第11話 憧れの2月

 雪が降っている。薄っすらとそれは積もり、草木へ乗る。人の通る場所は解けて色濃く染み渡り、また降ってを繰り返す。この様子だと、それほど積もることもなく、すぐに解けてしまうだろう。他の地域のように、積もってしまって困るということもなさそうだ。

「雪ー!」

「雪だー!」

 子どもたちが、無邪気にはしゃぎながら門の向こうを通り過ぎた。

「寒い……無理、帰りたい……」

 振り返ると、リュウが立っていた。コートにマフラー、手袋、耳当てにカイロと、防寒具の重装備。それでも尚、寒さに震えていた。

「僕をこんな寒空の下に呼び出すなんて、いい度胸してるよね、お前」

「リュウは、やっぱり優しいね」

「はあ? 突然、何。僕の話、ちゃんと聞いてた?」

「うん。寒くても文句言いつつも、リュウは来てくれた。だから、優しいね」

 そう返すと何やらもごもごしていたが、リュウはやがて「フンッ」とそっぽを向いてしまった。

「お前が、レオのことで話があるなんて言うからだ。レオに関することじゃなかったら、わざわざお前の頼みを聞いたりしない」

「そうだね。ありがとう」

 朝に見かけた時、私はリュウに今日の放課後来てもらえるようお願いしていた。嫌そうな顔は「レオくんのことで」と言うと真剣なものに変わり、ぶっきらぼうながらも了承を口にしたのだ。彼の名を出せば、来てくれると思っていた。つまりは、確信犯だ。

 レオくんは、日直で遅くなると言っていた。このタイミングを逃すと、なかなかリュウとは二人になれない。チャンスは、そう多くない。できるだけ早く、言っておきたいことがあった。

「それで? 話って、いったい何? 僕は忙しいんだから、さっさとしてよね」

「うん、わかっているよ。……あのね、リュウ。私、やっぱりレオくんと別れる」

「……え?」

 目を丸くして言葉を失う彼を見て、何だかおかしさが込み上げた。私は、笑みさえ浮かべている。リュウは、そんな私に鋭い視線を向けてきた。

「……お前、何笑ってるの?」

「ごめん。何だか、おかしくて」

「おかしい?」

「だって、リュウは別れさせようとしていた。だから、喜ぶならまだしも、驚くなんて」

 その言葉に、更に睨みを強くするリュウ。本気で怒っていた。

「お前……自分が何言ってるか、わかってるの?」

「わかっているよ。冗談でこんなこと、口にできない」

 リュウは、しばらく私を睥睨するように見ていた。けれど、途端に盛大な溜息を吐く。がしがしと後ろ頭を掻く姿は、ともすれば彼らしくなかった。

「今の話、レオは?」

「知らない。面と向かう覚悟ができてから、言おうと思って」

「そう。で、きっかけは?」

「え?」

「きっかけは何って聞いてんの。僕が何言っても散々嫌だ嫌だって、子どもみたいに駄々こねてたくせに。突然、どういう心境の変化?」

 腰に手を当てて、少し低いところから見上げられる。まっすぐな瞳は、からかいの色など微塵も含んでいなかった。

 きっと私は、わかっていたんだ。リュウならば、そうしてくれるとわかっていたから、彼に話そうと思ったんだ。

 ズルい……彼に言えないからって、こんなこと……。

 だけど、リュウはそれを承知で受け止めてくれた。だから私は、気付かないフリで口を開く。

「出られないの。私は、ここから出ることはできないの。そのことを知ってしまった。それが、きっかけ」

「そんなこと、最初からわかってただろ」

「そうだけど、そうじゃない。……記憶が戻れば、どうしてここに囚われているのか、そのヒントが見つかると思っていた。鍵を手に入れたら、出られるかもしれないと思っていたの」

「そうじゃなかったって?」

「うん。そんなことなかった。理由はわかっても、それは鍵じゃなかった。最初からなかったの。どこにも、鍵穴のついた扉はなかった」

 見えない壁が、四方に張り巡らされている。どれもが透明で、私だけが触れられる壁。誰もが、易々と擦り抜けて行ってしまう壁――そのどこにも、扉はなかった。

 だって、壁を作ったのは私。留まることを、見守ることを願ったのは私だから。

 そこに、出入りするための扉は、必要ない。

「それで? 出られないから別れるって? ……わからないな。やっぱりそんなの、最初と何も変わってない。理由にはならない」

「そうだね。きっかけではあるけど、決定打じゃない。決意したのは、この前聞いたレオくんの話。三人が初めてこの桜の木の下に集まった、あの日のこと」

「あの日の、レオの話?」

 胡乱な瞳に見つめられる。眉間の皺に、彼が記憶を手繰っているのだと察した。

「リュウにまっすぐ、私への想いを話していた。揺るがない気持ちと言葉だったけれど、私は素直に喜べなかったの」

「嬉しくなかったっていうのか? あれだけ想われてて」

「嬉しいよ。嬉しかったけど、盲目すぎて怖くなった」

「確かに、盲目だな。レオは、お前のことしか見えてない」

「見えていないことは、怖いことだよ。出られないことがわかって、今日までにいろんなことがあって、いろいろと考えた。一途を通り越した彼の想いは、どこへ向かうのだろうって」

 空を仰ぐ。考えるまでもなく、私たちの向かう先は良くない方向だった。

 彼だけではない――それは、私も同じこと。

 このまま、あと二年も一緒に過ごす――その時に、私が何を口走っているかわかったものではない。

 自分の存在は、危うい。どんな影響を与えるか、わからない。

 出会った時と同じような気持ちで、純粋な心で、そばにいる。それはもう、できないこと。

 変わってしまった。欲してしまった。どんどんと深みにはまっていく。

 際限なく生まれる欲望に、呑まれていく。

 その時、たとえリュウが止めようとしてくれたとしても、私たちは抗うだろう。止められない想いで、手遅れの心で、彼を裏切ってしまうだろう。

 そうなる前に。今のうちに、手を引かねばならない。

 身を、引かねばならない。

 彼の未来を、思うのならば。

「お前が、いろいろ考えたのはわかった。上手くいくかは、わからないけどね」

「え?」

「これだけ、忠告しとく。レオを甘く見ない方が良いよ」

「それって、どういう……」

「さあね。言われるまでもなく、身をもって体験するんじゃない? あーあ、もう。僕ってば、好き勝手に翻弄されちゃって、カワイソー」

「リュウ?」

 あざとさを感じさせる可愛らしい声を上げながら、リュウはくるりと踵を返す。視線だけでこちらを振り返った上目遣いは、小動物を彷彿とさせた。

「自分勝手な幽霊に傷つけられたから、可哀想な僕は彼女に癒やしてもらうことにする」

「え――」

「寒い中呼び出されて、勝手に決意を語られて……本当、何? って感じなんだけど」

「え、えっと……」

「まあ、お前にしては、ちゃんと僕にも言っておこうっていう考えもあったんだろうし? それについては、仕方ないから許してあげるよ。引き続き、何かあったら報告よろしく。じゃあね」

 一通り話し終えると、リュウはこちらになど目もくれず、さっさと帰っていってしまった。

 私はただ、呆然とその背を見送ることしかできないでいた。


◆◆◆


「うー、寒い」

 ふいに聞こえてきた声に振り返ると、鼻と耳を赤くした彼がやって来たところだった。どうやら、日直仕事が終わったようだ。

 マフラーで口元を覆い、手はコートのポケットの中に突っ込んでいる。

「さくらさん、お待たせ。早く行こう」

 私が枝の上にいるために、上目遣いで懇願された。

 ああ、もう……可愛いなあ。

「さくらさんは、寒くないの?」

「そういうのは、わからないの」

「いいなあ……うー、さっむー」

 二人並んで、図書室へと歩く。教室が暖かかったのだろう。あとは、寒さが苦手なのかもしれない。時折、体を震わせては足早に、それでも私の姿を確認しながら、暖かい室内へと足を踏み入れた。

 良かった。私、ちゃんと笑えているみたい。彼と、いつも通りでいられている。

 いつ言おう……タイミングは、きちんと見計らって伝えないとだよね……。

「本当に寒い……今日、降るって言ってたっけ?」

 振られた話題にきょとんとして、目を瞬かせた。

 誰が言っていたって? それは独り言だよね? と思いながら、私が知る由もないことを口にする彼を胡乱に見た。

「さくらさんって、天気とかそういうのは毎日チェックしてそう」

 何だか笑いながら言われたけれど……うん、まあ、そうね。していましたよ。

 窓から、外の様子を見る。積もる気配もないが、止むようにも見えない。早く、暖かい家に帰った方が賢いのではないだろうか。

「風邪ひいてもあれだし、今日はもう帰ったら?」

 自転車で来ているのだ。夜にかけて、もっと寒くなるだろうに。漕いでいても、風が冷たいだろう。耳なんて冷たすぎて、寒いより痛いという感覚になる時期だ。

 だというのに、彼の表情は案の定、ムスッとしていた。

「大丈夫」

 意地を張るほど、一緒にいたいものだろうか。私は、もちろん嬉しい。けれど、そのせいで風邪をひいたりされるのは、嬉しくない。

 そうは思いつつも、本人がこう言っているので、これ以上は何も言わないのだけれど。

「宿題するの?」

「そ。今日は量が多くて」

 古典のプリントと戦い始めた彼を、隣で黙って見つめる。

 テスト勉強の時もそうだが、彼は宿題もすべて学校で取り組む。家だと漫画やらゲームやらの誘惑に負けて、集中できないからだそうだ。

「……」

 黙々とペンが進んでいく。聞こえるのは、ページを捲る紙の擦れる音と、カリカリという記入の音。そして、コチコチと時を刻む音。

「……」

 静かだと、どうも思考の波が走ってやってくる。それは気付かないうちに私を呑み込んで、渦に押し込むのだ。そうしていつの間にか、囚われている。

 内容は、専ら現状と未来のこと。

 リアルによって願望は打ち砕かれ、選択肢は二つ。

 そうあるべきと思うことと、そうしたいと思うことが相反していて、ズルズルとこうして今日まで来てしまった。

 リュウにあんなことを言っておきながら、彼を前にすると怖くなる。私は、何も言えなくなってしまっていた。

 このままがいい……いつまでもこのままでいられたら、どれだけ幸せだろうか。

 だけど、それは望んではならないこと。

 それでも、今だけはと、縋ってしまう。

 弱い私が、現状に縋りついていた。

「ねえ、バレンタインどうする?」

 突然聞こえて来たのは、今しがた図書室へ入ってきた女子たちの会話。そうか、もうすぐバレンタインか。

「私は毎年、板チョコ配ってる」

「え、何それ。面白いんだけど」

「私は、トリュフ作ろうかな」

 小声ながらも、キャッキャと楽しそうな子たち。彼女たちが手にしているのは、お菓子作りの本だった。レオくんなら、紙袋の用意が必要なのでは……。

 たくさん貰うのだろうなということは、容易に想像できた。別にそれを羨ましいとか、嫉妬とか、そういう感情はどうしてだか生まれることはなく、強がりでも何でもなく平気だった。

 ただ、何もしてあげられないことに心の中で「ごめんね」と呟いたのだった。


 そうして、数日が経ったある日のこと。私は誰に教えてもらうこともなく、今日が何の日かを察した。

 朝からそわそわしている男子たちを尻目に、友チョコを配り歩く女子たち。残念ながら、本命イベントは本当に極小らしい。それどころか、女子のお祭りと化している。私の時も、周りは友達にあげたりしていたけれど。というか、私は誰にも渡すことはなかったのだけれど。このイベントって、こんな感じだったかな……。心なしか、教師までそわそわしているってどうなの。この学校、平和だなあ。

 そんなことを思いながら、いつものように桜の枝に乗って正面を見る。いつも何故だか、気付くことも考えることもなく、この方向を向いていた。それが、一番しっくりきたからだ。

 そして、これからも見続けていくのだろう。もしくは……。

「……」

 三文字が浮かんで、瞼の裏に色濃く残る。

 どうして、リアルはこんなにも迷路なのだろうか。

 私は、シンデレラのように耐えて努力してきた人間ではないから、逃げてばかりいたから、だから私には魔女が現れないのだろうか。

 それとも、もうこれ以上の奇跡は望んではならないという、私の強欲を戒められているのだろうか。

 この現状がシアワセなのだと、そう思えたなら――

「さくらさん!」

 ガヤガヤと騒めき始めた校舎から一人出てきたのは、彼だった。カバンが重そうに見えるのは、気のせいではないだろう。

「いっぱい貰ったみたいね」

「ああ、これ? そうなんだ。にしても、本当に女子ってすごいよね。クラス全員に配ってたみたい」

 きっと、そういう口実で君に渡している子もいるんじゃないの? ――なんて過ったことは流して、私は枝から下りて彼の元へと行った。

「もしかして、断った方が良かった? 彼女がいるから、貰えないって」

「何で?」

「……嫉妬させちゃったかなーって、思って」

「いや、別に」

 あっけらかんと即答すると、彼が苦笑した。おかしなことでも言っただろうか。

「やっぱり、さくらさんだね。ドライっていうか、何ていうか……」

「嫌だった?」

「ううん。そういうところも好き。それに、嬉しい」

「嬉しい?」

「うん。俺の愛がしっかり伝わってるから、嫉妬する必要がないってことでしょ? だから、嬉しい」

「あ、そう……」

 マフラーで隠れた口元が、嬉しそうにいつもの笑みを浮かべている……そんな表情が、見えるようだった。

「今日も寒いね。図書室行く?」

「えっと、ごめん。一回、家に帰ってくるよ」

「え?」

「ここで待っててくれる?」

「あ、うん……」

 別に、帰ろうが構いやしないのだけれど、また来るとはいったい。私からは何もないので、期待されていたりすると困るのだが……。

 私は、初めてのことにただただ戸惑うことしかできないでいた。


「さくらさん」

「あ、おかえり」

 学校に戻ってきた彼は、もちろん制服姿で。手には、紙袋を持っていた。

「さくらさん、さくらさん」

 手招きされて、近くへ行く。

 彼の顔を見れば、はにかんだような照れた笑顔の中に、緊張があった。

 緊張? 何故――突然の表情に戸惑いを重ねていると、目の前に一輪のバラが差し出された。

「赤い、バラ……?」

 意外な物の登場に、ただただ驚く。まさか、こんなところで見ることに……それも、差し出されることになろうとは。

 そして、だからこその意図があるのだろう。確かバラは、色や本数で意味が変わるものだったはず。

 一輪は、そう――

「一目惚れ。貴方だけ……これ……」

「うん。これが、俺の気持ち」

「っ……」

 花言葉を口にした途端、じわり。そして急速に、言い表すことのできない想いが広がっていく。それは、どんどんと溢れて。そうして、胸が苦しくなった。

 なんて子なのだろう。いつも、私の予想の斜め上をいく。

 まさか、バレンタインに高校一年生の男の子が一輪のバラを贈るなんてこと、彼以外の誰がするというのだろうか。

 これじゃあ、まるで――

「さくらさん、受け取って。俺の気持ち」

「……」

「大好き。一生、一緒にいたい。さくらさん、俺と――」

「――だめ……」

 まるで、夢の中であるかのようなシチュエーション――しかし遮ったのは、弱々しい声だった。

「さくらさん?」

 期待に満ちた瞳が、翳る。

 ああ、私は何をしているのだろうか。本当はどうしたいかなんて、わかっていたのに。

 それでも、私が選ぶのは――

「ごめん……受け取れないよ……」

 それは、物理的な問題などではなく。私が、彼を拒否したのだ。

「どうして?」

「ごめん……」

 彼から目を逸らす。決意が鈍らないうちに、終わらせなくては。

「それじゃ、わからない。わからないよ」

「ごめん……」

「さくらさん」

 理由なんて、明快だ。私が弱いからだ。

 強くなりたいと、少しは強くなれたかと、そう思っていたのに。

「君の想いは、受け取れない。だって、私はやっぱり、ここから出られないの。どうしたって、出ることはできないの。だから、もうこれ以上は――」

 貴方を殺せない私は、泡となって消えるの。

 魔女すら現れない私は、どんな対価を捧げても足を手に入れることはできないの。

 あるべき輪から外れた異端は、大地に、海に、空に、還っていくの。

 そういうものなんだ。

 そうあるべきものなんだ。


 だから、さよならを選ぶの――


「わかった……」

 俯きながら言った彼は、そのまま校舎内へと歩いていく。

 これで良かったんだ。これ以上、彼に依存するものではない。こうするべきだったんだ、初めから。

 少しの間だけでも、一緒に過ごせたことが奇跡だったのだから。だから、今日までの想い出をしっかりと抱いていこう。そして彼の卒業までをこっそり見守って、そうして、消えるんだ。

 これで、いい。

 こうあるべきだ。

 最初に、そう決めたじゃないか。

 それなのに。

 なのに――

「どうして……」

 苦しい。これ以上ないほどに。苦しすぎて、辛くて、胸が張り裂けそうだ。目の前がぼやけて、何も見えない。

 これは、彼の想いを踏み躙って逃げた、私への罰だ。だから、本当は私が泣くべきではない。きっと、泣きたいのは彼の方だ。

 そう思うのに。

「うっ、あ……ごめん、なさい……」

 嗚咽が漏れる。溢れて零れて、涙は止まりそうにない。

 本当は、嬉しかった。

 受け取りたかった。

 まっすぐな想いを抱き締めて、同じだけ、いや、それ以上を返したかった。

「好き……私も……」

 それができたなら、どんなに――

「ねえ、どうして泣いてまで、嘘吐いたの?」

「――っ!」

 心臓が止まるかと思った。それくらいびっくりして、しばらく枯れそうになかった涙さえ止まってしまった。

 顔が、上げられない。――どうして? 私、あんなひどいことをしたのに。

 もう聞くこともないと思っていた声。

 もう向けられることもないと思っていた視線。

 もう見ることもないと思っていた表情。

 それらがまた、私の前にある――

「最初と一緒だ……幽霊だから、出られないから、ダメだなんて――そんなの、もう通じないから」

 まっすぐだ――向けられる視線も、想いも。

 いつだって、そうだった。

「難しいことは、一人で考えて決めたりしないで……さくらさんの思う幸せが、俺の幸せだと決めないで!」

「あ……」

 ――ストン、と何かが落ちる音がした。

「ねえ、どうして泣いてるの? 教えて」

「っ……私……」

「うん」

「ごめん、なさい……」

 逃げて、ごめんなさい。

 踏み躙って、ごめんなさい。

 泣いて、ごめんなさい。

 嘘を吐かせて、ごめんなさい。

「私、本当は離れたくない。本当は、嬉しかった」

「もう……本当に、不器用だなあ」

 俯く私に屈みこんで、彼は一輪のバラを差し出した。

「さくらさん、俺は貴方だけを愛しています」

 花言葉になぞらえた告白。

 やっぱり私、彼には敵わない。

「ありがとう」

 花を受け取るように、ギュッと想いを抱き締める。

 ああ、触れられたなら。そうしたら、今すぐ彼へと飛び込んでいくのに――

「いい? 俺は、さくらさんを手放す気なんてないから。覚悟しててもらわないと」

「う……」

 にっこりと微笑まれて、タジタジになる。

「じゃあ、怖がりなさくらさんがまた逃げちゃう前に、ちゃんと話し合おうか」

「……はい」

 今の私に、反論など許されてはいなかった。


◆◆◆


 これは後で聞いた話だが、バラは後日、彼が私のお墓に持って行ったそうだ。両親が見たら、驚くだろう。その光景を想像すると、苦笑いを浮かべるしかなかった。

 彼曰く、毎年送るからとのことだった。本当は百八本の花束を考えていたと言われて、顔から火が出そうになったのと同時、まだ早い! と一喝した。

 まあ、ここで「まだってことは……」と突っ込まれたことは、さておいて。

 まったくどうして、育ちはほぼほぼ日本のくせに、時々海外式なのだから質が悪い。そして、それが本当に様になっているのだから、溜息しか出ないというものだ。

 私たちは一度、心のままに話し合おうとなって、図書室ではなく屋上前の階段に腰を落ち着けた。外はまだまだ寒い上に、屋上へと続く扉は鍵がかかっている。ゆっくり話ができる場所を探した結果、ここになったのだ。

「さくらさんの言いたいことは、だいたいわかったつもりだけど」

「……はい」

「でも、とりあえず教えてもらいたいな。本音と建前」

 一見無邪気でいて、どこか逆らえない笑顔を向けられ、腹を括った。

「……ここから出られない私の未来は、このままこの学校に地縛霊として囚われ続けるか、君の卒業を機に消えるかの二択。どちらにせよ、君といられるのは約二年。だから、やっぱり互いの未来のために、今のうちに離れておこうと思った。一年でこんなだよ……三年後だなんて――」

 そんなの、もっと辛くて苦しいに決まっている。

「それが建前?」

「う……うん」

「そっか」

「そう、思うんだけど……だけど、やっぱり離れたくない。君と、レオくんともっと話したい。もっと一緒に過ごしたい。もっと、いろんなことをしていけたら――」

 ずっと、一緒にいたい……それは本当。

 だけど、でも……もっとと願ってしまうことがある。

「俺も、ずっとずっとさくらさんと一緒にいたい。出られないって聞いた時、正直ショックだった。一緒に行きたいところや、見せたいものがいっぱいあったから。……ねえ、さくらさんの考える未来がその二択なら、俺の考える未来はちょっと違うよ」

 彼は、表情を崩さず続けた。

「一つ目は前に止められたけど、さくらさんと同じ存在になって、永遠に一緒にいること。あ、待って」

 咄嗟に口を開きかけた私は彼に先手を打たれ、言葉を発することができなかった。

「ごめん。聞いて? 言いたいことは、わかってるつもりだよ」

「……うん」

「ありがとう。えっと、そう。一緒にいられるかはわからないけど、いられることを、奇跡を信じてみるのはどうかな。今度はマイナスの気持ちじゃなくて、本当にさくらさんとずっとずっと一緒にいたいから」

 狂気なまでの、私への愛――死をマイナスと捉えない彼の想いは、ここまでくるとそう表現するしかなかった。

「そして、もう一つ。それは、もう一度俺がこの学校に来ること」

「え?」

 どういう意味かわからずに首を傾げていると、彼がクスリと笑って教えてくれた。

「俺、将来は英語を活かせる仕事に就こうと思うんだ」

「え……」

 コンプレックスを、ともするとトラウマとさえ捉えていただろうことを、彼は仕事にしようと言う。そう思えるまでに、いったいどれほどの葛藤があったのだろうか。

「そう思えたのは、さくらさんのおかげだよ。俺、英語教師になる。それで、この学校に赴任できたら……そうしたら、また一緒にいられるよ」

「先生に、なって……また……」

 今のように過ごしていける未来がある。

 そんなの、想像したこともなかった。

 あんなにも現実に固執していた彼が、私よりもずっと先の未来を見ていた。

 彼の考えも聞かずに、狭い視野で物事の判断をしようとしていたなんて……私は改めて、自身のちっぽけさを感じた。

「俺はそう考えてるよ。まあ、それはいわゆる建前かな。本音はどうなっても、どんな立場でも、ずっとさくらさんと一緒にいたい! だよ。ただ、正直なことを言うなら、その……さくらさんに触りたい、かな」

「っ……」

「あ、あの……変な意味じゃなくて、いや、そうでもないかも、って、いや、違うんだ。えっと……」

 顔を赤くして口ごもる彼がおかしくて、思わず笑ってしまう。

「私も思うよ。君の手はあったかいのかな、とか。ギュッって抱き締めてもらうってどんな感じかな、とか。その、キス、とか……」

 言っていて恥ずかしくなった。顔が熱い。

「さくらさん、顔赤い」

「君だって赤いよ」

「……」

「……?」

 無言でじっと見つめられたので小首を傾げると、彼の目が細められた。

「……本当に可愛い。可愛すぎる」

「え――」

 眼前に彼の顔があった。これ以上ないほど詰め寄られて、息が止まりそうだ。

「やばい、ねえ……キスしたい」

「えっ……」

 全身が真っ赤になっている気がする。今までもするフリなんて、真似事なんて、何度もしてきたのだけれど。だけど、こうして言葉にされたことはなかった。

 それもこんな間近で、掠れたような声で、目が男の人のそれで。

 こんなの、戸惑うよ……。

「目、閉じて……」

「ん……」

 構わず近付いてくる彼に、ギュッと目を閉じる。最近はこんなにも緊張しなくなっていたのに、ガチガチに体を強張らせてしまった。

 彼が離れる気配がして目をゆっくり開けると、フッと笑うのが聞こえた。

「緊張した? ……可愛い」

 長い指が私の唇へ近付き、そっと撫でる真似をされる。

「さくらさん、柔らかそう……」

「も、もう! 何を言っているの!」

「何って、思ったこと」

 さっきまで獲物を捕らえた獣の目をしていたくせに、今はもう無邪気に笑ってみせている。

 あの顔を、目を思い出すだけで、ドキドキして体が壊れてしまいそうだ。

「やっぱり手を繋いでみたいって思うし、さくらさん泣き虫だから、その涙を拭いたいってずっと思ってた」

「私も……雨の日には傘を差したり、怪我をしたら包んであげたい。抱き締めてあげたい。……抱き締めて、ほしい」

 けれどそれは、どんな未来を選んでも叶わない。

「一番の願いだけが、どうしても叶えられないね」

「うん……」

 すべてを選び取るなんて、そんなのはいつまでも終えられないゲームのよう。こんなちっぽけな私たちの手からは、零れ落ちてしまう。

 だから、身に余らないささやかな幸せだけを選んで、握り締めていくんだ。

 すべてを失わないように。

「ねえ、先生になるってすごくいいと思う。私、君の教師姿を見てみたい」

「うん。俺、頑張るよ。だから、卒業する時に消えるなんて、言わないで」

「うん……」

 だから、何もかもを失う前に。

 私は、嘘を吐いた。

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