第8話 虚しさの11月

 本格的に色づいた木々を横目に、人々の服装は一枚羽織るそれになっていた。生徒たちも上着を着ないでいるのは、体育の授業終わりくらいだろう。

 そう言っている間にどんどんと寒くなっていき、やがてコートの出番がやってくる。秋はどこへ行った――? という具合だ。

 世間ではこの間まで、連日ハロウィンで賑わっていた。終わった途端に、あちらこちらでクリスマスの準備が始まっているのだから、なんとも忙しいものだ。

 生徒たちは、またのんびりと過ごしている。中間テストも終わって、来月初めの期末テストまでは試験もないためだろう。彼もそうだった。

 もう少し寒くなるまでは、変わらずこの桜の木が二人の時間を過ごす場所だ。今日も今日とて、彼はここへ来ている。

 この時間は、私たちにとってかけがえのないもの――それを苦痛に思う日が来ようとは、つい先日まで考えもしなかった。

「でさ、その時――」

「レオくん」

 放課後。いつものように話をする彼の隣で、私は沈鬱な表情を浮かべていた。

 彼は、私の方など一切見ずに、ずっと話し続けている。ただただ、一方的に。だから、彼の話を遮った。これ以上、聞いていられなかったからだ。

 一見、いつも通りの日常。桜の木の下で、二人並んで一緒に過ごす時間。

 それなのに、ただ一つ――彼の様子だけが、おかしい。

 どこか上の空のような、乾いた笑みを浮かべながら、ただただ話し続ける。その姿は、まるで私に何も話させまいとするかのように、隙をまったく与えてはくれない。

 これは、会話じゃない。独り言だ。まるで、ここには私など存在しないかのような、独白。

 だから、無理矢理に割り込んだ。この状況は、今日だけではない。ここ数日、ずっとそうだ。

 隣にいるのに、壁がある。見えているのに、無視をされているかのよう――存在を、否定されているかのような、そんな感覚。

 そう思うと、辛かった。だけど、もっとわからないのは、彼自身が苦しそうだということ。

 私たちは、いったい何をしているの――?

「ねえ、楽しい?」

「……ごめん、面白くなかった? じゃあ、違う話をしよ――」

「――そうじゃない! ……そうじゃないから、もう、止めて……」

 どうして、こうなったのだろうか――その答えの半分を、私は持っていた。

 あの日からだ。私がお願いをした、その後からおかしい。過去を調べたいと言った。それが、どうやら彼を苛んでいる。

 だが、彼は本心を隠している。言った通り、手伝ってくれているのだ。表面上は。

 普段は、一緒に校舎内やこの学校の敷地内を歩き回り、記憶に引っ掛かるものがないか探したり、ヒントになるようなことがないか、二人でいろんな会話をして過ごした。そして休日には、彼が学外で何か手掛かりがないか探すと言ってくれた。自分からだ。

 もう十年だ。簡単に見つかるわけはないと思っていたし、休みの日にまで拘束しているようで、申し訳ないとも思っていた。

 けれど、最近だ。違和感が、確信に変わったのは。彼の行動が、フリだったことに気付いたのは。

 彼の月曜日の口癖は、「ごめん、また何も見つけられなかった」になった。

 最近は、開口一番にそれだ。それに、私の目を見ない。挙句の果てにすぐ話題を変え、ずっと一人で話し続けるという有様。

 こんなことは、意味がない。不毛だ。このまま続けるというのか? そんなの拷問だ。

 だから、止めた。彼が、いつまでもその拷問を続けようとするから。

 生憎、私はマゾヒストではないのだ。御免こうむる。

 だいたい、何故嘘を吐くのか。嫌なら、そう言えばいいのに。どうして、そうしない?

 考えれば考えるほど、意味がわからない。いったい、何を考えているの?

 私は、本気で過去を取り戻したいに。それなのに、こうして彼に適当に扱われている。辛い思いをさせられて、前にも進めなくて。焦りばかりが込み上げた。

「もう、止めよう……これ以上、君の嘘を見ていられない」

「嘘?」

「しらばくれるの? 乗り気じゃないのに、無理に付き合ってもらいたくなんてないんですけど」

「……何のこと? 急に、何の話?」

 白々しい。わかっているくせに――ふつふつと沸いたそれは、怒りだった。彼の態度もイライラしているもので、それが余計に私を苛立たせた。

「わからないの? へえ、そうなんだ」

「さっきから何。言いたいことがあるなら、はっきり言って?」

「はあ? だから、言っているでしょ」

「言ってない!」

「言った! 聞いてなかったんじゃないの? 嘘吐くのに必死でさ」

「誰が、いつ嘘を吐いたって?」

「ずっとよ。ずっとでしょう? 私が気付いていないとでも思っていたの?」

 そして私は、感情のままにその言葉を吐き捨てた。


「最初から、嘘ばっかりのくせに!」


「――っ……」

「え……」

 やっと彼と目が合ったというのに、私は後悔した。こんな顔をさせるつもりじゃなかったのに……。

「あ……」

 しまったと思ったのは、彼の傷付いた顔を見たから。

 気持ちが急激に冷えていったのは、頭の中にどうしてが溢れかえったから。

 その場から動けなかったのは、彼が無言でそのまま自転車を漕いで帰ってしまったから。

「な、何よ……何なのよ!」

 だってそうでしょ。私は間違ってない。君はずっと嘘ばっかり。

 自分から擦り寄ってくるくせに、大事なところは擦り抜けていく。

 掴めそうで、掴めない。

 ワガママな本音ばかりをぶつけてきたかと思えば、急に聞き分けよく引き下がる。

「わからない……君が、わからないよ……」

 こんなにも一緒にいるのに、知るのはわからないということばかり。

 わかるのは、嘘を吐いているということだけ。

「いったい、何を考えているの?」

 晴れ渡る空が、まるで私を責めているようだった。


◆◆◆


「リュウって、結構暇な人?」

「お前は、本当に僕を怒らせる天才だよね」

 レオくんとケンカした翌日の昼休み。目の前では、半眼の美少年、リュウが腰に手を当てて、睨むようにこちらを見上げていた。気付けば溜息ばかりの私にとっては、一人じゃないことが、ありがたかった。たとえ相手が、リュウであっても。

「レオとケンカでもしたわけ? お前んとこに行ってる様子がないんだけど。現に来てないし……表情も暗くて、絶対何かあるくせに『何でもない』の一点張り。お前が何か知ってるんじゃないかと思って、来てみたんだけど。どうやら、当たりみたいだね」

「そう……」

「何。お前も暗いわけ? 幽霊が暗いとか、笑えないんだけど。気が滅入るから、やめてくれない?」

 そんなことを言われても、暗くなるなと言う方が無理な話だ。私は今、レオくんに避けられているのだから。

 彼は、いつもより遅めに登校してきていた。姿を見つけたと同時に目が合って、しかし瞬間、逸らされた。そんなことは、初めてだった。

 戸惑いながらも、声を掛けようと近くに下りて行った私は、謝る気でいた。だけれど、彼は視界に入っているはずの私を無視し、すぐ横を素通りしていった。呆然と、大きな背中を見送ることしかできなかった私は、誰もいなくなった桜の木の下で、ただ突っ立っていた。やがて、ふつふつと感情が込み上げる。

「意味わかんない! 無視するなんて!」

 誰にもぶつけられない怒りを、吐き出す。それは、余計に虚しさを生んだ。

 それからこの時間まで一人反省しながら、幹に体を預けていたという次第だ。

「で? どっちが悪いわけ?」

「え?」

「え? じゃないんだけど。何とぼけた声出してんの? らしくもなく、ケンカしたんだろ?」

 悪いのは、どちらか……私も悪い。だけど、私だけ?

「どうせ、お前だろうけど」

 鼻で笑われ、思わずムッとする。確かにそうだけど、このように言われてしまうと、素直に「そうだ」とは言えない。言いたくなくなる。

「だって……寂しかったから……」

「はあ?」

 そうだ。私は、寂しかったんだ。まるで、無視をするかのように話し続ける彼の態度を辛く感じたのは、寂しかったからなんだ。

 隣にいるのに、そばにいるのに、こちらを見もしない彼――だから辛くて、苦しくて、嫌だったんだ。

 そうして、口をついて出た言葉――あれが、彼にとって地雷だったなんて思わなかった。あれほどの効果を持つものだなんて、考えが及びもしなかった。

 私は今まで、彼の何を見てきたのだろうか。

「ま、よくわかんないけどさ、ケンカなんて両成敗だよな。どうせ、くだらない理由なんだろ。ちょうどいいから、このまま別れたら?」

「それは……」

 到底、受け入れられない提案――そのはずなのに、言葉が続かない。

 彼が、このまま私の前に現れてくれなければ、自然消滅――それは、ありえない話でもないからだ。

「そばにいなくても、レオを煩わせるなんて……」

「煩わせる?」

「会ってないくせに、レオの頭の中がお前でいっぱいなのがムカつくって言ってんの――って、無駄なこと喋ってたら、もうこんな時間じゃん。仕方ない。僕は、このまま別れることを願ってるから。じゃあね」

 なんとも不穏な願いを残して、リュウは振り返ることなく、校舎へと歩いていく。その背を見送りながら、先ほど向けられた言葉を思い出していた。

「会っていない時も考えている、か……」

 ケンカしても、やっていることが同じとは……なんて――

「滑稽……」

 呟いた私の口元は、小さく弧を描いていた。


◆◆◆


「……はあー」

 また、知らず溜息を零してしまった。ケンカしてから数日。彼は、変わらずこの木の下に現れないままだ。

「あんなに、走って来ていたくせに……」

 思い浮かぶのは、チャイムが鳴ると同時に息を切らしてやってきて、目が合うと嬉しそうに笑う無邪気な顔。

 休み明けの月曜日は、気怠そうな生徒たちに交じって、とびきりの笑顔で私を見ること。

 帰り際の、特に金曜日は名残惜しそうなこと。

「あんなに、あんなに……」

 私のことが好きだって――言葉で、表情で、態度で、表現していたくせに……。

 なのに、君は平気だっていうの? こんなに会えなくて、私は寂しいのに。

 たった……あんなくだらない言い合いで。ただそれだけがきっかけで、もう会いには来てくれないの? 私のこと、嫌になったの? 謝ることさえ、そのチャンスさえもらえないの?

「うう……っ」

 考えれば考えるほど、胸がギュッと締め付けられた。

 これは、何だろう? 悔しさ? 辛さ? 寂しさ? 痛み? ――どれもそうだし、どれも違った。いろんな想いがぐちゃぐちゃになって、重りになって、ズシンと心に落ちている。それはそこに留まって、軽くもならず、消えてもくれなくて。ただ私を、無言で苛む。

 黒く暗いそれは、言葉になんかならなくて。私一人では、どうにもならないのだと知った。そして泣きたくもないのに、勝手に目尻から溢れ出てくるのだ。

「ははっ、変なの……私、いつからこんなにも泣き虫になったの?」

 空笑いをするけれど、余計に虚しくなった。それが更に、涙へと変わる。

「もう、最悪っ……こんなの、やだよ……」

 私はただ、知ろうとしただけなのに。

 単に過ぎ行く明日じゃなくて、未来を思い描くことができるようにしたかっただけなのに。

 空虚の十年じゃなくて、前に進むための足場になる過去が欲しかっただけなのに。

 自分のことなのに、手が届かない。

 これも知らない、いつかの私が犯したことへの罰だというのだろうか。

「レオくん……」

 彼の名を口にした途端、涙腺が決壊した。いつかくる別れは、想像以上に辛いのだと実感してしまったのだ。

 いつか――? いや、もう訪れてしまったのではないか?

 このまま私という存在は、彼の中でただの思い出になるの?

 そうして、忘れられていくの?

「嫌だ……」

 たくさんの後悔を残して、どうにもできない思いを抱えて、私はこれから生きていくの?

 いつまでも私ばかりが、彼を想っていくの?

 彼は、思い出してくれないかもしれないのに?

 こんなことなら、やっぱり……。

「付き合うんじゃ、なかっ――」

「――それだけは、言わないで……!」

 しばらくぶりに聞いた声は、初めて会った時と同じように震えていた。

 久々に見た目は、私をまっすぐに映していた。

「っ……あ――」

 会ったら言ってやりたいことが、それこそ今まさに溢れ出ようとする言葉たちがあるのに。それなのに、どれも全部、喉元で詰まって出てこない。

 私が呆然と彼を見ていると、罰の悪そうな顔で瞳を彷徨わせた後、一言「ごめん」と謝罪を向けられた。

 それは、何に対しての「ごめん」なの? また一筋、滴が伝った。

「あの時、イライラしてて……冷静じゃなかった、ごめん」

 私も、冷静じゃなかった。

「無言で帰って、ごめん」

 うん。

「避けてて、ごめん」

 あれ、結構堪えた。

「泣かせて、ごめん」

「……」

「俺と付き合ったこと、後悔させてごめん」

「っく……ううっ……」

「泣かないで……」

「ひっく、う……ああっ……」

 言いたいのに、言ってあげたのに、それは言葉にならずに嗚咽になっていく。

 苦しい。感情がいっぱいいっぱいで、胸の内で暴れている。

 また会えた。声が聞けた。目が合った。そんな嬉しさと、寂しさと辛さと苦しさが全部ごちゃ混ぜになって、洪水のように一気に襲ってくる。

 それでも落ち着いた頃には、あの重りはもうどこにも見当たらなかった。


◆◆◆


「さくらさんって、よく泣くよね」

 その言葉にキッと睨んでやった。そもそも、誰のせいだと思っているんだ。

「ご、ごめん……冗談のつもりで……」

 笑えるか。

「あ、のさ……その……」

「ごめんなさい」

「さくらさん……」

 やっと言えた。冷え切っていく衝撃に呑み込んでしまった一言を、もう言えないのかと絶望したその言葉を、やっと伝えることができた。

「俺こそ、逃げてごめん……図星だったから、余計に認めたくなくて……怖くなったんだ」

「図星……」

「うん……俺、嘘吐いてた。さくらさんに、過去を知ってもらいたくなくて」

「どうして……?」

「思い出したら、きっと俺とはもう一緒にいてくれなくなるって思ったから」

「どうして!」

「……」

 それきり黙ってしまった彼は、まだ決心がつかないようだった。口を開こうとしては閉じるという行為を繰り返している。

「ねえ……どうして今、ここに来てくれたの?」

 こんなにも言いづらそうにして、悩んでいるのに。覚悟をしたわけでもないのに。それなのに来てくれたのは、何故だろう。

「来るつもりは、なかったんだけど……さくらさんが、泣いてたから」

「私が、泣いていたから?」

「うん……俺、また泣かせちゃったんだって、自分のことばっかり考えてたことに気付いて……そしたら、付き合うんじゃなかったって言おうとするから……ワガママが過ぎるとは自分でも思うんだけど、そういうの、聞きたくなかったから」

「言わせたのは、君なのに?」

「だからだよ……そこまで言わせておいて帰るなんてこと、できるわけない」

 なんだかんだ、彼は私を避けていたくせに、気にしていたのだ。人の気も知らないで……。

「許さない……」

「え?」

「私の隣にいないと、許さないから……」

「さくらさん……」

 どうしてくれるのだ。また泣きそうじゃないか。

「でも……」

「でもじゃない」

「だけど……」

「だけどでもない」

「……俺、嘘を吐いていたのに」

「嘘くらい吐くでしょ。それとも何? 寂しかったのは私だけ? 君は平気だったっていうの?」

「平気なわけない! 平気な、わけない……」

 彼の言葉尻は、とても弱々しくて。それだけで、同じ想いだったのだと知れた。……まあ、避けていたのは彼なのだけれど。

「ねえ、君が私に過去を知ってほしくないと思っているのは、わかった。だから、もう探そうとしなくていい。だけど、私は一人ででも探すよ。だって、やっぱり私このままなんて嫌だ。今回みたいな想いをする日がくるなんて、嫌だよ。過去という鍵が見つかれば、ここから出られる気がするから。ここから出たいから、探す。……君が望まない日が来るまで、そばにいたいから」

「――望まない日なんて来ない!」

「レオく――」

「ねえ、さくらさん……俺はすごく嬉しいんだ。さくらさんに、そんなに想ってもらえているなんて、夢みたいなんだ。俺も、ずっとそばにいたいよ。ずっと、ずっと――――永遠に」

「――え?」

 先程まで揺れていた彼の瞳は、仄暗い光を灯していた。何かの覚悟を決めたそれは、私の頭の中で警鐘を鳴り響かせた。

 嫌な予感が、背筋を滑り落ちる。それは一瞬にして全身を駆け巡り、血液を急激に冷やした。

「俺……」

 ダメだ。これは、聞いてはいけない気がする。そう思うのに、金縛りにあったかのように動けない。

「俺も……」

 やめて。それだけは、聞きたくなかった。あの時に抱いたものは、間違いじゃなかった。

 彼は――

「そっちにいくから」

 以前、冗談だよと言った彼。今と同じ瞳で、口元だけで笑った彼は、目を合わせずに言った彼は、やっぱり本気だったのだ。

「俺がそっちにいけば、同じ存在になれば、ずっとずーっと、一緒にいられるよね」

 息が苦しい。呼吸などしていないのに、はくはくと口が必死になる。

「待っててね……もう、寂しい思いはさせないから」

 首をふるふると横に振る。それが、精一杯の反応だった。

「どうして? 一緒にいたいって、言ってくれたよね」

 涙が溢れる。そんな結末は、望んでいない。

「すぐに、望みを叶えてあげるからね」

 私を見ることができる人は、こちら側に近しい者が多い――彼は、前からそうだったのだ。私のことがなくても、こちら側に来ることを考えていたのだ。少なくとも、中学生の時から。だとしたら、彼の心の奥底にある本心は――

 しゃがみ込む私を置いて、立ち上がる彼。目で追うと、きょろきょろと辺りを見渡し、校舎の屋上に目を留めた。そして歩き出す。

 まさか――過った考えに、わかってしまった結論に、吐き気がした。絶対に阻止しなければならない。だってそんな理由で、私のせいで、彼を――黒崎礼央を、こちらへ呼んではならない。

 震える体に力を入れて、私はようやく動くことができた。彼の行く手を阻むように、立ち塞がる。こんなことをしても、私など擦り抜けられたらどうにもできない。けれど、彼はそうしなかった。

「何の真似?」

「君はまた、私を怒らせたいの? その言葉、そっくりそのまま返すよ」

「俺は言ったよね……そっちにいくんだよ」

「バカなことを言わないで。そんなの、私は望んでない」

「どうして? じゃあ聞くけど、さくらさんが仮にこの学校から出られたとしよう。それで、どうするの? 俺たち、ずっとこんなことを続けるの? 俺が死んだら? 老いた俺が、今のままのさくらさんと一緒にいるの?」

「それは……」

「それに、過去を知ってもここから出られなかったら、どうするの? 俺が卒業したら、こうやって当たり前のようには会えないんだよ。だったら――」

「それでもだよ。それだけはダメ。君だって、わかっているんでしょ? 見える君なら、わかるはず……死んだって、一緒にいられるとは限らないんだって。そんなに都合良く、いたい場所にいられるわけじゃないんだって」

 彼は黙ったまま、動かない。私は、畳みかけた。

「当ててあげる。君はただ、全部捨てて逃げたいだけなんだよ。でも、お生憎様。こっちは、逃げ場なんかじゃないから。断言する。君の望む世界は、訪れない。だから、そんな理由でこっちに来ないで。こちらに来てはいけない――ここは、私を口実にしているだけの君が来る場所じゃない……!」

 言葉を受けた彼は、その顔をくしゃりと歪ませて、しゃがみ込んだ。

 そうして、ただただ声も出さずに、静かに泣いていた。


◆◆◆


「さくらさん……本当に、ごめんなさい」

「私も、追い詰めていたんでしょ? ごめんね」

「さくらさんは何も知らないから、仕方ないよ。そもそも、俺が言わないのが悪いんだから」

 だいぶ落ち着いたらしく、彼からはあの目は消えていた。

 桜の木の下。少し冷えるけれど、大丈夫だと言う彼と並んで座る。

「ずっと、ああいうことを考えていたの?」

「……うん」

「そっか……誰にでも、あるよね。逃げたいことって」

「まあ、そうだね。その気もないのに、自分で傷付けるやつはイラつくけど」

「何それ」

「ほら、手首とかさ」

「ああ……」

「ああいうのって、心配してもらいたいだけでしょ? 悲劇のヒロイン的な」

 優しくして。心配して。注目して。私を見て――ってやつね。

「興味本位でやるなよって話だよ」

「まあ、いろんな人がいるよね」

「本気で、やりたくないのに、やってしまって悩んでる人の気持ちなんて、わからないくせに……」

「ああ……あれ、ほぼ無意識なんだよね。傷を負うことで痛みを和らげる物質が分泌されて、落ち着くことができるらしいよ。人間が、本能的に生きようとする手段の一つなんだって。そのせいか、衝動が抑えられなくてさ……夏なんて最悪。視界に手首が見えた瞬間、所構わず衝動に駆られて――――え?」

「さくら、さん?」

「え、今……」

 私は、何を? 何を、言った?

 驚く彼。いや、私が驚いている。私が聞きたい。

 口をついて出たのは、紛れもなく知っていることだった。それは、私の過去の一部。私は――

 おそるおそる、目だけを動かして見る。一瞬、あるはずのない傷が見えた――気がした。

「何か、思い出したの?」

「た、ぶん……」

 あれ? 私、病気だった、よね? 自殺じゃ、ないよね? 確かに、病気だったことは覚えている。ただ、何の病気かまではわからない。

「私……自殺したの、かな」

 だったら、どうして? どうして、ここに囚われているのだろう。それほどまでに嫌なことがあったのなら、記憶がないこともわかる気がする。そうだったのなら、どうであれ私に彼を止める権利など、ない――

「それは違うよ」

「え?」

「違うから、怖がらないで。震えてる……」

「あ……」

 何にと言われると、説明できない。けれど、私は新たに知った過去に震えていた。私が自分を傷付けていたことは、事実だ。どうしてそうなったかは、わからない。それでもただ、違うと言ってもらったそれだけで、少し心が軽くなった。けれど――

「どうして、君がそんなことを言えるの?」

 私の過去を知っているようなことを言っていたけれど、まさか死因を知っているというのだろうか。

「……ここで逃げるなんて、できないよね」

 そう、誰に言うでもなく呟いて。

「俺……さくらさんの最期を知ってるんだ――そばに、いたから」

 そう、告げた。

「…………え?」

 そばに、いた? 十年前に?

「さくらさんは、病気で死んだのでも、自殺でもない……事故に、遭ったんだ」

 言葉が出ない。今まで、そうだと疑いもなく十年過ごしてきた――しかし、事実はそうではないのだと否定された。それはなかなかの衝撃を伴っていて、頭がついてこない。

「事故?」

「この学校の前にある、道路で」

 ついと指差す方を、つられて見やる。この木の正面。正門を通ると、歩道がある。その横は車道だ。

 十年前、そばにいたという彼は、当時小学生くらいのはず。どうして、私がそんな彼といたのか。そして私は、そんな小学生の前で事故に遭ったというのか。

「え、と……衝撃的な現場を目撃させてしまった、みたいで……」

 あははと、乾いた笑いを浮かべる。信じられないあまりに、バカなことを口走っていた。

 また、質の悪い冗談でも言っているのかと彼の顔を見たけれど、そんな雰囲気は微塵も感じられない。

「あ……ほん、とうに?」

「さくらさんは、俺を助けてくれたんだよ」

「君を、助けた……?」

 経緯はまったくわからないけれど、それでも幾分か救われた気になった。

 ただただ、轢かれて終わった命ではなかったらしい。まあ、ドライバーや残された側の気持ちを思えば、そんなことを言っていられないのかもしれないけれど。

「そう、なんだ……そっか……」

 事故の衝撃で、記憶がないのかもしれないと思った。忘れたいこともあったかもしれないけれど。

「だから、俺のせいで……」

「君は、ずっとそんなことを思って生きてきたの?」

 思わず漏れたのは、苦笑だった。

「君のせいじゃないよ。ねえ、その時に怪我はなかったの?」

「あ、うん。無傷だったよ」

「だったら、良かった。君が無事で、こんなに大きくなって……なら、尚更生きていてほしいと思ってしまうな。私のエゴだけど」

「さくらさん……」

 この学校の向こうに、小学校がある。きっと彼は、そこへ通っていての帰り道、偶然同じ時間に歩いていたのだろう。そんな瞬間に、出会っていたなんて――なんと不思議な縁なのだろうか。

 まさか、そんな子と付き合うことになろうとは。

「君はいつから、その時の事故の人物が私だって、気付いていたの?」

「……最初から、知ってたんだ」

「最初から?」

「中学生の時、この桜の木にいるさくらさんを見て、すぐにわかったよ。あの時の人だって。さくらさんのことを忘れたことなんて、なかったから」

「そう……」

 そりゃあ忘れられないよね、目の前で命を落とされたら。しかも、自分を庇ったなら尚更だ。

「黙ってて、ごめん。病気だって言ってたし、覚えてないって言ってたから、言うべきか迷ってたら、ずるずると……」

「ううん。教えてくれて、ありがとう」

 もしかしたら、彼だって思い出したくないことだったのかもしれない。

「でも、そんなことで私が君から離れるって思うなんて、大げさだな」

「う、ん……」

 あれ? 何だか歯切れが悪いな。もしかしたら、まだ何かあるのだろうか。彼がこちら側に来たがっていることもあるし……。

「他にも、あるの?」

「……」

 目は口ほどに物を言う。本当にそうだ。

「ねえ、いつか教えてくれる?」

 今はまだ、言えないというのなら。

「うん……ありがとう、さくらさん。必ず、近いうちに話すから」

「わかった。待っているね」

 しかし、私の奥深くで眠っている欠片たちは、着実にその目を覚まそうとしていたのだった。

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