第9話 儚さの12月

 すっかり寒くなり、行き交う人々はコートだけでなく、手袋やマフラーを身に付けている姿が多く見られるようになった。吐く息は白くて、普段認識できないものが視覚化される。それが、より寒さを助長するのだった。

 きっと、これからもっと冷えていく――確か、二月頃が一番寒かったのではないだろうか。そう思うと、少し憂鬱になるというものだ。

 そんなある日の、昼休み。

「何があったわけ? 全部、白状してもらうから」

 憂鬱の一端でもある美少年、リュウが、今日も今日とて目の前で仁王立ちしていた。

 最近、出没頻度が増えている気がする。ここで暇なの? って聞いたら、怒るだろうな。

「ちょっと、聞いてる? 無視するなんて、いい度胸だね」

 この子は、いつも怒っていたか。これがデフォルトらしい。

「いやいや、まさか。リュウを無視するなんて、そんなことするわけないじゃない」

「どうだか。それで? とりあえずは、仲直りしたんだ? しなくて良かったのにね」

「おかげさまで。わざわざ、それを確認しにきたの? 本人に聞けばいいじゃない」

「何言ってんだ。聞けるか。お前、やっぱり馬鹿だな」

 ああ、そうか。理由はわからないけれど、やっぱり彼はレオくんに内緒で、私に会いに来ているのか。

「で? お前、いったいレオに何を言ったんだよ。何があって、レオは百面相してるんだ?」

 百面相はわからないが、私はレオくんとの間にあった出来事を、かいつまんでリュウに話した。

「はあ? 自殺未遂? お前、なんてことしてくれてんだよ! レオに何かあったら、絶対許さないからな。やっぱり、お前と付き合うのは間違いだったんだ」

 過保護な親友兼保護者は、百パーセント私の敵だった。ほらみろと言わんばかりの態度に、こっそり溜息が零れる。

「こうなったら、僕が説得するしかないな……。このまま放っておくなんて、絶対に良くない。いいか? レオは、まだ何か思い悩んでる。これ以上、刺激するようなことを言ったら、許さないからな!」

「悩んでるって、何に?」

「聞くな。僕が知りたい」

「そう……」

 あの時の彼は、歯切れが悪かった。まだ何かあるんじゃないかという私の推測は、どうやら間違いではなかったらしい。彼は、いったい何に悩んでいるのだろう……。

「しまった。職員室に行かないと」

「呼び出し?」

 何かしたのかな? でも、生徒指導室じゃなくて、職員室?

「あのな……僕をその辺のやつらと一緒にするな。生徒会の仕事だ」

「生徒会って……」

「僕は書記だ。れっきとした生徒会役員。何だ、その疑いの目は」

「いやあ……へえ……」

「僕は、生徒会書記に演劇部、クラス委員長と、忙しい身だ。こうして時間を割いてもらえていることを、光栄に思うんだな」

 そういえば、以前自分のことを優等生だと言っていた。レオくんと違って、忙しいご身分ですこと。

 だったら、わざわざ来なくていいのに……。

「それじゃあ、僕は多忙だから。またね」

 どうやら、また来るらしい。私は、聞きたいことがあったことを思い出し、「あ」と声を漏らした。

「……リュウは、何をどこまで知っているのだろう?」

 そうして、どうして私のことが見えるのだろうか。いつも彼のペースに巻き込まれて、出会ってからしばらく経つと言うのに、未だ聞けずにいた。

「また来るって言っていたし、その時に聞こう」

 そういえば、レオくんが来ていない。今日は、来ないのかな。ふうと溜息を吐いて、とぼとぼと足を進める。

 私は死因を知ったあの日から、一人の時は桜の木ではなく、正門の近くを陣取っていた。彼にはまだ言っていないが、実は朧げに当時を思い出しつつある。

 まだ本当に少しということと、彼が望んでいないという事実が私の胸に引っかかっていたため、口にするのは憚られた。

 もしかしたら、このまま過去を知らない方が幸せなのかもしれない。そう迷いながらも、それでも私は知りたいと願う。今は、自分の気持ちに正直になることにしたのだ。

「十年前ということは、彼は小学一年生?」

 確か子どもの頃、海外にいた時期があったのではなかったか。それは、事故の前だったのだろうか。それとも後なのだろうか。

「あれ?」

 今、脳裏に何かが引っかかった。

 ちょうど、ランドセルを背負った小学生の男の子が一人、目の前を歩いて行ったのを見たからだろうか。

 学校で、嫌なことでもあったのか……その子は俯きながら、悲しい顔で歩いて行った。

 私は、そんな顔を知っている――そう思った。

「痛……」

 ズキリと頭に痛みが走る。この感覚は、とても久々だ。しかしそれも一瞬で、もう治まっていた。

「何だろう……もしかして、すごく大事なことを忘れている?」

 何故だか、そんなことを思った。

 焦燥感? 不安感? すごく落ち着かない。そして私は、この感情がものすごく嫌いだ。

 そう――いつも私は、不安を拭うために行動をしてきた。この感情があるから努力ができるのだと、そう自分に言い聞かせてきた。逃げられるものならば、背を向けてきた。避けて、除けて、外して――そうしてできうる限り、この感情を味わわずに済むようにと過ごしてきた。これは私にとって、大変に苦痛な感情だ。

「そんなことを思い出す必要なんて、ないのに……」

 もっと別の、それこそ核心に触れるような記憶を呼び覚ましたいのに。手繰り寄せられるのは、どれも寄り道ばかり。

 それでも一つ一つ、新しい記憶に触れることができているのは確かだ。

 そうして私はこの感情から、楽しくない過去を連想していくことになる。

「……授業で思うことは、あまりなかった。それより――」

 人との関係性――そこに良い思い出は、ほとんどない。二、三人の、割と仲の良いメンバーがいたけれど、三年になってクラスが変わってしまった。そのために、その子たちとは休み時間になったら会えるが、行事やクラスで何かをするという時は、一人ぽつんと孤独感があった。

 新たに仲の良い子ができたら良かったのだろうけれど、クラスメイトはなかなかタイプの違う子ばかりで。挨拶はする子もいたけれど、放課後や休みの日に遊ぶような子はいなかった。なので、ついつい休み時間には他のクラスを覗きに行って、友達がいれば入り浸るということを繰り返していた。

 部活には入っていたけれど、ひっそりとした文化部は入学した時から廃部寸前の人数で。結局私が三年に上がっても、部員は私と友達の二人だけ。加えて顧問の先生ももう定年という、私たちが卒業すれば廃部確定の部だった。活動も週一、二回程度。目指すものもなく、ただただ過ごしていただけの日々。

 そのため、私の学校生活は絵に描いたような、楽しめたものでは正直なかった。

「病気だったしな……」

 入院するほどではなかったが、定期的に通院をしていた。体育は、見学しかしたことがない。病名などはまだ思い出せないけれど、走り回ったことがないという記憶は、思い出した。

 別に走ることができなくて嫌だったり、周りを羨ましいと思うこともなかった。幼い頃は、他の子と同じように走り回ることができていたからだろう。

 ある日突然、病院に運ばれて。もう運動をしてはいけないと言われた。

 別段、運動は好きでもなかったし、何か打ち込んでいたものもない。だからだろう。気を付けていれば、日常生活に支障もなく。私は、定期的な検査が面倒だったくらいで、それほどこの体を疎ましいと思ったことはなかった。

 時折同情されることの方が、よっぽど鬱陶しかったくらいに。

「さくらさん、何見てるの?」

 ひょっこり顔を出した彼に、私の目は細められた。

「さっき、にゃんこがいたの」

「え、どこ?」

「もう行っちゃった」

 なんて、適当なことを言ってみる。

 にゃんこなんていない。ここにいるのは、しょんぼりした大きなわんこだ。

「こんな時期にうろついて……家、あるのかな」

「そうだね……きっとあるよ」

 その子には、きっとそこが家だよ。どんなところであったとしても。私に、この桜の木があるように。

 ほら、またそんな顔をして――

「今日は遅かったね。来ないのかと思った」

「待っててくれたの? ごめん。先生に用事を押し付けられちゃってさ、遅くなっちゃった」

「そうだったんだ。お疲れ様。お昼ご飯、食べるんでしょ? もう寒いから、ここじゃ無理だね」

「コート着てきたから、大丈夫。それに今日は、日差しも暖かいから」

「それなら良いんだけど、無理したらダメだからね。私には、わからないんだから」

「わかってる。ありがとう、さくらさん」

 いつものように笑って、コンビニの袋からパンを取り出してかじる彼。その姿を横目に見て、口を閉じた。

 何見てるの? か。そうだなあ――


 君が教えてくれないこと、だよ。


◆◆◆


 目の覚めるような夜空が広がっていた。こんな日は空気がほどよく冷たくて、吸い込むと肺をいっぱいに支配するのがわかる。そして、すーっとする心地よさに目が細められるのだ。

 ……すべて、記憶の中のことだけれど。

 生きていた頃の体感が蘇る――私の好きな感覚だ。

「案外、いろいろ覚えていたんだ……」

 何もかも忘れていたと思っていた。名前と、病気と、学生だったこと。それ以外は空っぽだと、そう思っていた。

 何もかも、気付かなかっただけ。

 知りたいことが知れなかっただけ。

 わかりたかったことが、わからなかっただけ。

 理解しようとして、できなかっただけ。

 閉じこもっただけ。

 それでも――

「私はたった一つ。何かを――」

 そう。何かをしたくて。

「そのために、ここにいる」

 ここにいることを選んだのは、私だ。

 その理由をただ思い出せなくて。

 もう少しで掴めそうで。

 でも、そうしたら変わってしまうのだろうか。

 ここから出たがった私が、ここにいることを決めた私を思い出したら。

 そうしたら、どうなってしまうのだろうか。

 それでも、私は――

「知りたい……」

 それが、とても大事な想いだったのだと、そう思うから。胸を締め付けてくるこの気持ちが、私にとって大切なものなのだと教えてくれている。

 だってこれは不思議なほどに、不快なものではないから。

「いつになれば届くのかな……」

 伸ばした手は簡単に届きそうなのに、一向に触れない。

 遥か彼方で一番光る星を掴んでみる。握って、そうして開いてみたところで、そこには何もないと知っている。それなのに、どうしてだろうか。そっと大事に開いて見てしまうのは。

「あれ?」

 そこには、何もなかった。

「痛……」

 なかったけれど、何かが見えた。

 刹那の頭痛が見せたそれは、記憶の映像――とある欠片だった。


◆◆◆


 三年生の冬。進学先は、既に推薦で決まっていた。成績を大幅に落としたり、問題を起こしたりしなければ、後は卒業するだけという安泰の日々を過ごしていた。

 友達も部活を引退してしまったし、私も最近は通院する頻度が増えていたこともあって、学校が終われば家へ直帰するという生活を送っていた。

 そんな日々の中、今日もまた正門を通れば、俯きながらランドセルを背負って歩いて行く小学生がいた。

 この子は、毎日私と擦れ違うのだ。

 一年生か、二年生くらいだろうか――はしゃぎながら駆けていく子たちと同じように見えるのに、その姿は一緒とは思えなかった。

 幼いながらも整った顔で、明るめの茶髪は地毛なのだろうか。黒いランドセルが、あまり似合わなかった。

 毎日毎日そんな暗い顔をされれば、こちらとしても気になるというもので。その辺の無邪気な子どもたちなんて、昨日は泣いていたかと思えば、今日はけらけら笑って走っていく。それなのにその子は、毎日同じ顔で私の目の前を通り過ぎていくのだ。

 学校がつまらないのだろうか。いじめられているのだろうか――勝手な憶測が、頭の中を巡る。まあ、どれだけ考えたところで、話したこともないから正直何もわからないのだけれど。

 今日もそうやって、前を歩く子のことを何げなく見ていた。

「ん?」

 彼が何かに気付いたかのように、ある一点を見つめて足を止めた。この歩道はさほど広くはないので、そうやって立ち止まられると困るのだけれど……。

 車道に下りるか? いや、結構な交通量だ。あまり気が乗らない。

 私はもう少し端に寄ってもらうべく、声を掛けようとする。そこで、彼が見ていたものに気付いた。

「仔猫?」

 私の独り言に驚いたのか――彼は肩を跳ねさせ、こちらを見上げて固まってしまった。

「え……」

 怖がらせてしまったのだろうか。確かに私が小学校低学年の時、高校生なんて大きく見えたものだ。

「あ、ごめんね。突然、驚かすつもりはなくて……」

 ああ、どうしよう。どんどん涙が溜まっているように見えるのは、気のせいではないだろう。なんてことだ。小学生男子を泣かせてしまうなんて。

 私が困り果てて弱っていると、横を同級生らしき数人の男の子が駆けていった。

「あいつ、また泣いてるぜ」

「やーい、泣き虫ライオン!」

「ライオンのくせに、泣き虫ー!」

 言うだけ言って、彼らは走り去っていく。ライオンとか言っていたけれど、きっとこの子のことだよね……。と、目の前の子は我慢していたのに、とうとう砦が壊れてしまったようだった。

「マジか……」

 これでは、どこからどう見ても私が泣かせたように見えるだろう。いや、実際私も要因の一部なのだろうが、しかし、私だけのせいでもなさそうなので、そう思われるのも困る。私は迷った挙句、そのまま置いていくわけにもいかなかったので、近くの公園へとその子を連れていった。

 これが、私と彼の出会いだった。


「お茶、飲む?」

 ベンチに座って、きょろきょろと辺りを見渡す。あまり人の姿が見えない公園だ。私もあるのは知っていたが、足を踏み入れたのは初めてだった。とりあえず、そばに自販機があったので気を紛らわすつもりで聞いてみたのだが、無言でふるふると首を横に振られた。

「そっか……」

 どうしたものか。つい連れてきてしまったが、これって犯罪だったりするのかな……。

 誘拐という単語が頭を掠めたその時、茂みから先程の仔猫が現れた。どうやら、ついてきたようだ。その姿に、彼の涙が止まる。

「Here kitty! Here kitty!」

「え――」

 彼の口から出てきたのは、流暢な英語。

 まさか。え、マジで? どうしよう。私、英語できない。

 今のは、おそらく仔猫に呼び掛けていたのだろう。「こっちおいで」ってところだろうか。

 泣き止んでくれたのはいいのだが、うまくコミュニケーションをとれる自信がない。急に不安になった私は、この場を立ち去ることにした。

 とりあえず、お茶のくだりで反応をしていたから、日本語がわからないことはない、よね……。

「あー、えっと、さっきは驚かせてごめんね。じゃあ、私はこれで……」

 そう言って立ち上がりかけたのだが、スカートが私の一歩を阻んだ。

「え……」

 もちろん、スカートが主人の意に反しているなんてことはなく。力の加わった一点――そちらをついと見やれば、制服が掴まれていた。その手の持ち主は、泣いていた子どもだ。

 無垢な瞳にじっと見つめられ、無碍にできない高校生。

「Please don't……あ……えっと、行く、ない……行く……?」

 彼は英語で言いかけて、すぐさま言い直すように言葉を探していた。

 何が言いたいのだろう。禁止語と、行くという言葉――

「もしかして、行かないで?」

「行かないで! 行かないで!」

 どうやら、当たっていたようだ。それにしても、行かないでとはどういうことだろうか。離してもらえそうもなかったので、とりあえず私は再びベンチに腰を下ろしたのだった。

「わかった。行かないから、手を放して。服が皺になっちゃう」

「Sorry……あ、えっと、ごめんなさい」

「いいよ。気にしないで」

 パッと手を放してくれた姿に、くすりと笑みが零れた。素直な可愛らしい子だ。

 どうやら、日本語は理解できるようだ。そういえば、あの男の子たちの言葉もわかっていたようだった。理解はできるが、話すのには慣れていないというところか。咄嗟に出るのは英語らしい。

「ごめんね。英語、話せなくて」

「え……」

「だって、私が話せたらもっと気楽に喋れるでしょ。あ、意味のわからない言葉があったら、言ってね」

「……! ……ありが……? ありが、とう」

「どういたしまして。でも、どうして私を引き留めたの?」

「あ! えっと……泣いた、ごめん、なさい。あなた、悪い、違う」

「それを伝えるために?」

 こくりと頷くその姿が、どうしようもなく可愛かった。

「そんなの、わざわざいいのに。気にしなくていいよ」

「許す、くれる?」

「うん」

 そう頷けば、パッと花が咲いたような笑顔になった。嬉しいを表すに相応しいその表情に、コミュニケーションは言葉だけではないと知った。

「じゃあ、そろそろ帰ろうか。遅くなると、家族の人が心配しちゃうよ」

「……また、会う、できる?」

「私と?」

 こくりと頷く子どもとの奇妙な関係が、この日から始まった。


 それから約束したわけでもないのに、正門を出るとちょうど通りかかる小学生がいた。前からそうだったのだ。突然変わることもない。

 違うことといえば、彼の表情が少し明るくなったという点だろうか。

 私たちはあの日から、少し公園へ寄り道をしてから帰るという日々を過ごしていた。公園でしていたことを簡単に言うならば、私は彼の日本語の先生をしていた。

 秋頃、数年ぶりに帰国した彼の家族。彼にとっては物心ついた頃には海の向こうにいたので、なかなか馴染めずにいるようだった。家族とも日本語で会話はするようなのだが、どうしても英語ばかり使っていたので、咄嗟に日本語で伝えたいことが出てこない。それが原因で、同級生からは仲間外れにされてしまったようだった。

 しかし、彼は物覚えの早い、賢い子。会話を重ねていくことでどんどんと吸収し、英語ほどではないものの、スラスラと日本語での会話ができるようになっていったのだ。

 それでも、子どもの世界は残酷で。既にできあがった教室内の関係が簡単に変わることはなく、彼は学校で楽しいと感じたことは一度もないと言うのだった。

「お姉さん、春が来たらもう会えないの?」

 ある日そう問われて、初めて認識した。卒業まで、あと少しの頃。

 進学先の大学は、まったく違う方向だ。となると、この関係にも終わりが来る。

「そうだね……卒業したら、もうこの辺りには滅多に来なくなっちゃうね」

「そうなんだ……」

 見るからに肩を落とす彼。しかし、こればっかりは仕方がない。

「嫌だな……お姉さんに会えなくなるなんて」

 すっかり懐かれてしまったなと思いつつ、寂しさを感じている自分がいることも、確かだった。

「学校……行きたくないな」

 ぼそりと呟かれた声に、言葉を失った。

 こんな年で行きたくないと思うなんて、すごいことだと思う。それはその環境にではなくて、その考えに至ることがだ。

 もちろん、そう思わせる周りの状況もあるのだろう。だけれど、一年生の子どもが辿り着く考えなのだろうか。

 それほどの苦痛が、彼の生活にあるのだろう。

 しかし、彼は実際にはそうしない。家族に心配をかけたくないと言うのだ。

 一度、家族の人に相談してみてはどうかと言ったことがある。しかし、彼は黙り込んでしまった。だから、その時はまだ言えないのだと思った。そういうこともある。私もそうだったから、それ以上は何も言わなかった。

「十二年か……大きいね」

「え?」

「せめて同じ小学生ならさ、その場にいたら、守ってあげられるのに……」

「お姉さん……」

「なんてね。日本語もすごく上手になっているし、きっといい友達ができるよ」

「……」

 私は、この時に気付くべきだった。彼の無言に秘められた、本当の気持ちに。

 そして、その日はやってきた。


◆◆◆


「さくらさん、どうしたの? 最近はここにいるね」

 今日も今日とて、私は正門のそばにいた。門の向こうには、猫がいる。しゃがみ、背を向けたままの私の視線を辿り、彼は気付いたように声を上げた。

「あ、猫だ」

「あの日の仔猫に、そっくりだね」

「あの日?」

「……覚えている? 公園に行ってさ、お茶飲む? って聞いたら、泣きながら首を横に振ったよね」

「――さくら、さん?」

 猫がどこかへ行ってしまった。私は立ち上がる。

「日本語、すごく上手になったんだね」

 言いながら、静かに振り返る。

 予想通り――驚いた顔が、青ざめていた。そして、くるりと踵を返す。

「待って、行かないで!」

 私の言葉に、強制力なんてないのだけれど……それでも躊躇した彼は一、二歩足を進めたところで、動力源を失ったロボットのように、力なくその場に立ち止まった。

「私はあの日のこと、後悔している」

 その言葉に、肩がびくりと跳ねる。私は構わず続けた。

「君を助けたことじゃないよ……君を一人、置いていってしまったことを、後悔しているの」

 回り込んで、彼の前に立つ。その顔は、理解できないといったような、信じられないというものだった。

「ごめんね。死んじゃって」

「っ――! 貴方という人は、どうして……!」

 彼は、ただただ涙を流した。私はしばらくの間、ただ黙って見ていた。


「ごめんなさい、逃げようとして」

 少しして落ち着いてから、私たちはいつもの桜の木の下に座り込んだ。私たちの目の前には正門。いろいろな想いが蘇る。

「全部、思い出したの?」

「うーん……事故のことはほとんど、かな。細かいところは、忘れたままになっている部分もある。だけど、知りたかったことは思い出した」

「俺、ごめんなさ――」

「謝らないで」

「でも……」

「いいから」

 彼が何に対して謝ろうとしているかなんて、すぐにわかった。それが彼の逃げた理由で、ずっと避けていたことだったからだ。

「君の発していた信号を見逃したのは、私だよ」

「……」

「そんなに嫌だったなんて、思いもしなかった。私にだけは言ってくれていたのに、もっと気にかけてあげるべきだった。ずっと、家族にも言えないままだったんだね」

「俺……こっちで暮らすようになって、俺だけじゃない。家の中で、誰もがバタバタしてて大変そうなのを見てた。だから、心配とかさせちゃいけないって思って……それで、そのまま言えなくなっちゃって……」

 そうして追い詰められた彼は、自らその命を終わらせようとしたのだった。

「私、あの日はたまたまいつもより帰りが遅くなったの……もしそうじゃなかったらって思うと、想像もしたくない」

「だけど! 俺があんなことしなければ、さくらさんは……俺のせいで……」

 彼は自分が私を殺したのだと、ずっと思ってきたのだろう。だから、こちら側に来ようとしたのだ。

 私への思いは本物で。一緒にいたくて。同時にその背負ったものから、目を背けるために。

 そしてただただ過ぎゆくだけの、意味を見出せない人形のような人生から、逃げるために――

「君は、もう十分に罰を受けたよ」

 一緒にいたいと思った人を、自分のせいで殺したと思いながら生きていくというのは、どんなに辛いことだろうか。

「もう、自分を許してあげて」

「でも……! 俺は、貴方と一緒にいたかったのに。それを自分で奪ってしまったなんて……」

「……いいよ。君が自分をいじめるなら、そうやって悲劇に浸っていたいなら、好きなだけそうしていればいい。私は、最初から君を許しているけれどね」

「さくらさん……」

 視線を落とす彼から、私も瞳を滑らせる。

 彼には、酷なことをしていると思う。

 知ってほしくないと願っていた。それなのに、私は知ってしまった。思い出した。

 そして、それを突然に突きつけられたなら……彼の心境は、想像に難くない。

「さくらさんは、いつもそうだね」

「え?」

「さくらさんだけだよ……日本語が上手く話せなかった俺に、誰もが早く喋れるようになれって言った。でもさくらさんだけは、英語が話せなくてごめんって言ってくれた。それに、死んでごめんって言うなんて……」

 彼の頬をまた一つ、滴が滑った。

「貴方は最期の時まで、俺のことを……」

「うん……」

「貴方は笑顔で……優しくて、残酷な人だった」

「そうだね」

 私は、ただただ夢中だった。灯を自分で消そうとする小さな体を、何も考えずに突き飛ばしていた。

 どこをぶつけたのかも何もわからないままに、むしろ痛みなんて全然感じないのに、体はもう動かせなくて。

 そうして、正門の前で転がる私へと駆け寄ってきてくれたあの子が無事なのを確認して、ほっとして。

 そして言ったのだ。


 ――生きて……と。


 彼はその言葉を守って、でも悩み続けた。

「ねえ、君は中学生の時に私を見たって言ったけど、その前から私のこと知っていたんでしょ? どうして、そう言ったの?」

「そう、だね……気持ちを自覚したのが、その時だったからかな」

「自覚?」

「うん。好きになった瞬間」

「……一目惚れしたって言っていた、あれ?」

「そうだよ。事故の後、俺は死ぬことも怖くなって、ただただ生きることにしがみついて。でもやっぱり辛くて、逃げたくて、嘘を吐くことを覚えて。そうして、貴方の最期の望みを叶える自信もなくなっていたんだ。そんな頃に、ずっと近付けなかったこの場所に、やっと来られるようになって――そうしたら、貴方がいた。この桜の木の上に貴方がいて、そして泣いていたから。どうして泣いているんだろう、何故ここにいるんだろうって気になった。その涙を拭ってあげたいって思ったんだ。もう一度、貴方のそばにいたいって思ったら、その気持ちが今日までの俺の『生きたい』っていう力になった」

「私が、泣いて……?」

「うん。すごく、綺麗だった」

「何を言っているのよ、急に」

「だって、そう思ったから」

「じゃあ、何。その……泣いている私に一目惚れしたって、そう言うの?」

「そうだよ」

「……悪趣味」

「ええ? いやあ、その……改めて好きになったっていうか……」

 泣いていた理由は、覚えていない。そんな時もあったと思う。

 誰にも見られていないと思っていたのに……。

「ねえ、私がどうしてずっとこの桜の木にいたか、わかる?」

「え……わからない」

「ここって、目の前に道路がよく見えるでしょ。だから」

 木の上からなら、より良く見渡せる。

「私ね、たぶん、君のことが好きだったんだよ。弟がいたら、こんな感じかなって……そんな君を見守っていたかったんだ」

 その理由を忘れてしまったというのに。それなのに、私はずっとここから見える景色を見続けていた。

 ここで、ずっと見守って。そして、待っていたんだ。

 だから、ここから出られなかったんじゃない。私が私の遺志で、出なかったんだ。


 彼を、見守り続けるために――


「ありがとう、レオくん。生きていてくれて」

「さくらさん……ありがとう。ずっと見守っていてくれて」

 ねえ、君はまだ、その心の整理ができないと思う。正反対の想いがせめぎあって、苦しいと思う。それでもどうか、自分にだけは嘘を吐かないで。

「いっぱい悩もう。それで、一緒に考えて決めよう。私たちの道を」

 だから、もう逃げないで。

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