第3話 煌めきの6月
「おー、やってるやってる」
賑やかなグラウンド。上がる歓声。放送で進行されるプログラム。チームカラーのハチマキが、彼らの動きに合わせて揺れていた。
「良い天気。晴れて良かった」
今日は体育祭。グラウンドでの練習も、先月末には本格的になってきていた。当初は身の入っていなかった子たちも、今日という日は一生懸命に全力を尽くし、喜び、悔しがり、励まし合い、汗を流している。
――私も、かつてあの場にいた。
彼と過ごして行く中で、少しずつ記憶が蘇るのを実感していた。今までは、たまに生徒たちを眺めることはあったが、こんな風に興味を持つことはなかった。
人と……彼と関わり合うことで、私自身、刺激を受けているのだろう。
「あ、くしゃみした。可愛い」
こんなにたくさんの人の中だというのに、どうしてだろうか――その張本人を探すのに、時間はかからなかった。背が高いとか、目立つとか、いろいろと要因はあるかもしれないが、それだけではない。
私がつい、無意識にその姿を追っているのだ。他の人なんて、どうでもいい――彼だけを、この目は映している。
それにしても、この十年で随分と種目は様変わりしたようだ。あまり、激しそうなものが見られない。それでも、やはりリレーはあるようで、なんと彼はアンカータスキを肩からかけて、リレーの出場選手の待機位置でしゃがんでいた。
クラス対抗リレーに出るとは言っていたが、まさかアンカーだとは。いつもならすぐに言ってくるくせに、どうやら今回は黙っていたらしい。
とはいえ、彼の走りは見たことがない。駆け寄って来る姿くらいしか思い浮かばなかった。選手として走るということは、速いのだろうか。だとしたら、あのルックスで足まで速いということになる。
「本当、ズルいよねー」
周りの男子は、絶対にそう思っていることだろう。イジメられたりしないのだろうか? などと保護者目線で見ていると、彼が立ち上がった。
「――っ!」
ぶわわわわわっと、鳥肌が立った。鳥肌? いや、違う。鳥肌のようなナニカだ。
原因は、一目瞭然。彼と目が合ったのだ。それだけじゃない。彼は、この距離で私に微笑みかけてきたのだった。
そういや、視力は良い方だと言っていたか。そんなことを頭の隅で思いながら、リレーの開始合図の発砲音を聞いていた。
「へえ……」
一年生男子の一番走者が走る。彼のクラスカラーは、赤。ついと、赤のハチマキとバトンを持った子を目で追いかける。
「すごい、一位。良い感じー」
二位と接戦ではあるが、二人三人と継がれたバトン。このままいけば……というところで、しかし、走っている子が躓き、転んだ。
「あ……!」
すぐさま起き上がり走り出すものの、全員に追い抜かされてしまった。それでも諦めず走り抜けて、バトンを渡したのは、アンカー。
誰もが、もう一位など無理だと諦め落胆していたその現状で、しかし、私は見逃さなかった。
彼の目に、見たこともないような、真剣な光が帯びていることを。
「……すごい」
歓声が上がる。目など離す隙もなく、彼は次々と目の前を走る生徒を抜き去っていく。今この瞬間、この場のすべての視線を釘付けにしていた。
だんだんと、距離を縮めるゴールテープ。誰もが息を呑み、見守る中で聞こえてくるのは、ただただ土を蹴る足音と、まるで聞こえそうな息遣い。そして――
「やった……」
静寂を破るように上がるのは、大多数の歓声と、一部の悔しがる声だった。
「――っ、はぁ……」
どうやら身が入りすぎて、息をするのを忘れていたらしい。詰めていたものが、抜けていった。握り込まれた拳をゆっくりと解くと、掌は白くなっている――ように見えた。
顔を上げると、クラスメイトに囲まれる彼。上級生の心にも、火を点けたらしい。二年生のリレーが、盛り上がりの中で始まった。
「……滑稽ね」
どうやら、私の中の火は一瞬で燃え尽きてしまったらしい。興奮していたことが嘘のように、心にぽっかりと穴が空いているようだった。
――息などしていないくせに。この手は、ずっと青白いくせに。
囲まれて笑っている彼――その隣にいつもいるのが誰だと、誰に言うつもりだというのか。
無邪気な顔で笑う姿が、煌いて見える。その眩しさで、この汚れてしまった目は焼けてしまいそうだった。見ていられなくて、視線を逸らす。
そのまま私は踵を返し、グラウンドを見渡せるいつもの桜の木に戻った。そうして、彼らの様子を遠目に眺めていた。
「さくらさん、やっぱりここにいた」
「……どうして、ここに来るのよ?」
「どうして? さくらさんに会いに来るのに、理由が必要なの?」
しばらくして、体育祭の昼休憩の時間になった。ずっとここから眺めていたから、彼が真っ先にこちらへ向かって来ているのを、私は知っていた。
「リレーの英雄さんは、クラスの子たちに囲まれていたんじゃないの?」
「何、その英雄って……。良いんだ。皆、友達や親とそれぞれご飯食べてるし、役割がある人は忙しく動き回ってるし」
言いながら、パンをかじる彼。じゃあ君は? ――その言葉は、喉に引っ掛かったので呑み込んだ。
「リレー、見ててくれてたよね。俺さ、さくらさんに見られてるってわかってたから、頑張れたよ。カッコいいとこ、見て欲しいって。ねえ、どうだった?」
「……それ、要求しているの?」
「そうだよ」
本当、なんて子。笑顔が眩しすぎて、瞳が日焼けしそう。
「格好良カッタデスヨー」
「あれ、ちょっと棒読みじゃない? なんか、俺の思ってたのと違う!」
「そーおー?」
「さーくらさーん」
ぶすっと頬を膨らませる彼。その拗ねた顔が可愛くて、私は思わず目を逸らしてしまった。先程までいじけていたのが、いったい誰だったのか……そんなことを吹き飛ばしてしまえるくらいの破壊力が、彼にはあった。
「き、君はまた、子どもみたいなことを……」
「む……どうせ、さくらさんからしたら、俺は子どもだよ」
まったく……。
「いいから、ほら。ご飯食べないと、休憩終わっちゃうよ?」
「ん……」
もそもそとパンをかじる彼の目は、明らかに落ち込んでいた。
どうして私が……頭を抱えたくなるが、これも何とかの弱みってやつなのだろうか。だとしたら、どうしてくれよう。これは言ってやらないが、このままでは後半の活躍に関わってくるようなので、仕方がない。
ふうと一つ息を吐いて、私は淡い苦笑を浮かべながら、彼の目の前に移動した。
「すごかったね。足、速いんだ。知らなかったな。見入っちゃったよ。頑張ったね。格好良かったよ、レオくん」
「……」
口を開けているかと思えば、彼はみるみるうちに顔を真っ赤にさせた。どうやら天気がいいから、日に焼けてしまったようだ。
「うん……ありがとう」
また、もそもそとパンをかじる彼の目は、先程と違って落ち着きがなかった。
◆◆◆
「見て、さくらさん」
ある日、珍しくいつもより早い時間に登校して来たと思ったら、彼は自転車を所定の位置に停めることもせずに、一直線に私の元へとやって来た。そして、両腕を広げて笑ってみせるのだ。
「衣替え……」
「そ。今日から、夏服なんだ」
イケメンというのは、何だろう。こう、何を着ても似合ってしまうものなのだろうか。雨上がりの景色に映える、キラキラな笑顔が眩しい。
「さくらさんに、一番に見て欲しくて、早起きしちゃった」
「……そう」
なんだか出会った時よりも、どんどん子どもっぽくなってやしないか? まあ、別に構いやしないのだけれど。――ドキドキなんて、していないんだからね……!
「へへっ」
笑わないでよ。可愛いから。
「何を笑っているの?」
「ううん、なんでもない」
なんでもないって……まあいいか。
「自転車、置いてきたら?」
「うん」
うんと言いつつも、彼は動かなかった。そのまま、ただ隣にいて微笑んでいた。だから、私ももう一度は言わないでおいた。
そうして時間が過ぎて、彼が校舎へ姿を消すと、また雨が降ってきた。それは、誰かの代わりに空が泣いているかのような、しとしとと降る雨だった。
濡れることなどないからと、構わずいつものように木の枝に腰掛けて空を仰ぐ。この身へと向かって降ってくるくせに、私を避けるなんて――まるで、雨にまで嫌われているようだと、自嘲のような薄笑いが浮かんだ。
腕を思いきり伸ばしても、空を覆う雲になど一向に届きはしない。
どれだけ空へと浮き上がっても、ここからは出ることなどできない。
どこへも、行けない――
私以外の何もかもが留まらないこの場所で、すべてに置いていかれて。
「私は……」
「さくらさん?」
ビクリと体が跳ねた。声のする方へと顔を向ければ、この雨の中だというのに傘も差さない状態で、彼が木の下に立っていた。いつの間にか、昼休みの時間になっていたようだ。伸ばしていた腕を下ろし、彼の元へと下りて行く。その瞬間、私は異変に気付いた。
――彼を濡らすのは、本当に雨?
――今朝と違うのは、どうして?
「……」
「……」
「…………、濡れるよ」
言いたかったのは、そんなことではなかったのに。彼の体が、無遠慮な雨に打たれ続けている姿を見ていられなくて、私はそんなことを口にしていた。
「……今日、傘忘れちゃって」
「だったら、わざわざここまで来なくてもいいじゃな――」
「――嫌だ!」
間髪を入れず向けられた、叫びにも似た否定。体が、ビクリと跳ねる。彼が声を荒げるところを、初めて見た。
「さくらさんと一緒じゃないなんて、嫌だ。ほら、行こう」
ついて行かなければ、彼がいつまでもここに留まろうとすることを知っていた。渋々と、私はこちらを振り返るその背を追って、校舎内へ向かう。
いつも、昼は私の隣で食べる彼。普段なら、桜の木が日を避け、風を運んできてくれるけれど、雨の日はもちろん濡れてしまう。そういう時は決まって、あまり人の来ない校舎の端の階段に居座っていた。今日もその階段へと、腰を落ち着ける。
「濡れちゃったね」
ね――って。同意を求められても、私は濡れないので困るのだが……。
いや、困るのは目のやり場の方だった。濡れて色気のある高一男子って、どうなの?
「拭くものないの? 風邪ひくよ」
「ない。でも、風邪はひかない」
何それ。何だか、宣言された……。どういうこと?
「風邪なんかで学校休んだら、俺死んじゃうよ」
「――はい?」
「……さくらさんって、時々反応がドライっていうか、キツイよね。傷つくよ、俺」
苦笑いしながら、そんなことを言われても……。
「だって、ただでさえ休みの日はさくらさんに会えなくて辛いのにさ。休んでる場合じゃないよ」
どうやら風邪どころか、既に頭の方が重症のようだった。
「だったら、体を壊す要因になるような真似はしないことね」
「わかった。心配してくれて、ありがとう」
「別に、心配なんて……」
「うん」
まったく、彼には何を言ってもダメなようだ。にっこりと笑われ、すべて包まれていく。
話をしたいと言いながらも、彼とは会話にならないことがある。どうも、私の口を閉ざすのが上手いようなのだ。そして、その沈黙すら苦ではない――それは、彼も同じらしい。平気な顔をして、ただ隣にいる。寄り添うこともできないというのに。濡れた彼の体を滴るものを、拭ってあげることもできやしないのに。ただただ、隣――目の届くところに、声の聞こえる範囲にいるのだ。まるで、私の感覚を狂わすかのように、惑わすかのように、刷り込ませるかのように。私の大嫌いなものや、信じていないものへの価値観を根こそぎひっくり返してしまいそうなほどに、心を占めてくる。
意味を求めてはいけないのだろうか、この関係は。
先を想像してはいけないのだろうか、この二人に。
真意を聞いてはいけないのだろうか、この人には。
「……」
開いた口は、まるでエサを求める金魚のように、また閉じられた。
どうも十八歳で時の止まった私は、元来大人びていたつもりだったのだが、それは自分をも騙す演技だったようだ。傷つくことを恐れて逃げてばかりいたツケが、こんなところで露わになるなんて。
私は、小さな籠の中の世界しか知らない、飛んだこともないから翼を持たないことにも気付くことができない、ナニカ。
素直さを、無邪気さをどこかに置いてきた、子どもでもない、大人にもなりきれないモノ。
臆病な、何にもなれない幽霊。
だから曝け出せない。だから言葉をあげられない。だから聞き出せない。だから言葉を掛けられない。だから――
「さくらさん。大丈夫だから、泣かないで」
「え……?」
言われてから気付くなんてこと、本当にあるんだ……。たった一滴が、私の頬を滑っていた。
「触れられたら、拭ってあげられるのに……」
それは、こちらのセリフだと思った。その言葉は、声は、ひどく切なかった。
「俺は、大丈夫だよ」
「だけど……」
「もう、こんなことないから」
「本当に?」
「うん。ごめんね」
その言葉に、静まりかけた想いが溢れてしまった。
「何で……何で君が謝るの? 痛いのは、君でしょう?」
私の声が、廊下に響く。視界の隅で、痛々しい白が大きく見えた。
朝にはなかった、清潔感溢れる包帯が、彼の腕で存在を主張している。その一部が、赤く滲んでいた。
それは、自分でしたの? そんなわけないよね。
――ねえ、誰にされたの?
「ごめんね」
「だから、謝らないで」
「でも、さくらさんを泣かせてしまったから……」
「君が謝る必要なんてない。どこにもない!」
「それでも、ごめん」
涙が、想いが、溢れて止められなかった。
「ねえ、泣かないで」
その声が優しくて、ひどく心に刺さる。
「私、私……ごめんなさい……」
その言葉は、私の心そのままのものだった。留めておけなくて、口から溢れ出した想い。
「君が何も言わないから、気付かないフリをしていたけれど、できなくて……」
「さくらさん……」
「どうして、こんなに痛いんだろう。君が傷付いているのに、知らないフリなんてできないよ。苦しいの、助けてよ。なんで黙っているの? いつもみたいに、こんなことがあったよって、へらへら笑いながら、聞いてもいないことを教えてよ!」
泣いている姿を見られたくなくて、両手で顔を覆った。だから、彼が今どんな表情をしているのかなんて、知らない。
ああ、外の雨が強くなってきたみたい……すぐ隣からも、水音しか聞こえなかった。
そうして、どれだけの時間が経っただろうか――心がだんだんと落ち着いてきた。私は、冷静になってきた頭で、先程のことを振り返ってしまう。どうして、そんな映像を再生してしまったのだろうか。有り得ない。恥ずかしい。しかも、何か余計なことを口走った気がする。
隣も落ち着いたようで、横目で見れば楽しそうに私を見ていた。二人で、真っ赤な鼻と目をからかいあう。
「休み時間、終わるよ」
「こんな顔で戻れないよ……ねえ、ずっと、ここにいたい」
その声はとても甘くて、頭が痺れるには十分なものだった。
もし、ずっと一緒にいられたら――刹那の気の迷いに酔ってしまいそうになるのをぐっと堪えて、私は首を横に振った。
「……それはダメ。顔、洗ってきなよ。そこまでひどくないし、少し引いてきているから大丈夫そうだよ。それに、どうしてもその腕に目がいってしまうし……こういう時こそ、堂々と戻ってきなさい」
「……わかった。じゃあ、あれだ。怪我が痛すぎて、泣いちゃったことにしよう」
まったく、すぐに茶化そうとするんだから。
「……クラスの子は、知らないの?」
「知らないよ」
「……後で、ちゃんと説明してほしい。無理にとは、言わないけど……。とにかく、私はここで待っているから。ほら、チャイム鳴るよ」
「わかった。放課後、またここでね」
「うん」
名残惜しそうな目をして手を振り歩いて行く彼の背を、本当は追いかけたかった。けれど、ぐっと我慢した。
だってそうしないと、どこまでも落ちてしまいそうな気がしたから。
墜ちて、堕ちて――そうなったら、もう這い上がれない。戻れない。
それはダメだ。彼を引き込んではならない。
これは、今だけ……彼が望んでいる間だけの、有限の時間なのだから。
いつかは、終わること――永遠も、ずっとすら存在しない、今を生きる彼だから。
そんな彼との時間だから、何も望んではならない。私に、そんな資格はないのだから。
「後で、か。待っているだって……私、いつからそんなことを平気で言うようになったんだろう?」
呟いた声は、嘲りの色。聞こえてくる静かな空の涙に、私はただ窓の向こうを眺めていた。
◆◆◆
「さくらさーん」
手を振り走ってくる、無邪気な子。おいおい、誰かに見られたらどうするつもりなんだか。他の人からは、一人で誰もいないところに話し掛けている変な子にしか映らないのだから。
私の冷や汗などお構いなしに、彼は一直線にこちらを目掛けてきて、嬉しそうに笑った。
昼に見せたあのしおらしいのは、どこへ置いてきたんだろう? 落とし物ボックスにでも入っているのだろうか。だとしたら、今すぐにでも拾ってきてあげるのだけれど。
「お待たせ」
「うん。勉強お疲れ様……頑張ったね」
「……うん、ありがとう」
しとしとと、雨音響く廊下の隅。階下から響くキュッという音に、どこかの部活が基礎トレーニングをやっているのだろう掛け声が重なる。
私たちは、最上階の端の階段に腰掛けていた。ふうと息を吐く。ここは、滅多に人が通らない場所だ。落ち着いて話ができるだろう。
ひんやりとした空気に包まれた私たちの顔は、すっかりいつも通りになっていた。――ただ一つ、包帯に隠された傷だけが痛々しい。
「痛む?」
「案外平気。包帯が大げさなんだよ。絆創膏でいいのに」
それは強がりでもなんでもない、本音のようだった。
「それで、さ……聞いても良いのかな?」
「うん、良いよ。何でも聞いて」
「わかった、ありがとう。じゃあ早速だけど、いったい誰なの? クラスの子? 自分だなんて戯言は、なしだからね」
「う、ん……」
回りくどいことはなしだ。ストレートに私が切り出すと、彼は言い淀むと同時に、目を泳がせた。まさかとは思うが、茶化すか嘘でも吐くつもりだったのだろうか。だとしたら、牽制しておいて良かったというものだ。
「……もしかして、イジメられているの?」
「違う」
即答だった。彼はキッパリと、今度は私の目を見て言った。
「イジメはないよ。俺が知ってる限りはね」
「そう……」
この学校は、割と平穏だ。目立って何かが起こることは、ほとんどない。それは、昔からだった。
「じゃあ、どうして?」
彼の利き腕は、傷付けられたのか。
「……リレー、見てたよね?」
「え?」
思わぬ方向転換に、素っ頓狂な声が出てしまった。方向転換? いや、この彼がここで突然関係のない話をするわけがない。ということは、大いに意味があるということになる。……でもリレーって、体育祭の時の?
「見ていたよ。感想、言ったよね?」
「うん……あの時の、俺の前を走ってたやつ」
「前……君が抜き去った、他のクラスの子?」
彼らもしくは、その内の誰かが犯人? 悔しがってはいたけど、そんなことをするような子たちには見えなかったけどな……。
「違う……転んだ方」
前って、そっち? 同じクラスの子が、犯人なの?
「え? 何で?」
「実は、あいつ陸上部なんだ。あれから、よくいじられててさ。陸上部なのにとか、俺と比べられるような言い方されてて。たぶん、それで……」
「え……」
「まあ、気持ちなんて、本人にしかわかんないよ」
「そうかも、しれないけれど……」
全然、納得がいかない!
「でも、あいつもすぐに謝ってくれたんだ。泣きながら。怪我させるつもりじゃなかったって。後悔してたみたいだからさ、もうしないと思う」
「何それ……そんなの許さない! そういうつもりがなかったなんて、君はそんな甘いことを真に受けたの? 人に向けるべきでないものを向けた時点で、そんなの言い訳にしかならないよ!」
「いいんだ。ありがとう。俺の代わりにさくらさんが泣いて、怒ってくれたから。もう、いいんだ」
「でも……」
「お願い。事を荒立てたくない」
「っ、…………わかった。君がそう、望むのなら……」
私は渋々、口を閉じた。だって、これ以上私一人が何を言ったところで、結局何もできはしないのだから。
「ありがとう、さくらさん」
「お礼を言われるようなことは、何もしてない」
「してくれたよ。泣いて、怒って、そして話を聞いてくれた。そばにいてくれてる」
「……」
この子は、ちゃんと「ありがとう」と「ごめん」が言える。想いを言葉にして伝えられる。それは、すごいことだと思うんだ。だって、想いは見えないから。伝えようとしないと、伝わらないから。だから私は、彼の腕に手を伸ばした。
「さくら、さん?」
私の手は、何にも届かない。温もりも与えられず、滴も拭えず、傘を差してあげることもできない。けれど、届くものがあるって教えてくれたから。気持ちは見えないけれど、こうすることで少しでも伝えることができるって思うから。
「手当て、だね」
彼が嬉しそうに呟く。
「まあ、当たってないけどね」
「なんだか、あったかい気がする」
「気のせいだよ」
包帯を包むように添えた手から、笑みが生まれた。
◆◆◆
彼の腕から包帯が消えて久しく、傷も綺麗になってきた頃。私たちは、放課後の図書室にいた。
「またテストか。この前、終わったばっかりなのにね」
「今度は期末だから、教科数が多いんだよ。助けて、さくらさん」
「……私は、未来からやって来た便利なロボットじゃないよ」
毎回テストのたびに、こうなるのだろうか。いつもの席に着き、教科書類を広げる彼の荷物を見て、ふと疑問が生じる。
「そういえば、辞書持たないよね」
「辞書?」
「私は、重たい辞書を持っていたよ。本のやつ。教室の机か、ロッカーに入れていたけれどね」
「それって、これ? ケースに入ってるような、角が凶器の」
そう言って彼は立ち上がり、本棚から辞書を取り出してきた。まあ角は痛いけど、でも凶器って……。
「あー、うん、そういうの。思えば、前のテスト勉強の時も、開いている姿を見たことなかったなーって思って」
そう言えば、きょとんとした目とぶつかった。
「え?」
いやいや、何故そんな顔をするの?
「こんな重いのを、都度開いてたの?」
「そうだよ。まあ、電子辞書でも良かったから、ずっと持ち歩いていたわけじゃないけれどね」
「あー、電子辞書なら、授業中たまに漢字とか調べる時は使う」
「そうそう、そういうのだよ」
「でも、授業中じゃなかったらさ、わざわざ辞書なんて使わないよ」
「え?」
おもむろに、ケータイを取り出す彼。そういや、ケータイの形も変わったな。もう小さいパソコンみたい。初めて見た時は、ケータイだと信じられなかったっけ。
「ネットで調べた方が早いし、アプリとか使ってるやつもいるよ」
ネット? アプリ?
「わからないことは、大抵ネットの検索で、ほら」
「へえ……」
ちょっと、十年ほどタイムスリップしてきたみたいだ。浦島太郎って、こういう気分だったのかな。
「そっか。さくらさんって、重い辞書持って勉強してたんだ。ケータイも、昔はなかったって聞いたことあるし」
おいこら、馬鹿にするな。私だって、ケータイくらい持っていたわ。
「じゃあ、あれだ。勉強も、ネットに助けてもらいなよ。私はいらないでしょ」
未来から来たロボットがいない今、過去から留まっている幽霊よりも、現在の技術が助けてくれるのだから。
「え? なんで?」
「わからないことは、ネット検索すれば、すぐわかるんでしょ?」
「そうだけど……そうじゃないんだって。俺には、さくらさんが必要なの。何? 怒ったの?」
「怒ってない」
「じゃあ、何で?」
何だろう……怒ったのとは違う。これは、そう――
「……十年って、大きいなって。玉手箱を開けたくなった」
「玉手箱?」
「いいの。気にしないで」
世の中がいろいろ変わっていて、知っている人もここにはいなくて、どうしたらいいかわからなくて、何がどうなっているのかもわからなくて。何かに、縋りたかったのだろうか――私は、彼に縋っているのだろうか。藁を掴むような気持ちで。でも、そんな彼にも壁を感じて。だから、私は……。
「さくらさん、寂しくなっちゃったの?」
「……誰が」
「可愛い」
「……」
「俺がいるよ」
「ん……」
たった一人で老いて、それからもう乙姫に会えなかった浦島太郎とは、違う。今だけかもしれないけれど、私には彼がいるのだ。それだけで幸せじゃないか。これ以上なんて、望み過ぎというものだ。
「玉手箱なんて、俺なら渡さないよ。おばあさんになんて、なっちゃ嫌だよ」
「君ならまず、地上へ帰してくれなさそう」
「バレた?」
「ひどい人」
「さくらさん限定でね」
ああ、こうして私は緩やかな波に囚われて、いつしか沈んでいくのだろう。大きな海に抱かれて、頭上で煌く彼方を見つめながら。そうして、暗い闇の底へと落ちていってしまったとしても、私はきっとその想いを抱いて眠るのだ。
彼を、瞼の裏に閉じ込めながら。
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