第4話 輝きの7月
期末テストも終わり、夏休みに向けて生徒たちが浮き足立ってきた頃。たった一人、日に日に落ち込んでいく人物が、今まさに隣にいた。ちなみに言っておくと、試験結果が悪かったわけではない。そのため、理由がわからないでいた。
「はあー……」
どちらかというと、通常がにこにこしている方なので、こうあからさまに溜息ばかり吐かれると、気にするなという方が無理な話だったりする。まあ、そのいつもの状態だって、表面上に過ぎないところがあるのだけれど……。
これは、あれかな? 聞いて欲しいというサインだったりするのかな? いや、彼はそういうことをするタイプではない――はずだ。
「そういえば、今日は七夕だね」
先程まで重たい息を吐き出していた口で、突然何を言いだすかと思えば……。
「そうなんだ?」
私の日付の感覚は、正確ではない。曜日は、なんとなく学校の様子でわかるけれど、日にちはこうやって聞いたりしないと、わからないのだ。
「さくらさんは、短冊に願い事を書くとしたら、何て書く?」
「え? もしかして、高校生にもなって、まだそんなことをしているの?」
「我が家は、行事を大切にするんだってさ。こういう文化を、気に入ってるってだけみたいだけど」
「ふうん……」
短冊に書くこと、ねえ……。いったい、この私に何を願えと言うのだろうか――なんて過ったことは、微笑みに隠しておこう。
「そういえば、知っている? 願い事は、書く時に『なりますように』って書くんじゃなくて、『なる』って断言する言葉で書いた方が、叶う可能性が高くなるらしいよ」
なんて、答えにならないことを言ってみる。しかし、彼は気にも留めずに、驚いた顔をした。
「えっ、そうなんだ。知らなかった……。じゃあ、今年はそう書こう」
いったい、何を書くのだろうか。何はともあれ、素直って素晴らしい。
「……まあ結局、誰かに頼っていちゃダメってことだよね」
願いは、勝手に叶ったりなんかしない。
「そうだね……あーでもさ、天気、夕方から崩れるらしいんだよね」
じゃあ、今夜は雨か。だいたいがこの日は、天気に恵まれないイメージだ。ここで、旧暦がどうこうというつもりはないが、現代の織姫と彦星は、ほとほと出会えないらしい。
「雨が降ってもさ、ソラは晴れてるよね」
彼の言うソラが、果たして空なのか、宇宙なのか――そんなどうでもいいことを思考しそうになって、やめた。どちらにせよ、雲の上は晴れている。そういうことだ。
「じゃあ、やっぱり二人は出会えるよね」
そんなロマンチストな言葉も、彼にとっては願望なのだろう。目が、憂いを帯びていた。
「予鈴、鳴ったよ」
「うん。じゃあ、行くね。またね、さくらさん」
ゆっくり、振り返りながら歩いて行く彼。姿が見えなくなって、私も上げていた右手を下ろした。
「七夕か……」
短冊に彼が願いそうなことなんて、容易に想像できてしまった。予鈴を理由に、話を無理矢理切り上げさせてしまったけれど、あのままだったら触れていただろうか? それともこれは、自惚れが過ぎるというものだろうか――
「なーんて。知ったことか」
私たちは、織姫でも彦星でもない。年に一度でも会えるような、同じ時間を生きる者同士ではない。ならば、最初から破綻しているのだ。私たちはこの先、どう足掻いても共に生きていくことなど、できはしないのだから。
それをわかっていても尚、願ってしまうのは何故だろう。離れられないのは、どうしてだろう。
「奇跡なんて、そんなことがあるわけもないのに」
一人、青い空を見上げる。西の空に、雲が広がっていた。予報は、的中するのだろう。それでも、雲の上は晴れている。
今年は彼のおかげで、穏やかに天の川を思い浮かべることができそうだった。
◆◆◆
夏休みまであと数日という、とある日。いつものように桜の木の枝にいると、女子生徒たちの話し声が聞こえてきた。どうやら、体育の授業が終わって、グラウンドから更衣室へ移動中のようだ。別に聞くつもりもなく、いつものようにそのまま腰掛けていたのだが、ある名前が出たことにより、私の耳は一瞬で下方を向いた。
「ねえねえ、黒崎くんの誕生日、もうすぐなんだって!」
「そうなの?」
はしゃぎ気味にそう言った子の隣を歩く女子に、見覚えがあった。四月に廊下で彼に話し掛けてきた、すごく可愛い子だ。
誕生日――そういえば、私は彼の生まれた日を知らない。ふいに、口の中へ鉛の味が広がった。
「誕生日のお祝いしたいなー。でも夏休み中だし、会えたりしないかなー」
「そうだよねー。せめて、皆とでいいから、ワイワイできたらいいのに」
やっぱり、彼はモテているようだ。そんな話を当人は一切しないけれど、わかっていたことなので、今更驚きはしない。それにしても、二人とも可愛い。そのそばに歩いている子は、綺麗な子だ。あんな子たちが近くにいて、どうして見向きもしないなんてことができるのだろう。同様の体験をして、同じ空間にいて、好意を寄せてくれていて、そして実際に触れることができるのに。学校外でだって、会ったりできるのに。私とだとできないことが、たくさんできるのに。それなのに、どうしてそこまで私に――
「でも、きっと当日は、彼女と過ごすに決まってるよね」
女の子のその言葉に、私は思考が止まった。――彼女? 今、そう聞こえた……。どういうこと? 彼女がいる? まさか、そんな……。きっと、何かの間違いだよね……?
「そうだよね……ああー、彼女ってどんな人なんだろうー。羨ましすぎる!」
「年上の美人って聞いたよ」
「私も聞いたー。男子が見たことあるとか言ってたよ。大学生だっけ、確か」
「黒崎くんなら、納得だよね」
彼女たちが校舎内へ入っていったので、会話はそこまでしか聞くことができなかった。追いかけて行けば続きを聞くことはできただろうが、足から根が生えてしまったために、それは叶わなかった。
「はは……彼女?」
やけに詳しい話だった。勘違いや、噂とか、そういう曖昧なものではない。本当なんだ。本当に、彼女ができたんだ。彼に、生きている人間の彼女がいるんだ――
「おかしいな……」
わかっていたことなのに――いつかこんな日が来るだろうと、予想だってできていたのに。覚悟なんて、していたはずなのに。その日が来たら、私はひっそりと彼の前から消えて、そうして遠くからその姿を祝ってあげるつもりでいたのに……それなのに。
すべて、何もかもがつもりになっていたなんて――
今更――突然に突きつけられた現実に、思い知らされる。どうしてこう、リアルは急に牙をむくのだろう。いつだってそうだ。何の前触れもなくやってきては、心をぐちゃぐちゃに掻き乱して、苦しめて。そうして、私を一人置いていってしまう。それだけでなく、時間と仲良く手を繋いで、留まりたい想いを無理矢理に連れていこうとするのだ。私が逆らって立ち止まろうとしても、無情に時は進んで、朝を連れてきてしまう。
ああ、どうしよう。痛い。痛くて、苦しい。胸の奥に、ぽっかりと大きな穴が開いているような。奥底に、真っ黒い重りがのし掛かっているような。そんな倦怠感に、襲われる。
ふいに鼻の頭がつんとして、視界がぼやけた。どうやら、私の涙腺は壊れてしまったらしい。病院にも行けないというのに、どうやったら治せるのか――誰か、教えてはくれないだろうか。
「彼女、できたんだ。いつの間に……だったら、だったらなんで……?」
――変わらず、私のところへ来ていたの?
同情? 自分から言っておいてって、気にしているの? そうやって優しくして、帰ってから彼女と会ったり、電話をしたりしていたの? そんなの……そんなのは、優しさなんかじゃない。
「残酷だよ……」
年上が好きなのかな? 私に、好きって言ったくらいだもんね。大学生か……可愛いのかな。それとも、綺麗な人かな。どこで出会ったのかな。彼なら、逆に声を掛けられそうだな。
見たことある子もいるって言っていたな。友達に紹介でもしたのかな。
誕生日、夏休みなんだ。知らなかった……彼女は、知っているのかな。その人に、祝ってもらうのかな。当日は、二人で過ごすんだろうな。
私は知らないのに――ああ……でも、どうせ私は知っていたところで、何もできない。何もしてあげられない。だったら、教えてもらっていたところで、意味など最初からなかったんだ。夏休みは、ずっと彼女と過ごすのだろうか。
「あ――」
――なんだ、あったじゃないか、サイン。日に日に、落ち込んでいたじゃないか。やっぱりあれは、聞いて欲しいというサインだったのではないだろうか。言い出せなくて、それで出た溜息だったのだろうか。
なのに、私ときたらなんて恥ずかしいのだろう。何様のつもりだったのだろう。彼の溜息が、夏休みに入ると、私とこうして会えなくなることから出たものだろうと思い込んでいたなんて。なんて、自惚れ――
「バカだ、私……」
呆れるほどに恥ずかしくて、情けなくて。今更ながらにした後悔が、頭の中を蹂躙する。気付いていながら、ゴミ箱に押しやって、蓋をしていた想いが、暴れて泣いている。フラッシュバックのように、鮮明に次々と蘇る二人の時間。笑顔と思い出。
もっと、素直になれば良かったの? あの時、ああしていたら? ――なんて、もう戻れない。
二度と告げることのなくなった二文字が、喉元から擦り抜けようとする。
もう嫌だ……やめて。暴れないで、泣かないで、消えないで。ごめんね、私の気持ち。無視をしたから、閉じ込めたから、怒っているのでしょう?
「うう……ああ……っ」
私は、ただただ声を上げて、子どものように手を、制服をぐしょぐしょに染め上げた。黙って照りつける太陽は、そんな水分を気化してなどくれなかったけれど。
◆◆◆
「あれ?」
夕方になり、放課後のいつもの時間になった。私は彼に会いたくなくて、咄嗟に隠れてしまう。そっと覗き見た彼は、私がいつもいる場所で、きょろきょろと私を捜していた。
「さくらさん? いないの?」
どうして、私のところへ来るの? もう、その必要なんてないでしょう?
「さくらさん?」
どうして捜すの? そんな困ったような顔をして。
「さくらさーん」
どうして呼ぶの? そんな焦ったような声を出して。
「さくらさん……」
どうして? どうして、そんな泣きそうな顔をしているの?
「……よし」
顔つきが変わったかと思えば、彼は駆け出した。何かを捜すように、きょろきょろと辺りを見回しながら。
どうしよう。私は、学校から出られない。移動しなければ、いつか見つかってしまう。それは困る。ダメだ。だって、あの声に、瞳に、現実を突きつけられてしまったら、もう終わりだ。そんなこと、想像だってしたくない。だって、その瞬間、きっと私は壊れてしまう――
今はダメだ。待ってほしい。私に覚悟ができるまで。心の整理がつくまでは。それでも、本当は聞きたくなどない。だからもう、このまま会わなければいい。逃げて、逃げて、逃げ続けて……。そうしたら、いつか彼も諦めるだろう……諦め、られるのだろう。
だって彼には、そこまでして私を捜す理由などないのだから。だから、そのうち諦めて帰るだろう。そう、思っていたのに――
「はあ……はあっ……」
長針は、何周したのだろうか。すっかり生徒の姿がなくなった学校内に、彼の姿があった。こんな時間に残っているのは、大人くらいだ。いつもなら、とっくに帰っている時間なのに。それだというのに、どうしてそうしないの?
「っ……さくらさん……どこにいるの?」
甘やかな優しい声は、すっかり枯れてしまっていた。
「ねえ、さくらさん。どこかにいるんでしょ?」
整った綺麗な顔は、疲労に染まっていた。
「さくらさん……どうして? 俺、何かしたのかな? 怒ってるの? もしそうなら、ごめん。謝るから、出てきて。……理由がわからなくて、ごめん。だけど、謝るチャンスももらえないのかな?」
サラサラの髪は持ち主によって掻き毟られ、ぐちゃぐちゃになっていた。
「さくらさん……もう、会えないの? まさか、消えちゃったの? ――そんなことないよね。そんなの俺、嫌だよ……絶対、嫌だよ……」
大きな背中は、小さく震えて見えた。
「なんで……?」
今すぐ飛んで行って抱き締めたいほどに、その存在は愛おしかった。彼の方こそ、今すぐにどこかへ消えてしまいそうだった。苦しいまでの感情が、胸の内で暴れている。
私は、いったい何をやっているのだろう。こんなの、誰を残酷だというのだろうか。止まったはずの涙が、また頬を伝っていく。あんな姿にさせたかったわけでも、見たかったわけでもない。
もう、傷付いたっていい。何を言われても、構わない。私は、すべてを受け入れ、許すだろう。それほどに私は、彼のことが――
「さくら、さん……」
覆っていた雲が晴れて、月が顔を出した。私は涙を拭って、彼の目の前に立つ。そっと触れた桜の木が、背中を押してくれていた。
「さくらさん! 良かった、また会えた……!」
ああ、なんて顔をしているのだろう。こんなにもぐちゃぐちゃになってしまって、せっかくのイケメンが台無しだ。それでも愛しいと思える私は、既に落ちきってしまっているらしい。
「俺、もう会えないかと思った……良かった。本当に、良かった……」
「ごめんなさい……」
「さくらさん……俺こそ、ごめん」
「謝らないで。君は、何も悪くない。何も悪くないんだよ」
そう……彼は、何も悪くない。最初からわかっていたはずなんだ。なのに、覚悟をしたフリで甘えていた。悪いのは、私だ。弱い私が、悪いのだから……。
「たぶんだけど、そんなことないんだと思う。だってさくらさん、目も鼻も真っ赤だよ。声だって、枯れてるよ。泣くようなことがあったんでしょ? だったらそれは、俺のせいだと思うから。だからごめんね、さくらさん」
優しい声が、私の感情をひたすらに揺さぶる。突き上げて、動かす。
これは怒りか、悲しみか、切なさか――わからない。だけど考えるより早く、私は思いをぶつけるように口を開いていた。
「――っ、どうして! どうして、そうやって君は……目や鼻が真っ赤なのも、声が枯れているのも、何もかも全部君の方なのに……! なのに、なんで? なんでそうやって、私に優しくするの?」
視界が滲む中そう言えば、クスリと漏れる声が耳に届いた。
「さくらさん、ぐちゃぐちゃだね……。そんな姿でも可愛いって、好きだなって思っちゃうんだ。さくらさんが、もう俺と会いたくないって言ったとしても、どんなに傷付けられたとしても、俺は全部受け入れたい。許したいと思う。それほどに、さくらさんに対して愛しいって想いが、溢れるんだ。でも、何も聞かされずに突然会えなくなるのは、怖かった。もう会えないのかって、苦しかった。心臓が壊れてしまうかと思った。もう息ができないんじゃないかってくらい……だから、ありがとう。もう一度、こうして俺の前に現れてくれてありがとう、さくらさん」
「――っ……ばか……ばかあ……!」
そう言って微笑むから、私はもう彼の顔も見られなくなってしまった。両腕を顔の前に上げ、込み上げるものを拭い続ける。
いろんな想いが、混ざりあっている。嬉しさと、切なさと、悲しみと、怒りと、愛しさと――それなのにそれは、不思議と真っ黒になろうとはしない。
「ねえ、泣かないで。何があったのか、教えてくれる?」
私はただただ、子どものように頷いていた。
◆◆◆
「うえええええーっ? ――じゃ、じゃあ、私の、勘違い?」
夜の学校に響く、私の裏返った声。幸いにも聞こえるのは隣の一名だけなので、近所迷惑にはならない。
私が落ち着くのを、ただ隣で黙って待っていてくれた彼の瞳は、変わらず甘やかに優しくて。そうして、昼間に聞いた会話を、ぽつりぽつりと話して聞かせたのだったが……。
「彼女がいるって言っておいたら、女子を牽制できると思ったんだ。俺としては、嘘なんて吐いていないつもりだけどね」
「……それ、どういう意味?」
「え? ほら、年上の美人でしょ?」
「誰が?」
「さくらさん」
言いながら微笑みかけられ、顔が熱くなった。最近日差しが強いから、日焼けしたのかもしれない。
「び、美人じゃない……」
私のことを言っていたようだが、どこかで勝手に話へ尾ひれがついて、結果的に大学生だのなんだのという噂が、広まっていたということらしい。
「美人だよ、さくらさんは。にしても、誰だ。見たって言ったやつは……」
面白くなさそうに呟く横顔がなんだかおかしくて、思わず頬が緩んでしまう。
「ねえ、最近溜息ばっかり吐いていたのは、どうして?」
「え? ばっかりって、そんなにしてた?」
「うん」
どうやら、溜息は無意識だったらしい。恥ずかしそうに頬を掻きながら、彼は口を開いた。
「……そりゃあ、もうすぐ夏休みになっちゃうからだよ。図書室が開いてる日ならまだいいけど、学校に入れない日だってあるから。そうなると、さくらさんに会えないし。溜息だって出るよ」
「そ、そっか……」
私は、思っているよりも自惚れていいのかもしれないと、改めて感じた。というか、夏休みでも学校来る気だったんだ……。
「誕生日は、そうだね。たまたま言ってなかったね」
「そういう話にならなかったものね」
「大丈夫。俺、さくらさん以外の人となんて、考えてないから。他の誰とも過ごすつもりはないよ」
「いいよ。友達とか、遊ぶ約束もあるでしょ。遠慮する必要なんて、ないのに……だって、私たちは、友達、なんだから……」
ああ、自分で言っておいて……バカだ。失敗した。そう思った。どうしよう。頬が引きつっている。今の私は、上手く笑えているだろうか?
「友達、ね……ねえ、さくらさん」
呼ばれて顔を上げると、すぐ目の前に彼の顔があって驚いた。反射的に後ろに退きかけた体を、彼の声が留める。
「逃げないで」
手を掴まれたわけでもないのに、私はその場に縫い留められてしまった。
「さくらさんは、友達に彼女がいたって知って、泣いちゃうの?」
「え……」
「俺に彼女がいるって思って、誕生日も知らなくて、泣いて逃げちゃったのに。それでも、さくらさんにとって黒崎礼央は、ただの友達?」
「そ、れは……」
息が苦しい。私も現代文が苦手なのに。こういう時は、どういう答えを空欄に当てはめるのが正解なの? わからない。誰か教えてよ。
「やきもち? 嫉妬? それとも、後悔? ――して、くれたんだよね?」
「っ……」
「俺は、さくらさんが好きだよ。やっぱり好きだって、改めて思った。会えなくなるのが、怖い。他に怖いものなんてないくらいに、さくらさんに会えないことが辛いよ」
それは、春のあの日と変わらない、ちょっと震えた声だった。
そうだよね。今ならわかる。ものすごく緊張するよね。何度言っても、ドキドキするよね。
それでも、やっぱりズルい私を、どうか、どうか許してください。だって、その怖いものはいつかやってくるんだよ。
私に、やってくるんだよ。
そうでしょう? だって、貴方はいつか年を重ねて、私を置いて、この地上からいなくなってしまうのだから。
だから、このたった一つのワガママだけでいい。他には何も言わないから、どうか許してください。
そうじゃないと、私は――
「さくらさんは、俺といるの、苦しい?」
「え?」
「だって、ふとすると、そうやって一人で考えこんじゃう。未来を見てるの? やってくるであろう『いつか』に怯えてるんでしょ? さくらさんは、不安がりだから」
「当たり前じゃない……普通、考えるでしょ!」
それは、ただの八つ当たりだった。私は感情のままに、彼へと想いをぶつける。それなのに、目の前の男の子は、笑ってさえいた。
この子は、どうしてこう達観したような顔をしているのだろう。今だってこんな時間まで、私のせいでボロボロになって、帰れずにいるのに。決して、怒ったりしない。
「ねえ、さくらさんには、未来が見えるの?」
「え?」
「超能力があるの?」
「そんなの、ないけど……」
「だったら、想像に悲しまないで。来るかどうかもわからない、もしもに苦しまないで。俺を、見てよ。さくらさんの目の前にいるのは、未来じゃない――俺だよ。ねえ、違う?」
それは、痛いほどに切なく、私の目を覚ました。
彼は怒っていない。ただ、悲しんでいた。痛切なる叫びのようなそれは、願いだと知った。
「苦しいね、さくらさん。恋って苦しいね」
苦しい。狂おしいほどに。
それでもやめられないのは、もう底なし沼にはまってしまったからだ。抜け出せるはずがない。優しく囚われて、全身が包まれ、溺れてゆっくりと沈んでいく。そうしてとっぷりと浸かって、それでも息ができるのは、一人じゃないから。たとえ手を繋げなくとも、そこにいてくれる。それだけで、また目を開けられる。
「――ねえ、俺がそっちに行こうか」
「え――?」
すぐにその意味を掴むことができなかった。ただただわかったのは、彼の声のトーンが下がったことだけ。
「俺も同じ存在になればさ、いつまでも一緒にいられるでしょ?」
「な、にを……」
それは、初めて見た笑顔。暗い、昏い光を宿した瞳。そして、口元で笑ってみせたのだ。
「――なんてね、冗談だよ」
一転していつもの調子でそう言ってみせた彼に、私は戦慄した。
「じょう、だん……?」
本当に? ――その言葉は、怖くて音にならなかった。だって彼は今、私の目を見なかったのだもの。
しかし、彼は何事もなかったかのように、いつもの表情で今度はまっすぐ私の目を見た。
「ねえ、さくらさん。俺だって、永遠なんてないことくらいわかるよ。わかってる、つもりだよ。今日、改めて思い知らされたよ。それでも俺はさ、この貴重な時間を後悔したくない。出会わなければ良かったなんて、言いたくない。好きにならなければ良かったなんて、思いたくない。だって、この想いはやっぱり嘘じゃないんだ。だったら、できるだけそばにいたい。いろんなことを、一緒にやりたい。いつか、俺たち二人に離れる時が来てしまったとしても、その時に辛くて悲しくて苦しくても、それでもやっぱり楽しかったって、良かったって思えるような日々を過ごしたい。逃げたくないんだ、本気だから」
本気だから、だから苦しいんだ。泣いちゃうし、笑いあえる。嘘じゃない。どちらの、どの想いも。嘘なんてない。偽っているだけ。
それでもうまく誤魔化せないのは、私たちがまだ子どもだから――?
「君が本気なのは、知っている」
「うん」
「本当に、いいの?」
「いいよ」
「私で、いいの?」
「さくらさんが、いいんだよ」
ふわりと笑っていたはずの彼の顔が、緊張に染まる。春の、あの日が蘇った。どくんと、胸の中が心臓でいっぱいになって、苦しい。
「ねえ、さくらさん。俺の、初めての彼女になってください。そして、貴方の最後の彼氏にさせてください」
夜空の下。向けられる視線は、熱帯夜よりも熱かった。
「私だって、初めてだよ」
「じゃあ、最初で最後のだ」
「……君は、最後にしなくていいからね」
「またそういうことを言う……」
「大事だもの。これが聞けないなら、ダメ」
「頑固だなあ」
「知っているでしょ」
「うん、知ってる」
「じゃあ……」
重ね合った両手が震える。こんな想いを、ずっとさせていたの? ごめんね。もう、逃げないから――
「レオくん……私の、初めての彼氏になってください」
「――っ、喜んで!」
花が咲いたような笑みを向けられて、つられて私も笑顔になる。ふと過った灰色の気持ちには気付かないフリをして、そのまま蓋をした。そして、大きな桃色の浮かれた気持ちだけを、そっと大事に抱き締める。
今だけでいい。今だけは、この気持ちに浸らせて。いつか味わえなくなるのであろうこの気持ちで、いっぱいにさせて。
――誰がなんと言おうと、私たちはこれを幸せと呼ぶから。
「さくらさん……」
「レオ、くん……」
どちらともなく見つめ合って、触れあうことのできない、キスを、した。それでもドキドキして、そして笑いあった。
「これからは、もっと話をしよう」
「うん」
「さくらさんが知りたいこと、全部聞いて」
「じゃあ、血液型は? 星座は?」
「……女子って、そういうの知りたがるよね」
「何? ダメなの?」
「ダメじゃないよ。俺はね、B型の獅子座」
「獅子……もしかして、名前って……」
「うん。獅子からきてる。カッコいいでしょ」
「はいはい。格好いい、格好いい」
「あれ? また棒読みー?」
「ソンナコトナイヨー」
「さくらさーん?」
どうやら、私たちは関係の名前が変わっても、いつも通りのようです。
「そうだ。俺、短冊の願い事、叶ったよ」
「短冊?」
そういえば、以前そんな話をしていたっけ。
「願い事、何て書いたの?」
「知りたい? それはね、『さくらさんと恋人になる』だよ」
「……それ、家族の人も見たんじゃ……」
「そうかもね」
「もう! そうかもね、じゃないー!」
そして、私が彼に翻弄されるといういつも通りの日常が、これからも続くようです。
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