない。そんなこと、言わせない」
私もリュウも、レオくんのことが大事で、大好きで。だから、幸せになってほしいと願う気持ちは、一緒なんだ。
そう想うことが余計なんて、そんなの私は認めない。
「……本当、お前って変な幽霊だな」
ふにゃりと表情を崩したリュウは、優しい顔をしていた。
少し困ったような、穏やかな笑顔だった。
「ありがとう……レオを、見守ってくれていて。どんな未来でも、お前たちが笑ってられるようにって、願うよ」
「ありがとう、リュウ。そこには、もちろんリュウもいるでしょ? 一緒に笑っていてね」
「……仕方ないな。お前たちだけじゃ、危なっかしいから。ちゃんとそばにいてやるよ」
「ありがとう。レオくんのこと、よろしくね」
「当たり前だ。だから、絶対に奇跡起こせよ」
「うん」
これは、彼の知らない私たち二人の約束。
たった一人でも、こうして想ってくれている人がいる――それは、とてもありがたいことなのに、なかなか気付けない。失って初めて、存在の大きさを知る。
だけど、誰かに教えてもらうものでもない。私は、そう思う。
だから、どうかと願う。彼が、気付きますように。
周りに溢れた小さな幸せに、気付くことができますように――
◆◆◆
「お前たち、部活覗いてたな?」
「バレてたみたいだよ。やっぱり、さくらさんの可愛いオーラは隠しきれないんだね」
「レオくんが格好良いからでしょ?」
「ちょっと、下手な誤魔化しなんていらないんだけど」
何の変哲もない、日常の一コマ。
大切な話は、保留のまま。今は、かけがえのない一分一秒を大事にしている。
答えを出すのは、数日後の卒業式の日。現三年生の、晴れ舞台の日。どの答えになろうとも、その日に必ず結論を出すと決めた。
――私が一生留年するか、卒業するかを決める大事な決断。それには、卒業式が相応しいと思ったからだ。
だからそれまでは、触れない。今は、今を精一杯楽しむんだ。
「だって、リュウが来月の発表舞台で主役に選ばれたって言うから。これは、練習を覗きに行かなきゃって。ね、さくらさん」
「そうそう」
「そうそう、じゃない。本番ならともかく、練習なんか見られたくない」
「そう言うと思ったから、こっそり見に行ったんじゃない」
「何がこっそりだ。バレバレだっての」
腕を組んで、斜に構えるリュウ。膨れているが、本気で怒っていないことはわかっている。
「他の人には、気付かれていなかったと思うな。リュウだけだよ、気付いたのは」
「それだけリュウが、俺たちのこと好きだってことだよね」
レオくんと二人で目を見合わせ、揃って美少年の顔を見やる。驚きの顔が、すぐさま照れ隠しに目を逸らした。
「何言ってんだ。この、自意識過剰カップル」
「まあまあ、そう言わずに。演技しているリュウ、格好良かったよ。すっごく引き込まれた」
「ね。さすが、演劇部のエース」
「……おだてたって、何も出ないぞ」
半眼を向けるリュウだったけれど、頬が緩んでいた。
私とレオくんは、また互いに目を見合わせて、そうして笑った。
楽しい。
こんな日常が、ずっと続けば良いと思ってしまった。
意味がなくとも、何も生まなくとも、残らなくとも、忘れ去られていく出来事だとしても、それでもかけがえのないことに違いはなかった。
大切で、大事で、愛しい日常。
感傷に浸るのは、一人の時でいい。
振り返るのは、今度でいい。
時間は有限だ。
そのことを、今の私は嫌というほど知っている。
だから、私は笑う。
偽ることなく心に従って、笑って、怒って、泣く。
そんな当たり前のことが、やっとできるようになった。そう思う。
こうしていると、何も難しいことなんてない。だけど、難しかった。ずっと、できなかった。
胸の奥にしまうのが板についた、悪い癖。
発することを教えてくれたのは、二人。
変わりたいと願った小さな心を引き出してくれた彼らに、私は誓う。
絶対、幸せになる。一緒に、幸せになろうね。
今度こそ、見失わない。離さない。
ありふれた日々が、当たり前じゃない幸せだった。
だから逃げない。歩き出すんだ。
嫌なことが起こらない日々――それは、幸せじゃない。
どんなことがあっても、立ち向かっていける。そんな強さがあること。悩みながら、傷つきながら、苦しみながらも顔を上げていられる。
それが幸せだって、わかったから。
だから、大丈夫。
永遠はないけれど、奇跡は起こせる。
だって私は、私たちは、一人じゃない。一緒なら、前を向けるよ。
足し算じゃない。掛け算で、大きくなれるから。私たちの想いを、信じよう。
夢を見たって良いじゃない。だって、未来は無限大だから。
作り出すのは、私たちだから。
「とにかく、もう来るなよ」
「えー? どうする? レオくん」
「ここは、とりあえず頷いておこうよ」
「そうだね」
「おい、聞こえてるぞ」
「いけない。さくらさん、逃げよう」
「あ、こら! 逃げるな!」
駆け出すレオくんに誘われるまま、リュウに背を向ける。
追いかけてくる彼から逃げる私たちは、顔を見合わせて笑った。
どうか、ここに私がいなくても、笑っていてね。
二人なら、大丈夫だって信じているから。
離れていても、笑っていてね。
◆◆◆
「卒業式って、こんな感じなんだー」
体育館の壁をすり抜けて、中を覗く。校歌を斉唱したり、一人ずつ名前を呼ばれて卒業証書を受け取ったり。そんな様子をしばらく見てから、またいつもの桜の木へと戻った。
「来てくれたんだね」
そこには、彼がいた。
「約束だから」
「……ごめんね、休みなのに」
「良いよ。さくらさんに会いたかったから」
「ありがとう」
それからは、二人で黙ってしまった。聞いていいものかあぐねたし、彼もどこかまだ迷っているようだった。
体育館からは、流行っているらしい卒業ソングが聞こえてきていた。
「さくらさん……」
静かな声が、柔らかく響く。私は、俯けていた顔を上げた。
「はい」
「俺はやっぱり、まだまだずっとこのまま、変わらず過ごしていたいと思う」
「うん」
「せめてあと二年はって、思う」
「うん」
「それに、俺が先生になって帰ってくるのを待っていてほしいとも思う」
「うん」
「教師になった姿を見てほしいと、思う」
「うん」
「でもさ、さくらさんの描いた未来を見てみたいとも、思うんだ」
「うん……」
「俺が奪ってしまった貴方の命だから、さくらさんが望むならって、思うんだ……」
「うん……」
「すごくすごく迷った。会えなくなるなんて、そんなのはやっぱり嫌だよ」
「う、ん……」
「ねえ、やっぱり二年後じゃダメなの?」
縋る声に、揺らぎそうになる。
しかし、私はふるふると首を振った。
「……少しでも早く、望みを叶えたいから」
「そっか……………………わかった」
彼は涙をいっぱいに溜めて、精一杯の笑顔で。
「俺たちの一番の願いが、叶うなら――」
まっすぐに私を見て、震える声で言った。
「俺は、貴方の夢を、俺たちの夢を、一緒に叶えたい」
「うん、うん……」
「さくらさん……」
「レオくん……」
私は。
私たちは。
貴方に。
君に、触れたい――
だから、奇跡を信じよう。
「さくらさん、十年間、ずっと、ずっと見守っていてくれて、本当に、ありがとう」
ついに流れてしまった涙を拭いもせずに、彼は言葉を繋ぐ。
「さくらさんからこの話を聞いて、本当に悩んだ。もう会えないかもしれないって思ったら、辛くて悲しくて、想像もしたくなかった。だけどさくらさんが、ずっとずっと先の未来を考えてくれたから。俺たちの願いを叶えるために、考えてくれたから……だから、今度は俺が待っているから。必ずまた会えるって、信じてるから」
「うん。今度は、私がレオくんを見つけるからね。もしも、レオくんのことを忘れてしまっていたとしても、必ず、必ず会いに行くから」
涙声など構うこともせずに、私たちは約束をする。
「生きて、必ず会おう」
「好きだよ。さくらさんが、好き。愛しい。愛してる」
「私も好きだよ。レオくんだけをずっと想ってる。たくさんの想い出をありがとう。貴方を、愛しています」
私たちの最後のキスは、涙の味がした。
「さよならは、なしね」
「うん」
「じゃあ、またね、レオ……」
何でもない日常の別れのように、私は手を振って、背を向けた。
「っ、さくら――くっ、……さくらーっ――!」
黒崎礼央の叫び声が、晴れ渡る青空へ響き渡る。
私はこの日、この世を卒業した。
生まれ変わりなんて、本当に可能なのかわからないけれど。また出会えるのかなんて、わからないけれど。
それでも、信じたかった。
信じてみたいと思った。
彼とならできると思った。
最初から望めなかったはずの私たちのラブストーリーは、ハッピーエンドを信じて、エンディングを未来へと持ち越した。
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