第10話 悪戯の1月

 師走って、こんなにあっという間だったかと思うほど、テストもクリスマスも大晦日も過ぎ去って。私たちは無事、新たな年を迎えた。

 元旦には、自転車を走らせてやってきた彼と正門越しに挨拶を交わし、早速行ってきた初詣のおみくじが大吉だったなどと、少し話をした。

 鼻を赤くして、笑うたびに漏れる息が白くて。雪のちらつく中、見つめ合って。そうして、またねと手を振った。

 事故のことを思い出しても、彼が怖がるようなことは何もなかった。変わらなかった。

 彼の一時の迷いが、決断が、私という人間を終わらせたとしても。それでも、事実が発覚したことで私が彼から離れるなんてことは、ありえない。

 今更ながら、よく自分はあの事故の時に動けたなと、驚いた時は声も出せずに固まってしまうタイプだったことを思い出し、淡い苦笑が漏れた。本当に今でも、咄嗟に突き飛ばすことができたその行動が、信じられない。

「もう少し、自惚れてもいいってことを自覚してもらいたいものだ」

 なんて呟いて、私は着物で着飾った女の子たちを見つめるのだった。

「雪……」

 今年は、また一段と寒そうだ。

 初詣に行くのだろう家族連れや、着物姿の人々をずっと横目に見ながら思う。

 ――私は、まだ大事なことを忘れたままだ。

 彼との出会い。抱えているものの片鱗。最後の瞬間。それらは思い出した。そして、私がここにいる理由も。しかし、まだ何かがあるような気がしてならない。

 それは、あの毒林檎のように、かじるしかなかった私の震える想い。

 それは、開いた手のひらに見えた、戦慄の鮮やかな赤色。

 それは、皮膚の薄い左手首に消えた、紛れもない事実。

「きっと、また思い出す日が来る」

 事故の記憶がそうであったように、ふいにそれはやってくるのだろう。

 そうしてそれは、存外すぐに訪れるのだった。


◆◆◆


「君は、どうして今ここにいるのかな?」

「え? そんなこと聞くの? さくらさん、俺に言わせたいの? 欲しがるなあ」

「はいはい」

 祝日の月曜日。予定もなく暇だという彼は、正門が施錠されていることに、つい先程舌打ちをしていた。

 まあ、随分といろんな顔を見せてくれるようになったものだ。今もそこで、平然と欠伸をしている。

「寝不足?」

 また、遅くまでゲームでもしていたのだろうか。まあ連休なのだ。大概が遅寝遅起きだろう。

「んー、今日は朝早くから家族がバタバタしてて、起こされたんだ」

「へえ? 何かあるの?」

「我が家のお姉様が、今日成人式で。着付けとかセットとか写真とか。もう母さんと二人して、バッタバタ」

「へえ、そうなんだ……おめでとう」

「ありがとう、さくらさん」

 今日は、成人の日なのか……私は迎えることのできなかった――

「さくらさん?」

 いかんいかん。すぐにマイナス思考がひょっこり顔を出す。そのぴょこっと現れたものを霧散させるように、私はぶんぶんと頭を振った。考えたって仕方のないことを思うのは、やめよう。と、そこに四、五十代くらいの花束を持った女性が現れた。

「あら……」

「あ……」

 彼は、どうやら彼女を知っているようだった。互いに会釈をしている。

 女性は、持っていた花束を門のそばへ置いた。そして、静かに手を合わせている。その瞬間、頭痛が走った。

「そういえば、ここへ進学したのだったわね」

「はい……」

「そんな顔をしないで。あの子が悲しむわ」

「……はい。あの、今日はどうして……」

「この近くで、用事があったの。寄れる時は寄ることにしているのよ……数年は、ここへ来られなかったから。だから、少しでもね」

 女性の眼差しは、とても穏やかだった。

 ああ……私は、この瞳を知っている――良かった。随分と、優しい顔をしている。

「どうしてだか、あの子はお墓や家よりも、他のどこよりも、ここにいる気がしてならないの。おかしいわよね」

 フフッと笑ってみせて、彼女は近くに停まっていた車へ踵を返す。その手には、先程の花束があった。

「今から、お墓へ?」

「ええ。そうだ。この前のお花、貴方でしょう? 綺麗なお花を、どうもありがとう」

「いえ……」

「今日も寒いわ。風邪をひかないようにね」

「はい。ありがとうございます」

 運転席には、同じく穏やかな顔をした男性が座っていた。女性が助手席に乗ると、間もなく車は走り去っていく。彼はその姿が見えなくなるまで、頭を下げていた。

「数年前から来ていた、花束の人……私宛てだったんだ」

 事故死だとは露ほども思っていなかったために、わからなかった。

 私は家族の顔さえ、覚えてはいなかったのだ。

「とても優しい、素敵なご両親だね。泣き続ける俺を責めるでもなく、ただただ一緒に泣いてくれたんだ。優しく、してくれたんだよ」

「そう……」

 私は、ただただ彼らの去っていった方角をじっと見つめていた。そんな私の隣で、彼は黙ってそばにいてくれていた。

「私のお墓にも行ってくれていたの?」

「ああ、うん……ここにいるのは知ってるんだけど。それでも、花屋の前を通るとさ、いつもさくらさんの顔が浮かぶんだ。この色の花、好きそうだなーとか。毎月、月命日には行かせてもらってる」

「そんなにも? ……ありがとう」

「俺がしたいことをしてるだけだよ」

「それでもだよ。ありがとう」

 目を閉じれば、先程の綺麗な花が瞼の裏で鮮やかに咲いていた。

「私ね、病気が悪化したの」

 ふいに口をついて出たのは、花が繋いだ記憶だった。

「思い、出したの?」

「うん……」

 それは、事故の日の少し前のこと。夏の終わりの、まだ暑い、蝉の鳴き声が響き渡る日。

 私は突如倒れて、病院へと運ばれた。

 それまで定期検査も問題なく受けて、毎日処方された薬を飲んでいた。

 検査は、痛くて辛いものもあった。それでもその瞬間だけはと、良くなるからという言葉を信じ、耐えて過ごしていた。

 そんな中の、突然の出来事。

 担当の医師から告げられたのは、私にとって酷なことだった。

「病状の進行が早いです。治療を変えていこうと思います」

 ずっと続けていた、あの痛くて耐えていたことは何だったの?

 それは全部、意味がなかったというのだろうか。無意味だったと、そういうのだろうか。

 良くなるからという言葉をただただ信じて、頑張ってきたというのに。それなのに……。

 もう私の耳には、その後の親と医者の会話は、一切入ってくることはなかった。

「それで、治療を続けたの?」

「うん……もっと、苦しくなった。薬も副作用のあるものになって――その薬の袋を渡してくるお母さんを、恨んでしまうくらいに」

 こんな思いをしているのを知っていて。こんな姿を見ていて。

 それなのに、やめていいとは言ってくれない。

 それどころか、続けろと、頑張れと、そう言ってくる――本当に訪れるかわからない、いつかのために。

 いつか? いつかっていつ?

 頑張れ? もうこんなにも頑張っているのに?

 これ以上、終わりも先も見えない真っ暗闇で、何をどう頑張れというのだろうか。

「その頃だったと思う。私が私を、無意識に傷付け始めたのは」

 心はもう終えたいと願っているのに――しかし体は、本能的に生きようとしていた。

 心と体は一体というならば。それならば、私はそれでも本当は生きたかったと思っていたということなのだろうか――

「自分で自分がわからなくなったの……自分のことなのに」

「あるよね……そういう時」

「……どうも、私たちは似ている。似てしまっているね」

 それ故に。

「慰め合えるし、共感できるし、傷を舐め合える」

 それでも。

「そんなぬるま湯に浸かっていたくも、ないんだよね……」

「さくらさんは、強いから」

「弱いよ。弱いから、逃げたんだ」

「え――?」

「私、治療から逃げたの」

 あの事故の日。本当は早く帰って、病院に行く日だった。だけど行くのが嫌で、適当に用事を作って学校に残っていた。

 それでも、いつまでもはいられなくて、公園にでも行こうかと正門を通った時だった。

「君が、トラックに向かって行くのを見たの」

 カバンも何もかもを放り投げて。ただただ、体が動いていた。

「頭にあったのは、何よりも君だった」

 走ってはいけない体のこととか、これで終われるとか、解放されるとか、毒林檎のような薬のこととか――そんなことは、一切吹き飛んでいた。

 ただただ目の前の、小さな体――その背中に貼られた、大きく理不尽なレッテルごとを突き飛ばすように、この手を伸ばしていた。

「その頃から、そうだったんだね……私たち、変わらない――言葉が、足りない」

 もっと甘えていれば。

 もっとワガママだったなら。

 もっと鈍感だったなら。

 もっと勇気があれば。

 もっと、もっと――

「ねえ、私たち……自己中の悪い子だね」

「本当に」

 自分のことばかり考えていたことにすら気付かずに。閉じこもって、嘆いて傷付けて。

 それをただ見守るしかできないことが、どれだけ辛かったか。

 今更気付いたところで、もう取り戻せやしないのに。

「ごめんなさい……」

 もう、届きはしないのに。後悔は、いつだって私をこうして責めに来るのだ。

「きっと、さくらさんの想いは、ご両親に伝わっているよ。俺、聞いたことがあるんだ」

「え?」

「夢に出てきたって言ってたよ」

「夢?」

 いつの話なのだろうか。

 そして私は、夢へと潜り込んだ覚えはない。だって今の今まで、家族の記憶などなかったのだから。

 私は、ここから出られないのだから。

「さくらさんが息を引き取った、その晩だって言ってた」

「ふうん……でも私は――ん?」

 願望でも見ていたのだろうと思っていた。だが、そうでもないかもしれない。

 最期はもう目も見えなかったから……だから――

「出たかも」

「え?」

「ただ、もう一度――」

 そうだ。最期に、見ておきたくて。

「声が出なかったから、ただただ笑ったの……」

 ごめんなさいと、ありがとうを込めて。

「うん……泣きそうな顔で笑ってたって、そう言ってたよ」

「そっか……」

 だからといって、取り戻せはしないのだけれど。

 それでも、幾ばくかは違うような、そんな気がした。


◆◆◆


 しんと静まり返った、月が照らす校舎を眺めて、一人、音もなく地に降り立つ。きっちりと施錠された正門を正面に見据えながら、昼間のことを思い出していた。

 欲しかった記憶は、ほとんど思い出したのだと思う。それでも、私はここから出られそうもなかった。

 どうして学校なのか――それは、彼を見守るため。

 好きでもないこの場所だったのは、彼との接点が学校前の歩道と、あの公園しかなかったから。

 そして、私が彼と最期に会った場所だったから。

 無意識に願ったのは、何よりも切ない彼のことだった。

 こんな場所に自身を囚われてでも尚、私は何よりも彼を選んだ。

 それは居場所もなくて、生きる気力もなかった――そう思っていた私が重ねて縋った、小さな背中。

 守りたいと口にしながら、逃げていた。あの公園が、あの子との時間が、私の逃げ場所だった。

 あんな子どもに縋って、今度は大きくなった彼に? 私が彼に抱いているのは、本当に「愛しい」という想いなのだろうか。それとも、依存を恋愛感情だと錯覚しているのではないだろうか。

 それでも――と、私は見えない壁に手を添える。この先は、学校の敷地外。

 ここから出られないことに、変わりはない。どうやったって、私は出られない。存外、この存在は不便なのだと知った。

 私は、ここに残り続けるか、消えるかの二択しかないのだと、わかってしまった。

「あーあ……」

 不思議と涙は出なかった。

「これって、良かったのかな……」

 知らなければ、夢を見ていられたのに。

「まあ、仕方ない、よね……」

 知ったのは、どうにもならない現実。

「……」

 どうしてか、わかってしまったのだ。ここから出ることはできないと。

 諦めたとか、そういうことじゃない。説明を求められてしまうと困るのだが、おそらく私は相当な執念でここにいる。あの灯が消える瞬間に浮かんだ彼への気持ちが、私をここに留めているのだ。

 だから状況が変わったところで、私が何を望んだところで、ここから出ることは叶わない。

「これを知ったら、どうするのかな」

 本当は、手放してあげるべきだとわかっているのに。私たちは、どうしようもなく互いを必要としてしまった。もう解けないほどに絡みついて、何度も出会ってしまう。

 運命だなんて生易しいくらいに。むしろ、呪いのように。

 誰かに操られてでもいるかのように、踊らされる。

「そうだった方が、よっぽど良かったよ」

 マリオネットだったなら、こんなに思い悩むこともなかったのに。

 ドールのように、ただただそこにいるだけの存在であったなら、何も考えず微笑んでいられたのに。

「……いや、やめよう」

 もしそうだったなら、楽しかったことも嬉しかったことも感じられなかった。

 いつか、彼が言っていた。そんな想いを、なかったことにはしたくないと。

 そうだと思った。

 だから、困った。

「離すなんて、放すなんて……できそうにないよ……」

 呟いた言葉は、ただただ冷たい風に攫われていった。


◆◆◆


「え、リュウ?」

「あ」

「レオ……」

 とある日の放課後。ついに、その瞬間はやってきた。リュウとレオくんが、私の前で鉢合わせしたのだ。

「なんで、リュウがここに……今、さくらさんと会話してなかった?」

「――誤魔化しても無駄か……」

 ぼそりとそう呟いたかと思えば、リュウは肩を軽く落として、レオくんへ向き直った。顔は見えないが、声が真剣なそれだ。

「レオ、今まで黙っててごめん。僕、レオと同じで見えるんだ。少し前から、この人と会ってた」

「どうして……今まで黙って……」

 突然のことに、戸惑いを隠せないレオくん。様々な事実が、頭の中で飛び交っているようだ。

 しかし、それも仕方がないだろう。リュウが私のような存在を認知できることだけでなく、私とリュウが知らない間に、知り合いになっていた。こそこそと会っていたようなものだ。

 どうして知らされなかったのか。どうして隠されていたのか。いろいろな思いが一気に押し寄せて、軽く混乱しているかもしれない。

「黙っていたことは謝る。本当にごめん。だけど、レオのことを蔑ろにしたとか、騙していたとか、そんなつもりはなかったんだ。それだけは、信じてほしい」

 リュウのこれほどまでに必死な声を聞くのは、初めてだった。それだけ、彼に対して誤解してほしくない思いが強いのだろう。緊張感すら伝わってきた。

「あ、いや……驚いたというか、思ってもみなかったことが起きているから、正直、理解が追いつかなくて……。ちょっと待って。落ち着くから」

 レオくんは、らしくもなく慌てていた。

 私はというと、見目の良い二人が珍しくわたわたしているのを、冷静な頭で眺めていた。

 どこか、蚊帳の外にいるような気もしないではないが、特に寂しいとは思わなかった。むしろ、このまま風景と化して、しばらくこうしていたいとすら思っている。

 だが、そうは都合よくいかなかった。矛先が、私へ向いたのだ。

「さくらさん、リュウと知り合ってたんだ……」

「あ、うん……少し前に……」

「そうだったんだ……」

「知り合いだけど、仲がいいとか、そういうわけじゃないよ。リュウくんっていう名前ぐらいしか、知らないし……」

 これは、ちょっと嘘。生徒会の書記をやっているとか、演劇部に所属しているとか、レオくんの幼なじみとか、同じ一年生だとか、もうちょっと知っていることがある。だけど、あまりそういうことを言うのは得策ではないだろうと、方便を使った。

 彼は、「ふうん……」と若干疑いの眼差しを向けてきたが、それ以上追及されることはなかった。

「じゃあ、紹介するよ。俺の小学校の頃からの幼なじみ、龍之介だ。同い年だよ」

 龍之介……似合うような、似合わないような……。

「何。言いたいことがあるなら、言えば?」

 私の視線に、じろり。リュウは、睨み上げるように私を見た。

「随分と、仲が良いんだね」

 言ったのは、レオくん。今の会話と態度に、仲が良い要素はあっただろうか。

「レオ、何言ってんだよ。悪いけど僕、この女のこと嫌いだからね」

「どうして……」

「どうして? レオがご執心だからだけど? この女は、レオを惑わす悪霊じゃないか。僕、レオのことが心配なんだよ」

「いくらリュウでも、さくらさんのことを悪く言うのは、許さないよ。俺がずっと彼女のことを想っていたこと、リュウなら知ってるはずだよね」

 少し雰囲気が険悪になってきた。だが、下手に口を挟めば、火に油を注ぎかねない。私がハラハラしながら見守っていると、リュウが折れた。これ見よがしに、大きな溜息を吐いている。

「わかった。わかったから、悪口を言ったことは謝るよ。だから、睨むのはやめてくれ。レオが真剣なのはわかってるつもりだよ。この人に会うためだけに、どれだけ努力してきたか……ずっとそばにいたんだ。それはわかってるんだよ。だけど、あまりにも盲目すぎて、時々不安になる。何もかも、命さえ投げ出すんじゃないかって、怖いんだよ」

「リュウ……俺の方こそ、ごめん。リュウは、いつだって俺のことを考えてくれてたのに」

 どうやら、二人とも冷静になったようだ。親友というのは、本当らしい。

「……レオ、僕がこの女に近付いて、嫉妬したんだろ」

「するよ。リュウは綺麗な顔をしているし、頭がいいし、優しくて女子にモテるから。さくらさんの心がなびくのも、無理ない」

 誰が優しいって?

「それに、さくらさんは美人で優しくて、思いやりがあって、おまけにすごく可愛いから、男なら誰だって好きになっちゃうよ」

 レオくん、褒めすぎ……真剣なところ悪いけれど、聞いているこちらが恥ずかしい。

 同じく聞かされていたリュウが、ややうんざりしたような声を出した。

「あのな……僕に彼女がいることは、知ってるだろ? 何の心配してるんだよ」

「それは、そうだけど……」

「自分の彼女だろ。だったら、もっと信用してやれ」

 私は、リュウのことを見直した。今のは、格好いい。

「そう、だよね……ごめん……さくらさんも、ごめん」

「ううん。不安にさせるようなことをしちゃって、私の方こそごめんね」

 良かった。レオくん、いつもの笑顔を浮かべている。私は、ほっと胸を撫で下ろした。

「いいか? 僕は、彼女一筋だ。彼女の方が美人だし、スタイルもいいし、清楚で凛としていて、優しくて頭が良くて、笑顔が世界一可愛いからな」

 腰に手を当てて、まるで威張るように言い放つ美少年。言葉を受けた彼は、聞き捨てならないとばかりに、応戦した。

「彼女って、中学一緒だったあの子だろ? さくらさんの方が美人だ。さくらさんは、宇宙一可愛い」

「いやいや、何言ってるんだ? レオ、僕の彼女の顔を忘れたんだろ。適当なこと言うなよ。彼女の方が可愛い」

「リュウ、さくらさんのこと、ちゃんと見えてるの? あの女神のような神々しさが、わからないかな?」

 もうダメだ。正直、どっちでもいい。当事者だけど、どうでもいい。嬉し恥ずかしを通り越して、誰か止めてくれないかとすら思っている。

 しかし、私の存在そっちのけで、二人は延々とこのやりとりを続けた。体感で、およそ一時間といったところだろうか。二人に疲れの色が見えてきた頃、すっかり半眼が板についた私は、ジト目で彼らに声を掛けた。

「随分と仲のよろしいことで。まだ続くなら、私のいないところでやってもらっていいでしょうか?」

 私の言葉を受けて、互いに顔を見合わせる二人。罰が悪そうに、視線を逸らしていた。

「つい、熱くなったな……」

「ごめん、さくらさん……」

 まったく……褒め言葉を争いに使うなんて……。

 そういうのは、是非二人の時に直接面と向かって……って、何を考えているのだか。

「結局、何の話だったっけ?」

「さあ……?」

 蒸し返すのもややこしいので、私はかねて疑問に思っていたことを口にした。

「リュウは、生まれつき私のような存在が見えるの?」

 見えることを、幼なじみであるレオくんにすら隠していた。理由も気になるが、教えてもらえるだろうか。

「俺も知りたい。俺が見えるって知ってたのに、何で隠してたの?」

 見えることを言えば、大抵はからかわれるか、信じてもらえないかだろう。だけど、レオくんは違う。きっと、自身と同じであることを喜ぶはずだ。それが、幼なじみで親友のリュウならば、尚更に。

「隠してたわけじゃない……タイミングを逃したんだ。見えるようになったのは、つい最近だから」

「最近?」

 レオくんが、促すように問い掛ける。リュウは、「ほら……」と言葉を継いだ。

「中学の卒業前に、手術してるだろ? あれ以降なんだよ。見えるようになったのは」

 詳細を教えてもらうことは叶わなかったが、リュウはその手術の際に、一度生死を彷徨っているらしい。それが原因ではないかと思われた。

「最初は、ぼんやりと何か見えるなってくらいだったんだけどさ。だんだんとそれが、そういう存在だってことがわかってきて。はっきりと確信を持ったのが、つい最近だったってわけ。勘違いかもしれないし、術後の幻覚とかだったら嫌だし、ちゃんとわかるまで、言うのを控えてたんだよ」

「そっか……そうだったんだ」

「今は、レオにだけ見えていたものを共有できるんだって、嬉しい。だから、複雑そうな顔するなよ」

 リュウの偽りない言葉を受けて、レオくんは安心したように頷く。その様子に、リュウはレオくんへ改めて向き直った。

「この際だから、ついでに確認しておくけど。レオ、本当にこの女のことが好きなのか? 命の恩人とか、小さい時に助けてもらったとか、心の支えだったとか……そういう依存じゃなくて、最後には報われないとわかっていて、それでも本当にこの高校生活の間だけでも、一緒にいたいと思うのか? 後で、後悔しないのか? ……僕は、レオが不幸になるんじゃないかって、それが心配なんだ。やっぱり、いつまでも一緒にいたいとか、のめり込みすぎて、いつか何かをやらかすんじゃないかって不安なんだ。だから、確認させてほしい。本当に、このまま期限付きの恋愛をしていて、いいのか? 卒業と同時に、ちゃんと現実と向き合うことができるのか? 潔く、清々しく、お前たちは別れることができるのか?」

 リュウは、私と初めて出会った時と同じく、真剣な顔つきでそう言った。念を押すように、最後の確認とでもいうかのように、彼はレオくんへ問いかけた。

 対するレオくんは、開きかけた口を閉じる。

 それは、惑いか。はたまた、真剣な相手に対して適当な答えを言うべきではないと考えているのか。

 それはわからない……だけど、レオくんにはどちらも当てはまるのではないかと思った。

「リュウ……ごめん……」

「レオ?」

「いや、その……いろいろ言葉が浮かぶんだけど、どれも違うなって思ったら言えなくて……たぶん何を言っても、言い訳とか理想にしか聞こえないと思うから。だから、答えはわからない、かな……。実際にその時が来たらどうなるか、自分でもわからないんだ。頭では、そういう時が来たらちゃんと向き合おうって思ってる。決めたことだからとか、約束したからとか、そんな思いを自分に言い聞かせて、寂しくてもきちんと別れようって思ってる。この気持ちは、嘘じゃない。だけど、建前なのも事実でさ、本音は抗おうとしてる。だから、ごめん。ちゃんと答えなくて、ごめん。だけど、真剣に向き合ってくれてるリュウに、適当なことは言いたくないから」

 眉尻を下げるレオくんは、さながら困り顔の大型犬。対するリュウは、その純粋な瞳にぐっと押し黙って、目を逸らしていた。

「良いよ……突然いろいろ聞いた僕も、悪いし……レオが真剣なのは、わかってるつもりだから」

「ありがとう、リュウ。だけど、これだけは答えておきたい。俺は、さくらさんのことが好きだ。そこに依存が含まれていたとしても、これだけは言える。さくらさんのことは、本気で好き。嘘偽りない、本心だよ」

 そう、リュウに向かって言って、その視線がこちらへ滑る。まっすぐに射抜かれて、心臓が音を立てた。

「好きだよ、さくらさん。大好き。これだけは、胸を張って言える」

 にこりと微笑まれて、顔が熱くなる。リュウがいることも忘れて、私たちは見つめ合っていた。

「ちょっと、僕のこと置いていかないでくれる?」

 斜に構える、やや不機嫌になった美少年。レオくんが、わかっているのかいないのか、「置いていってないよ」と言っていた。

「とにかく、僕はレオのことが心配なの。ちょっとでもおかしいと思ったら、口出すからね。わかった?」

「相変わらずだね、リュウは」

「そうやって、笑って誤魔化してもダメ。わかったの? 返事は?」

「わかった。わかったよ、リュウ」

 半ば強引だったが、頷くレオくん。こうしてみると、確かに彼は保護者なのだと思った。随分と過保護だけど……。

「よし。それじゃあ、僕はそろそろ行くけど、レオも長居しないようにね。今日は、特に寒いから」

「わかった。あ、リュウ」

 踵を返そうとしていた彼を、レオくんが呼び止める。リュウは、きょとんとした顔で振り返った。

「何?」

「ありがとう。いつも、俺のこと考えてくれて。心配かけて、ごめん。リュウが友達で、俺は幸せ者だよ」

「なっ……」

 みるみるうちに顔を真っ赤にさせて、口をぱくぱくさせるリュウ。困ったような怒ったような……そんな複雑な顔をして、視線だけを逸らした。

「この、天然……」

「え?」

「何でもない。じゃあね」

 言うなり駆けていくリュウを、私たちは顔を見合わせて見送った。

「……リュウって、いい子だね」

「うん……俺には、もったいないくらい」

「レオくんがいい子だから、友達もいい子なんだよ。類は友を呼ぶ、だからね」

「ありがとう。さくらさんもいい人だから、皆一緒だね」

「……そうだね」

 いい人……私も、彼の目にそう映っているのか。

 それをどこかで喜べないでいるのは、私がひねくれているからだろうか。

 だけど、確かに浮かべた笑顔の裏で、頭の隅の私が冷ややかな目をしているのだった。

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