第7話 気付きの10月
まだ少し汗ばむ日の続く、今日この頃。空は高く涼やかな風が吹き、食べ物が美味しくなる季節。まあ、これは私の個人的な意見だけれど、ついつい夏バテしていた体が元気になって、いろいろ食べちゃうんだよね。
なんて、今の私にはダイエットも何も関係ないけど。
「今日も、いい天気だ」
そんな秋晴れの、とある日。学校は、いつもと違う顔を見せていた。
あちらこちらと、至るところに色とりどりの飾り付けがされ、制服と合わせてクラスオリジナルのTシャツを着た生徒たち。中庭や通路には模擬店などが並び、保護者や他校の生徒、近所の人々など、いろいろな人たちが校内にいた。
今日は、この学校の文化祭。
はしゃぐ子に緊張している子と、様々な顔を見ることができる。
私はふらふらと賑やかな校内を見て回りながら、彼のクラスのお化け屋敷を目指した。
「確か、二階の……あった、あれだ」
目的地に到着した私は、まだこちらに気付いていない彼の仕事ぶりをそっと見ることにした。
「こんにちは。お化け屋敷、どうですか?」
通りがかる人たちは、皆一様に彼へと視線を向けている。話し掛けられた女の子はもちろん、にこりと微笑みかけられただけの子でさえもが、百発百中と言わんばかりに、懐中電灯を手に黒いカーテンの向こうへと消えていく。その中からは、時折お客さんの悲鳴が聞こえてきていた。
どうやら、クラスメイトの思惑通り……きっと内心は、複雑に違いない。
「ふう……」
「お疲れ様。大人気だね」
「!」
「いいよ、そのままで。他の子に、変に思われちゃうから」
彼の近くで漂う。私の反対側には、彼と同じように入り口で呼び込みをしている男子がいるので、それ以上は話し掛けなかった。
それにしても――と、彼の姿を改めて見る。教室の中は、きっと和風のお化け屋敷なのだろう。彼は、浴衣を着ていた。
紺色のシンプルなデザインのそれは、とても似合っていて格好いい。もう少し遠くで見ているつもりが、もっと近くで見たかったがために不覚にも近付いてしまった。
これは、ズルい。彼に声を掛けられずとも、ほいほい釣られてしまうというものだ。
もちろん、お化け屋敷の出来も良いのだろう。ずっと悲鳴が絶えない。どうやら大盛況のようだ。そのうち、列でもできるのではないだろうか。
「さくらさん早いね。お化け屋敷、見に来たの?」
彼がこっそりと話し掛けてきたので、悪戯心が芽生えた。誰がお化け屋敷なぞ見に来るか。本気で言っているのか。まったく……いや、ちょっと気になってはいたけれど。
私は、持てる最大限の艶やかさを意識して、微笑みを湛えた口元を彼の耳へ寄せて囁いた。
「君を、見に来たんだよ」
「!」
かあっと赤くなる顔を見て、満足する。何やら言いたげなその顔に気付かないフリをして、私は少し離れたところから、しばらく役割をまっとうする姿を眺めていた。
「珍しいね、さくらさんが積極的なの」
文化祭の喧騒から逃れるように入った空き教室。お昼時の学校は、更に賑わいを見せていた。
呼び込みの仕事は終わったものの、そのままで歩いていた方が宣伝になるとのことで、彼は浴衣を着たまま首から手作り感満載の、紐がついた黒い画用紙を下げていた。お化け屋敷の宣伝文句が、紙いっぱいに白や赤の大きな字で書かれている。
「そう? なら、きっと私も文化祭の熱に浮かされたんだよ」
文化祭の記憶はないけれど、こんなに楽しみなものだと感じたのは初めてだと思う。今日が近付くにつれ、そわそわしていた。それに、今日まであまり彼と会う時間がとれなかったのだ。浮かれるのは仕方ない。
「そういえば、お化け屋敷は入らなくて良かった?」
そう聞かれて、私の眉間には皺が刻まれた。
「いい……怖そうだったから」
その言葉に、彼が数度瞬きをする。きょとんという表現がぴったりの顔だ。
「それ……さくらさんが言う?」
「どういう意味よ!」
すかさず噛みついた。これはあれか。幽霊のくせに怖がるなんて、おかしいと言いたいのか。だとしたら、怒っていいやつだよな、これは。
がるるるると唸ってやれば、彼は苦笑を浮かべて宥めにかかってきた。
「どうどう」
「ったく……」
「さくらさんは、ホラー苦手?」
「……どちらかといえば」
「そうなんだ」
「君は? 好きなの?」
そういえば、お化け役をやりたがっていたな。
「別に、好きってわけでもないけど……こういう催し物は、楽しめる質かな」
「ふうん……行きたかった?」
「え、俺? いや、作った側だし。中は、できた時に一通り見てるから、別に。あ、でも怖がるさくらさんを見るのも良いな」
「……行かないからね」
「それは残念」
「まったく……ね、文化祭回るんじゃなかったの?」
どこにも寄らずに、まっすぐここへ来た。回ろうとかデートとか言っていた割には、この場から動く気配がない。どういうつもりでいるのかと思い顔を見やれば、苦い顔の彼がいた。
「回るよ。本当は、すぐにでも回るつもりでいたんだけどさ……でも、さくらさんがあんな可愛いこと言うから……」
そう言われるようなことを言った覚えはないのだが……。
「それに、今日まであんまり会えなかったから……だから、ちょっと二人になりたかったんだ」
ソウデスカ。今日は、気温が高い気がする。顔が熱い。
彼も同じように思っていたんだ……なんて、こんなことで喜んでしまう。私は、なんて単純な人間になってしまったのだろうか。いや、元々か。知らなかっただけだ。
それにしても、どうして彼はこういう言葉を簡単に口にするのだろうか。とは思うものの、聞いてみるつもりはまったくない。理解などできそうもないからだ。
「ね、ここ。来て」
甘やかな眼差しに囚われて、私は促されるままに壁際へ座る彼の隣で三角座りをした。
机や椅子が、教室の端へと集められている。床に座る私たちの視界には、電気の点いていない薄暗く、やけに広く感じる室内と、射し込む光の作る影。締め切られた四角い額縁の向こうは、一つの動く絵画が目の前にあった。
見慣れたはずの、でもいつもと違う視点の教室。遠くに感じる賑わいが嘘のように、しんとしていた。まるで、作り物のスクリーンを眺めているかのようだ。
「もう少しだけ、このままで……後でいろいろ回ろう」
「うん……」
前を向く彼の横顔を、ちらと見る。窓の向こうを映すその瞳に見ているものは、何だろうか。空を見ているだけ? それとも、何も見ていないだろうか。
再び前を向くと、そこに光は射していなかった。
ああ――同じものなどないのだ。一つとして、存在はしない……。
風が流れるように、時が進むように、地球が回るように、瞬間瞬間で物事は変化していく。
私一人がただ置いていかれて、止まっているのだと思っていた。けれど、それはただの思い込みで、自意識過剰で、勘違いだったのだ――最近思う。思わされることが多い。
それもこれも、彼と関わるようになったからだ。人に触れ、時を過ごしていく中で止めていた、考えるということをまた始めたから。しかしながら思うのは、誰とも同じ時を過ごせやしないってことだけれど。
それでも、前に進みたいと思わせてくれた人がいるのだ。挑戦しようという気持ちを抱かせてくれた人が。
「さくらさん、何を考えてるの?」
「……君との未来」
「え?」
「……なんてね」
淡い苦笑を浮かべる。そして浮き上がった。
「さ、そろそろ行こう」
「うん。さくらさん行きたいとこある?」
「そうだな……まずは、君のお昼の調達からかな?」
タイミングよく聞こえたお腹の虫の声に、二人して笑って。私たちは、模擬店の集まるエリアを目指して歩いた。
◆◆◆
たこ焼きや焼きそば、ポテトなどの定番メニューを食べたり、よくわからない創作料理を見て歩いたり。お腹がいっぱいになったら、中庭に作られたステージでのライブを見に行った。有志メンバーのコントや演奏が次々と披露されるのをいくつか楽しんでから、いろんな教室を見て回る。研究結果を披露する部活やゲームをしているクラスを横目に、様々な創意工夫のされた催し物を見て歩いた。少しして動くことに疲れてきた頃、体育館で演劇部の劇を見た。
劇は、今年話題になった映画作品を演じたものだった。私はまったく知らなかったけれど、彼がそう教えてくれた。有名な作家の小説が原作で、今話題の俳優たちが出演しているとのこと。とても長い期間、上映されていたらしい。そんな作品を題材にするなんて、相当自信があるのか、その作品が好きなのか――それはわからないし、小説を読んだわけでも映画を見たわけでもないので、比べることはできない。けれど、部活として日々やっているだけあって、クラスの劇とは完成度が違う。セリフも何を言っているかわかるし、舞台運びもスムーズで、見ていて飽きなかった。
「面白かったね」
わりと話は笑えるところもあって、感想を言うなら楽しかった、である。決められた時間に短縮せざるを得なかったために、急ぎ足で過ぎ去ってしまった物語だったけれど、これは学校の文化祭だ。楽しかったと言えたなら、それは褒め言葉ではないだろうか。当人たちがどう思っているかは、知らないけれど。
「そう、だね」
劇が終わって明るくなった体育館には、私たち以外の観客はもういない。今日の体育館のステージ演目は、これで終わりだ。
私たちが未だこの場に留まっているのは、余韻に浸っているから。テンプレなハッピーエンドのラブストーリーに、願望を投影しているから。
他の人たちが当たり前にできることが、できなくて。努力とか、そんな言葉では片付けられない現実があって。
それでもやっぱり描くのは、夢見るのは、バッドエンドよりもハッピーエンドな、できればありきたりな日々。
リアルは平凡に、割と良いことも悪いことも起こるから。だから、できれば良いことの多い日々であってほしいと願う。
それすらも、指の隙間から零れ落ちてしまうのだけれど……。
それでも――こうやって想う人と隣にいられるだけで、既にハッピーエンドなのだろうか。
どんな作品も、良い瞬間で終わる。その後は描かれていない。そのままずっと幸せなんて、そんなのはフィクションの中だけだろうから。
だけど、やっぱり幽霊でも人間だから……だったから。だから、望んでしまう。そんな御伽噺みたいな、『ずっとずっと、いつまでも幸せに暮らしましたとさ』って終わるエンディングを。
◆◆◆
翌日。文化祭二日目。
今日も朝から、彼は浴衣姿で呼び込みをしていた。昨日来ていた子もいるのではないだろうか。朝から大盛況で、彼は女の子に囲まれていた。
男子なら、誰もが羨むはずのシチュエーション。しかし彼は、困った目をしてこちらを見ていた。けれど、私はただただ苦笑を返すことしかできなかった。
「疲れた……」
昼頃。私たちはまた逃げるようにして、空き教室に来ていた。
「お疲れ様」
昨日よりも、来校者数は増えているようだ。休日ということもあるだろう。あとは、噂が広まっているようだった。
「ほとんどの子、君目当てだったね」
「嬉しいと思えない俺は、間違ってるのかな……」
遠い目をしている。相当疲れたのだろう。
「それ、男子の前で言わない方がいいかもね」
「でも、俺にはさくらさんがいるんだから、間違ってはないよな」
自分だけを見てくれるのは、女子として嬉しいことこの上ない。彼は口だけではないから、尚更だ。
「とりあえず、ご飯食べに行く?」
そう促せば、彼は淡い苦笑を浮かべて立ち上がった。
「お腹鳴りそうだったんだ」
「ふふっ」
今日は何にしようかな、なんて話しながら歩く。お腹が満たされた後も、昨日行っていないところに足を伸ばしたりした。
「他に見たいところある?」
パンフレットを広げる彼の手元を覗く。だいたい回ったんだよな……。
「ステージのスケジュールは?」
歩き回ると、どうしても彼が女の子に捕まってしまって、その対応に彼が疲れてしまう。そのため私は、割と暗がりで人の視線がステージに夢中になっている体育館を提案した。
「ちょうど、軽音部がライブやってるみたい」
「そうなんだ」
「行ってみようか」
「うん」
そうして見に行ったステージは盛り上がっていて、意外に私でも知っている曲が演奏されていたりで楽しかった。
「この後は、三年のクラス劇だって。このまま見ていく?」
「そうだね。そうしようか」
舞台では、楽器の撤収作業が行われていた。その間に、パンフレットを見る。
「どんな劇?」
「えっと……三年一組の……あ、これか。雪白姫だって」
「ゆきじろ、ひめ?」
雪のように白い姫。スノーホワイトを日本語訳すると、白雪ではなく雪白だという話を聞いたことがある。台本を書いた人は、原作をよく調べたのかもしれない。
「あ、始まるみたい」
照明が落とされ、音楽が流れる。ナレーションの子が立ち去ると、幕が開き美人の王妃が現れた。どうやら彼らの台本では、彼女は継母ではなく実母らしい。
雪のように白い肌、血のように赤い頬や唇、黒檀の窓枠の木のように黒い瞳を持って産まれた王女。その容姿から、スノーホワイト――雪白姫と呼ばれる。彼女は、その美しさゆえに命を狙われた。城を追われ、猟師に森へ置き去りにされ、小人と出会う。そして、彼女が存命であることを知った王妃によって、また命を狙われる。
幼い頃はよくわかっていなかったし、それに読んでいたのは子ども向けの話になっていたものだった。そのためか、改めて触れた作品は、なんともいえないものだった。
――どうして彼女は、狙われている身で小屋の扉をやすやすと開けたのか。そして何故、疑いもなく林檎を口にしたのだろうか。
無邪気な心優しい、疑うことを知らない子だったから? そんなことがあるというのだろうか。
王女として生まれ育ち、世間知らずだったかもしれない。けれど猟師に命を狙われ、住むところを失い、やっと見つけた暮らしでも王妃に腰紐や櫛を使って二度も殺されかけていて、それでも尚、人を信じようというのか。
それとも――どんな人でも、母は母。彼女は、物売りとしてやってきた女が実母だとわかっていて、そして毒とわかっていて、林檎をかじったのだとしたら?
どんなことをされても、何度裏切られても、それでも信じたい人というのは、いるのかもしれない。そして、そんな人に与えられるものならば、毒だとしても受け入れてしまうのだろうか。それは、私の考えすぎなのかもしれないけれど……。
ラストは、生き返った彼女と王子との結婚式で終わるというものだった。
出来は、まあまあだった。昨日、演劇部の劇を見ているので、どうしても比べて見てしまうと残念に思える部分がちらほらとあったのだけれど。主役の子が上手かったのと、台本がしっかりとしていたので、それなりに見ていられた。
明るくなった体育館は、少し眩しかった。見に来ていた人たちは次々と立ち上がり、開けられた扉から外へと歩いて行く。
「ねえ――」
「さくらさ――」
レオくんと声が重なった。
「……何?」
「さくらさんから、どうぞ」
いや、別に大したことを言うつもりはなかったから、譲られると余計に言いにくいのだけれど――って、今の拍子で、何を言おうと思ったのだったか忘れてしまった。
「……何でもない。君は?」
「そろそろ行こうかって、言おうと思って」
「そうなんだ。そうだね、私たちも行こうか」
あ、思い出した。聞こうとしたんだった――ねえ、君なら林檎をかじった? って。
私だったら、林檎をかじって。それから、相手にも食べさせてやるんだ。そうして二人で堕ちてやるのに――
なんて、絶対にそんなことは口にしないけれど。
◆◆◆
「出た……」
「はあ? 幽霊に『出た』なんて言われたくないんだけど」
先月、突然現れてから音沙汰のなかった、名も知らない美少年。その彼が、眼前に立っていた。
あの日以来現れなかったから、すっかり忘れていたのに……というのは嘘だが。
まあ、こんな強烈な存在だ。実際は忘れられなかったので、考えたくなかっただけなのだけれど。
「レオに僕のこと、言ってないみたいだね」
「何を言うのよ」
「別に。ただ、何か聞いたりするかなと思っただけだよ」
この子のことを言うかどうかは、正直迷った。だけど、不明瞭な点が多すぎたし、わざわざ彼のいないところで現れたのだ。そのことに意味があるかはわからないけれど、しばらく様子を見ようと決めた。そのため、彼には話さなかったのだ。
だいたい、話したところでどうにかなるとも思えないし。むしろ、リスクがある。
もしかしたら、それを狙って……? いや、そこまでは考えすぎか……。
「そういえば、文化祭の時いなかったね。てっきり、レオくんと一緒に回ろうと現れるかと思ったのに」
「残念なことにクラスが違うし、自由時間も全然違ったんだ。だから、仕方なくお前に譲ってやっただけ。感謝しろよな」
はあ、そうでしたか……。
「それで? 今日はいったい、何の用なの?」
「そんなに嫌そうにするなよ。僕だって嫌なんだから」
だったら、通り過ぎればいいのに。わざわざ立ち止まって、何の用なのだろうか。
「言ったろ。また来るって。あれから、考えを改めたかと思ってな」
緑がかった漆黒の髪が風に遊ばれて、さらりと揺れる。相変わらずの雪肌に、くっきりとした目鼻立ち。とても可愛い顔をしているのに、表情が私を見下すそれだった。
意地悪な人は意地悪な顔つきを、優しい人は優しい顔つきをしているものだが……この子は、顔に似合わない言動をする。
本心が見えない。
「それで、どうだ。レオのためにどうするべきか、考えたか?」
「……考えたよ。君に言われるまでもなく、ずっと考え続けてきた。ずっと、悩み続けてきたんだから」
目の前の彼は黙っている。感情を消した顔で、まっすぐに私を見つめている。
それはまるで、「それで?」とでも言いたげな表情だった。
「三年間だけ……」
「え?」
「三年間だけ、そばにいることを許して――そう、レオくんに言われた」
彼は黙ったままだ。唯一、眉間に皺が刻まれた。
「だから、この学校にいる間だけ。その有限の時間を、二人で過ごさせてほしい。別れる瞬間に、『楽しかったね』って言える未来にしたいの。後悔しないように」
「それ……レオが言ったのか?」
「そうだよ」
「目を見て?」
「そう」
「ふうん……」
ついと逸らされる視線。何もないところを彷徨い、やがてそれは帰ってきた。
「それで、お前もその茶番に付き合おうって?」
「そうだけど」
「期限付きの恋人? 最初から終わりがわかっている関係? ――冗談にも程がある」
「不本意ながら、その意見には同意する。だけど、それでも自分の気持ちに、嘘は吐けなかった」
「へえ……あっそ。やっぱり馬鹿だったか」
嘲笑を向けられて、目を細める。そのまま睨むように見つめていると、彼は途端に真剣な顔つきをした。
「レオが、三年後――もう二年半だな――その時を迎えて、潔く別れると思うか?」
「……わからない」
「わからない? 嘘だ。わかってるんだろ? 気付いてるんだろ? じゃなきゃ、そんな答えは出ない。レオのことを素直に信じるなら、そこは肯定するところだ。だけど、お前は濁した。だったら、お前は気付いてるんだ。そうだろ?」
彼の嘘。昏い光を宿した瞳――それらの片鱗を思うと、わからなかった。
信じたいと思う反面、どうにかしようと足掻くのではないか――そんな様子さえ、想像できてしまう。
私は、この子に言い返す言葉がなかった。
「だんまりか……まあいいや。それで? お前はそれで良いのか?」
「良いって、何が?」
「さっき言ったこと。レオの卒業と同時に別れるって話。期限付きの恋人。三年間べったりの人間が、あっさりと学校に来なくなるんだ。お前はまたひとりぼっち。孤独感は更に増して、お前を苛む」
まるで、舞台上の俳優だ。もったいぶった話し方で、私の神経を逆なでしてくる。
その様子にムッとしていると、余裕さえ称えていた表情が、鋭いものに変わった。
「――それで良いのかって、聞いてんだよ」
いつもより低い声や態度に、私よりも背が低いはずの彼が、大きく見えた。気圧され、萎縮する。
「わ、私がどう思おうと、関係ないでしょ」
なんとかそれだけを返すと、がっかりしたと言わんばかりに、あからさまな溜息を吐かれた。
「あのさ、僕を言い負かすくらいのこと、してみせたらどうなの? 前だって、即答できなかったくせに……。僕に好き勝手言われて、何とも思わないわけ?」
呆れたと書いてある顔に、言いたいことが生まれては絡み合う。上手く言葉にできなくて、もつれて、喉元で引っかかっていた。
「まあ、それが答えってことだよね。真剣に考えてない。目の前のことだけしか見えてない。所詮はそういうことだ」
チャイムが鳴り響く。予鈴だ。どうやら、彼との会話もリミットがきたらしい。
「時間だね。じゃあ、優等生の僕はもう行くけど、また来るから。その時までに、少しはマシな考えでも用意しておいてよ。それでもくだらない答えを出すなら、いくらレオが言ったことでも、三年なんて待たずに別れさせるから」
「それだけは、絶対にさせない。私は、誰かの言葉に流されるような気持ちで付き合ってないから」
「だったら、はぐらかさないで僕を納得させてみせてよ。僕はレオの目を覚まさせようとしてる。だけどそれが間違ってるっていうなら、ちゃんとお前の言葉で立ち塞がって。立ち向かってきて。次、逃げようとしたら二度と話は聞かないから」
言って、くるりと踵を返す美少年。私はその背に、声を掛けた。
「そうだ。名前、教えてよ。君だけ知っているなんて、不公平でしょ」
「……じゃあ、リュウ」
「じゃあって何よ。名前を聞いたんだけど」
「名前だよ。嘘は吐いてない。レオもそう呼ぶ」
「あっそ」
名前の一部ってところかな?
「リュウ。私、行動する。それで、ちゃんと言葉にしてみせる」
「やれるもんならどうぞ。期待はしてないよ」
後ろ手を振って、今度こそリュウは校舎へ姿を消した。
行動する――それは、彼に言われたからじゃない。そうしようと、決めていたことだ。
「レオくんなら、きっと協力してくれるよね」
上空を振り仰ぐ。薄らと、雲が空を覆い始めていた。
◆◆◆
色づく葉が、風に揺れる。オレンジがかった赤色の葉を見ながら、いつもの枝の上。私は、文化祭のことを思い出していた。
過ぎ去って、もう一週間。だというのに、未だにどうしてか気に掛かる。それが何故なのかは、わからない。不思議と気になって、気付けばいつも思い出している。
文化祭の印象は変わった。ただの学校の行事だと思っていたものが、彼と一緒にいることで楽しいものだと感じた。だけれどそれだけで、こんなに気掛かりにはならない。
そう……文化祭というよりは、思い出すのは決まってあの劇だ。演劇部のものも良かったけれど、そうじゃない。あの、雪白姫――
よく見る話ではなく、原作を調べ上げて書かれたであろうあの話は、黒いのは髪ではなく瞳となっていた。主役は、ブロンドのウイッグをつけていたのだ。
その話もどこかで聞いたような、既視感があって――あの、何度も殺されかけているのにそれを受け入れる……そんな状況に、私は記憶にかかる靄があと少しでクリアになりそうな、そんな――
「さくらさん、お待たせ」
「……もうそんな時間? じゃあ行こうか」
呼ばれて思考を中断した。テスト前ということもあり、私たちはまた図書室へと向かう。
彼は、冬服の上着を片手に持っていた。まだ暑いだろうが、衣替えの時期だ。朝は少し冷えるし、ベストやセーターを着ている子も最近増えた。
「文化祭が終わったばっかりなのにテストって、ありえない」
文句を言いつつも、こうやって真面目に取り組むあたり、性格が出ていると思う。いつものように、静かな席でノートと問題集を広げている彼の近くで、そんな様子をただただ眺めながら、時折出る質問に二人でああでもない、こうでもないと頭を捻るのだ。
「あー、ちょっと休憩」
んーと伸びをして、立ち上がる。ずっと座っていたので、体を動かすのだろう。そんな様子を横目に、私は考えていたことを口にした。
「あ、のさ……お願いがあるんだけど」
「え? 何? さくらさんからお願い事なんて、珍しい」
尻尾があったら、きっとブンブンと振られているに違いない。まったく、そう嬉々として聞かないでほしいものなのだが……私は、閉じかけた口を開いた。
「手伝ってほしいの……過去を、調べたくて」
「え?」
思ってもいなかったのだろう。打って変わった表情が、素っ頓狂な声を出していた。
「現状を、変えたくて」
「げん、じょう? どうしてまた、急に……」
「急じゃないよ」
十年前も、どうにかできないか探った。その時は諦めたけれど、夏休みも、台風の時も、ここから出られたらって考えた。そして文化祭――既視感の拭えない感情が、心に芽生えた。
記憶が戻ったら、後悔するだろうか。でも、そこに鍵があるような気がしてならない。
「自分のことを、知りたいと思う……それと、君にも、もっと私を知ってほしいと、思うから」
「さくらさん……」
彼は、どこか考えるような素振りを見せたかと思うと、真剣な顔でまっすぐ私の目を見つめた。
「記憶を失くすって、経験ないからわからないけど、きっと地に足がつかないような不安があるんじゃないかと思う。でも、失ってしまうくらいの何かがあったのかもしれないよ。覚えていることが苦痛で、忘れることで自分を守っているのかもしれない……どんな記憶が待っているかわからないよ。それでも後悔しない?」
「怖いよ。このままの方が、幸せかもしれない。知らない方がいいこともあるだろうけどさ、後悔するかもしれなくてもさ、それでも立ち止まっている方が、何もしない方が、後悔すると思ったから。君と出逢わなかったら、ただの置いていかれた幽霊のままだった。だけど、今は違う。知りたい。もう足元だけを見つめるのは、やめたいの。未来もないから見据えられない。過去もないから振り返ることもできない。そんな今を、ただただ見つめ続けることを、私は変えたい」
「さくらさん……」
言葉を失った彼の瞳を、ただただ見つめる。ねえ、その迷いに揺れる色は何? 今、何を考えているの? 何を映しているの? 目が、合わないよ……。
「わかった。さくらさんの願い、一緒に叶えよう」
「……うん。ありがとう」
私は言えなかった。ただ、心の中で呟いた。どうして、わかったなんて嘘を吐いたの? ――と。
この時聞いていたら、どうなっていたのだろう。そう遠くない未来で、私は思うのだった。
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