第6話 瞬きの9月
カレンダーを一枚捲っても、どうやら空は青くて、雲は白いままらしい。日差しは、ジリジリと肌を狙い澄まし、頭上からとアスファルトを反射してと、いろいろな方向から攻めてくる。風が吹けば涼しいのだけれども、袖が長くなるのは、まだまだ先のようだった。
新学期が始まって、生徒たちもだいぶと夏休みから調子を取り戻している。試験もなく、穏やかな日常を過ごしているようだった。
今日は天気がいいが、そのうちに雨が多くなるのだろう。そして、台風が来る。そうして秋になって、いつの間にか寒くなっていくのだ。
幽体である私は、気温に左右されたりはしない。だけれど、それでも生きていた頃の感覚が残っているのか、夏は苦手だ。寒いのは耐えられるけれど、暑さは我慢ができない。だからこの時期には、いつも季節が巡るのが嬉しかった――はずなのに。
どうして、こう物悲しい気持ちになるのだろうか。夏が、彼の生まれた季節だからだろうか。余韻に浸りたい思い出が、できたからだろうか。それとも――
そこまで考えて、頭を左右に振った。思考のもやもやを、霧散させるように。
「お、やってるやってる」
グラウンドでは、体育の授業が行われていた。彼は、プールの授業が終わってしまい残念がっていたが、そもそも体を動かすのは好きなのだろう。視線の先には、楽しそうにしている笑顔があった。
と、こちらに気付き、彼がこっそり手を振ってきた。これだけで嬉しくなるのだから、私も相当だなと思う。仕方がないからと手を振り返すと、笑顔をより深くしていた。
ああ……あの人、私の彼氏なんだ……。そう思うだけで、ふっと胸に温かなものが広がった。
それにしても、今日もいい天気だ。これは、まだまだ放課後は、図書室に入り浸ることになりそうだな。
しかしその時間は、だんだんと減っていくことになった。
「さくらさん、ごめん」
「良いよ、君のせいじゃないんだから。気にしないで。それより、しっかり頑張ってね」
「ありがとう」
というのも、来月の初めにある文化祭に向けての準備が、どんどん本格化してきていたのだ。もちろん放課後も準備があるため、私のところへ来られるのは、ほんの少しの時間となっていた。
「教室、戻らなくて良いの?」
「今日は大丈夫。軽い打ち合わせだけで、もう終わったから」
「そうなんだ。じゃあ、図書室行く? 暑くない?」
「平気。今日は雲も多いし、風が吹いて涼しいよ」
「そっか。無理はしないでね」
「わかってる。ありがとう、さくらさん」
久々にする、桜の木の下での会話。誰にも邪魔されない時間って、やっぱりいいな……。
「文化祭は、お化け屋敷するんだっけ?」
「そう。小道具作ったり、衣装作ったりしてるんだ」
「当日は?」
「……入り口で、呼び込み」
先程とは打って変わった声音での返答に、不服さが窺える。なるほど。これは、違うことがやりたかったのかな? 断れなかったというやつか。
「聞いてよ、さくらさん。クラスのやつら、女子いっぱい釣ってこいとか言いやがったんだよ?」
クラスの男子の顔でも思い浮かべているのだろう。唇を尖らせる不満げな顔に、クスリと思わず笑ってしまった。
「あ、今笑った」
「ごめんごめん」
「もう……そりゃあさ、あいつらもノリで言ってるって、わかってるんだけど……」
「やりたくない?」
「いや……決まったからには、頑張る……」
「そっか。嫌々でもそう決めたなら、頑張って。応援しているね」
「うん……」
良かった。少しは、機嫌直ったみたい。
「まあ、出来が良ければ、勝手に口コミで広まるよ。あそこのお化け屋敷、すっごく怖かったーって。イケメンにも会えるとか、言われるんじゃない? 女の子に、いっぱいチヤホヤされちゃうね」
「えー? 俺は、さくらさんしかいらないよ」
後ろ頭をがしがしと掻きながらそう言った彼に、私は戸惑う。本当にこの子は、ストレートなんだから……。
「さくらさんは、俺が他の女の子といるの、嫌じゃないの?」
「そりゃあ、まあ……距離が近かったら、気になるけど……」
「気になるだけ?」
「え?」
彼の瞳が、じっと私を見つめている。まるで、穴が開きそうだ。
「俺は、嫌だよ」
「え――」
彼の両手が、すっと伸びてくる。私の頬を包むように、添えられた。
「俺は、さくらさんが他の男と話すだけでも、嫌だ」
「そんな、大袈裟な……」
「そんなことないよ。本当だよ。俺、さくらさんが他の誰にも見られなくて良かったって思ってる。生きていたら、閉じ込めていたかもしれない」
「ま、またまた……」
あははと笑ってみせるも、彼は真剣な瞳を崩さない。唇に、そっと微笑みが乗せられているくらいだった。
「好きすぎて、ごめんね」
今度は、にこりと笑ってそんなことを言い出す彼。この子は、本当に……。
「不安がらなくてもちゃんと好きだから、安心して。どうせ、君以外とは喋ることもできないし」
「不安……?」
「違った? 私が素直じゃないから、不安にさせちゃったのかと思って。大丈夫。私、これでも結構、君のこと好きだよ」
「本当に?」
「本当本当。君より、私の好きの方が大きいんじゃない?」
「待って。それは、聞き捨てならない。絶対に俺の方が好きだから。さくらさんの百倍好きだから」
百倍って……。
「じゃあ、私は千倍好き」
「俺は一億倍!」
「ちょっと、一億倍って何?」
「一億倍は、一億倍」
「いやいや、おかしいでしょ」
私たちは、笑いながら話していた。先程までの空気は、もうなかった。
「そういえばさ、本当はお化け屋敷で何がしたかったの?」
「お化け役。お化け役がやりたかったんだよね」
「そうなの?」
「だって、楽しそうじゃない?」
今の彼の様子を表すとしたら、子どものような無邪気さ。そんな笑顔に、私は割と弱い。
心揺らされることが、何だか癪で。気取られぬように、私はいつものすまし顔で流すのだった。
「そうだ。文化祭の日も、ここで待っててね」
「え?」
「俺は、二日とも朝一のシフトなんだ。終わったら迎えに来るから、一緒に回ろう」
文化祭、一緒に回れるんだ……だったら――
「私が迎えに行く。君が仕事をしているところも、見たいし」
「え、本当? やった!」
ガッツポーズをする彼に、首を傾げる。
「今の、そんなに喜ぶところ?」
「何言ってるんだよ、当たり前でしょ。愛想振りまいてるところを見られるのは恥ずかしいけど、デートの時にさくらさんから迎えに来てくれるのって初めてだから、嬉しい。だって、文化祭を俺と回りたいって思ってくれてるってことでしょ?」
何を言っているんだかと思う反面、本当に頭の回転が早い人だと感心さえする。
「はいはい。そういうことにしておいて」
「え? 違うの?」
「どうだろうねー」
「さくらさーん?」
「こ、こら、近いって」
ジリジリと迫ってくる彼から逃げる。ここ最近、距離感が更に近くなった彼から、私は擦り抜けることを覚えたのだった。
「さくらさん、ズルい!」
「君がズルいー!」
「だったら……」
桜の木の枝の上にいる私を目掛けて、木に足をかけようとする彼。
「ちょっと、何をしているの?」
「木登り」
「はあ? 木登りって……したことあるの?」
「ないよ」
おいおい。
「ないなら、危ないから止めなよ。制服は、動きにくいんだし」
「じゃあ、さくらさんがこっちへ来て」
「う……」
私が動かずにいるのを見て、再び彼が動き出した。
「わかったわかった。行くから!」
その言葉に満足したのか、嫌味なほどに爽やかな笑顔でこちらを見て、足を地に着けた。そして、両腕を広げてみせる。
「その手は、何かな?」
「何って……おいで、さくらさん」
「っ……」
おいでって、おいでって……! 割と、いい笑顔と声で言いやがった!
あれ今の、ワザとじゃないの? 自分がどういう風にやれば相手がときめくかを、わかっていてやっているのではないだろうか。
そして、嬉しくなっている自分って……。本当。単純なんだから……。
「くそう……」
呟きが聞こえたのか、彼の笑みが深くなった。
「ほら、おいで」
「ん……」
私は癪だったけれど、彼の腕を目掛けていった。だって、本当はそうしたかったから。
抱き締めてもらうことはできないけれど、真似事にすぎないけれど、それでも結構ドキドキした。だって、視界いっぱいに彼がいるのだもの。私は今、好きな人の匂いに抱き締められている。
熱くなった顔を見られたくなくて、より彼の胸に頭を埋めた。それでも、彼の表情が見たくなってチラと盗み見る。するとそこには、真っ赤になってあらぬ方を向いている彼がいたものだから、思わずじっと見つめてしまった。
「あ……」
目が合って、より顔が熱くなる。火でも噴いたんじゃなかろうか。
思わず、目を逸らしてしまう。ヤバい、そろそろ離れないと。
そう思うのだけれど、硬直してしまった体は動かない。
「さくらさん……」
「っ……!」
囁かれて、肩が跳ねる。耳へとダイレクトに届いているような錯覚に、息が止まりそうだ。
「もうちょっと、このままでいさせて……」
吐息混じりの懇願に私は声も出せず、ただただ頷くことしかできなかった。
◆◆◆
「台風でも、来たのかな?」
とある、何でもない日。空は、灰色のスクリーンと化していた。昨夜から風が強く、雨も降っている。私は、桜の木から離れて校舎内にいた。
今日は、平日のはずだ。しかし、生徒たちが登校してくる気配はまったくない。どうやら、警報でも出ているのだろう。今日は、休みに違いない。
彼に会えないのは残念だけれど、こんな天気の中を自転車で登校などしてきたらと思うと、危なくて心配で仕方がない。だから、休みになって良かったというものだ。
そんなことを考えていると、激しい風雨の音に混じって、彼の声が聞こえた気がした。
「いやいや、そんなはず……」
ついに、幻聴まで聞こえるようになってしまったのだろうか――私が頭を抱えようとした、その時だった。
「さくらさん!」
「なっ!」
目が、これでもかと見開いた。門の向こうに、人影がある。まさかと思い、校舎の壁を擦り抜けて門へ近付くと、そこにはカッパを着た彼がいた。
「さくらさ――」
「何をやっているの!」
気が付いた時には、彼の声を遮って怒鳴っていた。自分でもこんな声が出るのかと、驚いた。頭の隅で冷静な私が、まるで諦観するかのように見つめている。さすがの彼も、驚いていた。
「さくらさん……」
「ご、ごめん……でも! どうして、こんな日に学校へ来ているの!」
「どうしても、さくらさんが気になって……大丈夫かなって思ったら、いてもたってもいられなくて……」
しゅんと落ち込む彼に、言葉が詰まりそうになる。けれど、ぶんぶんと頭を左右に振った。それでもだ。
「君に……レオくんに何かあったら、どうするの? こんな中を、自転車でなんて……。ここに来る途中で、何かが飛んでくるかもしれない。車に轢かれるかもしれない……そんなことになったら、どうするの……」
そこまで言って、唇を噛む。言いながら、想像してしまった。そんなの、耐えられない。吐きそうだ。
「車――そ、そうだよね……」
「レオくん?」
今更ながら、彼も想像して怖くなったのだろうか。それとも、この激しい風雨の中、体が冷えたのだろうか――大きな手が、小刻みに震えていた。
「ねえ、大丈夫? 震えているよ?」
「ああ、うん。ごめんなさい……自分のことなんて、全然考えてなかった。さくらさんのことで、頭がいっぱいで、無事なのかなって……そうだよね。校舎の中にいれば、安全なのに……全然、頭回ってなかった……」
私のことを、そんなに考えてくれているなんて――本当にこの人は、私を人間扱いする。幽霊なのだから、台風でどうこうなどと心配する必要なんて、まったくないのに。
自分のことよりも大事に、大切にしようとしてくれる。それは、確かに嬉しいことなのだけれど、それでも。
「ありがとう……だけど、君が元気じゃないと、私は嫌だよ。自分のことも、大切にしてほしい」
「さくらさん……うん、わかった。さくらさんのために、自分を大切にするよ」
「私のため?」
「うん。さくらさんが本気で怒ってくれたの、こんなこと言ったらまた怒られそうだけどさ、嬉しかったんだ。怒ることってさ、すごく体力使うし、しんどいでしょ? 俺、家族以外に怒られたことってないし、怒ったこともない。めんどくさいって思って、やめたりする。だから、本当に俺のことを思ってくれての言葉なんだって思うと、そんなさくらさんのことを悲しませたくないから……だから、さくらさんのために、自分のことも考えるようにする」
ああ――彼は、この年でそんなことを言えるくらい、人間ができているのか。
私は、怒られたら反発してしまう。そんな風には、受け取れない。
「それに、そこまで俺のことを想ってくれてるなんて、俺は愛されてるなって思うから」
「なっ……!」
かあっと、頭に熱が集まる。
「も、もう! 変なことを言ってないで! ほら、また雨が強くなってきているし、君は家に帰る!」
「わかった。気を付けてね、さくらさん」
「気を付けるのは、君の方!」
「はーい」
自転車に跨って、彼はこちらを振り返った。
「また、明日ね」
「うん、明日。……本当に、気を付けてね」
「うん」
ゆっくりと自転車を漕いでいく後ろ姿を見送る。その背が見えなくなっても、私はずっとそこで見続けていた。
何事も、ありませんように――そう、ただ祈ることしかできない自分が、歯痒かった。
ここから出られないことが、悔しかった。
そして次の日――彼は、学校に現れなかった。
◆◆◆
翌日、空は晴れ、風も穏やかな中。生徒たちは、いつものように登校してきていた。
しかし、どれだけ待っても彼の姿だけが見当たらなくて。私の心だけが、台風のように落ち着かず、騒めいていた。
彼を見逃したという可能性は、まあ、あるかもしれない。けれど、いつも欠かさず私のところへ来ていた彼が、今日に限って来ないなんて、そんなことがあるのだろうか。
昨日の今日なだけに、まさかという思いが過る。帰りに、何かあったのかもしれない――もしそうなら、どうしよう。いや、どうもできないのだけれど……。だけど、そう思わずにはいられない。
私は、確かめることもできない。思いを巡らせることしかできない。ここから出られないせいで、そばに行くこともできない。
「どうしよう……本当に、何かあったのだとしたら……そんなことになったら……」
もう二度と、会えないかもしれない。だって、私だってこうして鳥籠の中。どうなるかなんて、わからない。そもそも、そんな想像――恐ろしすぎて、どうにかなってしまいそうだ。
「……気持ち悪い」
私は、木の幹に体を預けて目を閉じた。くらくらする頭で、やけに晴れ渡った空を見上げる。
どうか、どうか神様。いるのならば、お願いです。彼を、奪わないで。私と違って、未来ある人でしょう? 悪戯なんてしないで。そんな運命、絶対に許さないから。
「お願い……」
両手を握り締めて、願う。あんないい子が、幸せにならなくてどうするというのか。
「お願い、します……」
願い、祈りながらも、もしもが頭の中でぐるぐる回る。私を襲って、苦しめる。
それは一日中、私を苛み続けた。
「え、と……」
なので、更にその翌日。私は、頬を膨らませることになった。
「ごめん……」
「……」
私の目の前には、マスクをした彼の姿。彼は、あの台風の中で外に出たことが原因で、風邪をひいたのだった。
イケメンが、マスクで更にイケメン度割り増し……しかも、ちょっと弱った顔が――じゃなくて!
「無茶をした挙句、風邪をひいて……君はバカだよ」
「ごめん……」
「本当にバカ…………良かった。怪我とか、してなくて……君に、何かあったんじゃないかって……私……ふっ、うう……」
「泣かないで……」
「誰のせいよ……」
「ごめん……」
本当に良かった。ずっと怖かった。彼が、こちら側に来るようなことがあったら、どうしようかと思った。
そうなったら、もう二度と会えないかもしれない。彼も言っていたが、それは怖いことだった。
「さくらさん、心配させてごめん……ありがとう」
「もう、無茶しない?」
「うん。約束する」
生きていたら、ケータイなりなんなり、すぐに連絡を取って済んでいたようなことが、できない。そのことが、こんなにも悔しいだなんて思わなかった。ここから出られないことが辛いだなんて、こんなにも感じたことはない。
「風邪は平気?」
「うん。熱は下がったし、たまに咳が出るくらいだから、大丈夫」
「それなら良かった……ごめん。君だって辛かったのに、拗ねたりして」
「さくらさん……」
彼が、私を抱き締める真似をする。
「会えなくて、寂しかった。それに、きっと心配させてるって思ったら、風邪ひいてることよりも、苦しいなって思った……歯痒いね、俺たち」
「うん……」
この状況は、本当にどうにもできないのだろうか。私は、このままで本当に良いのだろうか。
彼の腕の中、私はただただ目を閉じた。
頭の中で考えていることが、後の私を苦しめることになるなんて、思いもしないで。
◆◆◆
「お前が、さくら?」
「…………どちら様ですか?」
彼が教室へと向かったその後で、見知らぬ子に声を掛けられた。
さらりとした烏の濡れ羽色の髪に、雪のように白い肌。私よりも低い背に、大きな瞳。顔は、とても小さい。まるで、人形のように可愛らしい子だ。
一見すると美少女であるその子は、しかし、男子用の制服を着ていた。
なんと可愛い男の子だろうか。その辺の女子よりも可愛いではないか。
声も、容姿に似たあどけなさを残す、高いもの。どうやら、声変わりがまだらしい。
一年生かな? 彼の知り合いだろうか?
「ふん……思ったより、芋っぽいな」
「――はい?」
この子、今何て言った? 芋? 失礼な!
「聞こえなかったの? 間抜けな声出して……垢抜けてない。田舎っぽい。ダサいって言ったんだけど」
「ちょっ……ダサいも何も、見ての通り制服姿ですし? というか、何で見ず知らずの君に、そこまで言われないとならないわけ?」
顔に似合わず、言葉が悪い。表情も人を小馬鹿にしたようなそれで、見ていてイライラした。
「だから、その制服を基本通り真面目に着てるのが、ダサいんだって。おばさん」
「お、おば……!」
な、何? 何なのこの子! 初対面で、失礼な。
そういえば、いきなり呼び捨てにされていた気がする! しかも、お前って言っていた。
声を掛けられたという事実に驚き、思わず聞き流してしまっていたけれど……諸々併せて、ムカつく!
「――って、そんなことよりも……君、私が見えているの?」
「今更。ってか、それって確認しないといけないわけ?」
「む……」
いちいち鼻につく。私は、先程から終始半眼だった。
「見えてるし、声も聞こえてるよ、先輩。じゃなきゃ、会話成立しないでしょ」
「そうだけど……でも……」
「でも、何? 今までは、たとえ見えていても、誰もが見えないフリして、声掛けてこなかったのに――って?」
「そうよ。いきなり、何なの? それに、どうして私の名前を知っているの?」
「さあね。気が向いただけ。気紛れだよ」
「気紛れ?」
その気紛れで、私は暴言を浴びせられているってこと?
何でよ! というか、全然答えになっていないのだけど?
「……ムカつくから。僕、お前のこと嫌い。大っ嫌い」
「はあ? 何、いきなり……どうして、私がそんなことを言われないといけないの? 私が君に、何をしたっていうのよ」
「直接は何もされてない。だけど、そんなこと関係ない。だって、お前が死んでいるのが悪いんだから」
「――え?」
私は混乱する。私の死が、どうして悪いって言うの?
しかし、何も言えなかった。向けられる視線で射竦められてしまったかのように、動けない。
これが、憎悪か――その言葉がしっくりくるほどに、彼の視線は仄暗い炎のようだった。
「お前は死んだ。なのに、未だここにいる。……何でなんだよ! お前が、死んだくせにこんなところにいるから! だから、レオはお前に囚われたままなんだ!」
レオ……それって、彼のことだよね? この子、やっぱりレオくんの知り合い? だから、私の名前も知っているの?
もしかして――
「君も、レオくんのことが好きなの?」
「――は、はあ?」
私の問いに、途端声が裏返る美少年。みるみるうちに、その顔は真っ赤に染まった。先程までの迫力は、微塵も残っていない。
「もって、何だよ。もって! お前と一緒にするな!」
「……それって、私が想う気持ちよりも、君の方がレオくんのことを好きってこと? じゃあ、図星だったんだ。私がレオくんと付き合っているのが気にくわないとか、そういう話?」
「はあ? おっまえ! ふざけんなよ! 何言ってんだ! 僕とレオは、小学三年生の時からの幼なじみだ! 僕は、レオの保護者なんだからな!」
幼なじみなのに、保護者なの?
「えっと、とりあえず、友達ってことだよね」
「そんな生温いものか。僕たちは、親友だ」
「そう……」
とにかく、友達ということか。
「えっと、だから好きなんだよね? レオくんのこと」
だから、私のことを敵視していると。そういうことか。
「大丈夫。レオくんなら、同性だからって引かないでいてくれるよ。……たぶん」
「たぶんって何だよ。取ってつけたように言うな。ってか、大丈夫って何だ。僕は親友として、保護者として、レオのことが心配なだけだ。ややこしい方に話を持っていこうとするな!」
「え? 恋愛感情的な意味で好きだから、彼女の私が嫌いなんじゃないの?」
「お前……人の話をちゃんと聞いてたか? 芋な上に、馬鹿なのか?」
「馬鹿……あのさ、あんまり調子に乗っていると、いくら温厚な私でも怒るよ?」
「は? 調子乗ってんのは、お前だろうが。幽霊のくせに、何が彼女だ。レオは、生きた人間なんだよ。幽霊と人間がまっとうな恋愛なんてできるか。さっさと成仏しやがれ」
再び真剣な顔つきになる、目の前の美少年。その瞳は鋭くて、ただの暴言でないことが窺えた。
「……できるなら、とっくにやっている。好きで、十年もこんなところにいない」
ムッとして、睨み返す。そのまましばらく睨み合っていたが、やがて彼の視線がついと逸れた。
「そうかよ。だけどな、お前の事情なんか僕は知らない。知ったことか。それよりも、このままだとレオは不幸になる。僕は、それだけは見過ごせない。それだけは、許せない」
「どうして、不幸になるなんて……」
「どうして? じゃあ、逆に聞いてやろうか? お前は、どうしてこのままいけば、レオが幸せになれるなんて思えるんだ?」
「それは……」
私は、思わず口ごもる。目の前の彼が、片目を眇めた。腕を組んで、斜に構える。
「心当たりがあるから答えられないんだろ? 即答できないやつに、レオは渡せない。僕が、レオの目を覚まさせる。絶対に、別れさせてやる。つか、別れろ」
「嫌」
「レオのことが大事なら、別れるべきだ」
「絶対に嫌」
「別れろよ」
「嫌ったら嫌」
「強情だな」
「君に言われたくない」
互いに睨み合う。口火を切ったのは、私だった。
「ねえ」
「何だよ」
「授業、行かなくて良いの?」
鳴り響くのは、チャイム。このままでは、遅れてしまうのではないだろうか。
「――っ……仕方ない。僕は真面目だから行くけど、また来るからな! 絶対に別れさせてやる!」
そんな捨て台詞を吐いて、彼は校舎へと走っていった。
「もう来なくて良いんだけどな……」
そううんざりしながら、私は小さな背を見送る。名も知らない彼に言われた言葉が、目の前をちらついていた。
「このままだと、彼が不幸になる――か」
私は、とすりと桜の木に背を預けた。台風の日のことが、脳裏を掠める。あんな風に無茶を続ければ、いつかは――
そこまで思考して、頭をぶんぶんと横に振った。
「大丈夫。彼は約束してくれた。だから、大丈夫……」
自身へ言い聞かせるように、何度も繰り返した。まるで、何かの呪文のように。
「あ、名前を聞いていない」
これでは、彼に確認しづらい。いや、あれだけの美少年だ。容姿でわかるだろう。
「いや、それよりも……もしかしたら、怒るかな?」
敵視されているとはいえ、男の子だ。彼の友達らしいが、自分以外の人と、それも男の子と会話したと知れたら、機嫌を損ねるかもしれない。
「いや、まさかそこまで……でも……」
独占欲というか、嫉妬というか。少し、可愛いというレベルを超えている彼。あの美少年の言動も、不穏なものだ。まず、私自身が戸惑いと混乱の渦中にいる。心配の種は、これ以上増やしたくない。そのため、少し様子を見た方が良いかもしれない。
「あーあ、もう……いったい何なのよ……」
泣いて、笑って、怒って……本当に、忙しい日々だ。
「悔しいな……」
楽しいのに、悔しい。
彼と出会って、感情を取り戻したかのように、景色に色が咲いた。だからこそ、悔しい。
「レオくん……私たち、幸せだよね?」
即答したかった。胸を張って言いたかった。私たちは、幸せだって。
だけど、できなかった。どうしてか、言えなかった。
「幸せって、何? どうなったら、幸せ?」
私は、幸せだよ。だけど、レオくんは幸せ?
一緒だと思っていたけれど、本当にそうなの? 彼の言うとおり、このままだと不幸になるの?
「痛いなあ……」
あの子から向けられた数々の言葉たちが、ぐさぐさと私に刺さる。わかっているからこそ、尚更受け入れられなかった。
「私からは、別れない……絶対に……」
呟いた声音は、非常に弱々しいもので。それは、あっさりと吹く風に攫われていってしまった。
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