第2話 爽やかな5月

「生まれて初めて、連休なんてなくなれって思った」

 桜の花もとうに散り、木々が青々と鮮やかな葉を湛え始めた、春とは思えない季節。世間が浮き足立つ大型連休も終わり、怠そうな生徒たちが久々の学校生活を過ごしていた。その中でただ一人、彼はそんなことを平然と言ってのけたのだ。

 真面目な顔をしたかと思いきや、突然なんてことを言うのだろうか……。他の子が聞いたら、絶対に頭のおかしいやつだと捉えられてしまうだろう。そんな私の考えをよそに、彼はふわりと微笑んだ。目が合う。

「やっと……やっと、さくらさんに会えた」

 愛おしそうに細められた瞳が、私に向けられている。

 本当に、突然なんてことを言ってくれるのだろうか。私の体温が上がったのは、きっと日に日に強くなってきた日差しのせいにきまっている。ああ、暑い。特に顔が! 扇風機、どこかにないかしら? いや、間に合わない。氷をください!

 そんなこんなで熱にやられている中、日差しに曝されているはずの彼は、何故だか涼しげに見えた。実際は、じんわりと汗をかいている。だというのに、そんな姿すら絵になる彼には、まるで心地よく吹く風が味方をしているかのようだった。爽やかという言葉がよく似合っていて、更に私の頭へ熱が集まってくる。何の罪もない青空を睨んでいると、ふいに隣から声がした。

「俺たち、出会ってから一ヶ月だね」

「そっか。もうそんなになるんだね。早いなあ」

「ねえ、一ヶ月記念に何かしようか」

「え?」

 一ヶ月記念だって?

「君は女子か」

 胡乱な顔で返すと、彼は淡い苦笑を浮かべた。

「さくらさんが、淡白すぎるんだよ」

 この一ヶ月。休日以外は、毎日一緒に過ごした中で知った、彼のこと。ハーフではなくクォーターで、幼少期の数年を海外で過ごしていたという帰国子女。英語がペラペラなのに、授業で苦労しているのは英語。曰く、日本の英語の授業はやけに難しくしていて、ややこしいのだとか。好きなのは、体育。苦手なのは、英語の他には現代文。選択授業は、音楽。昼は、購買のパンか、コンビニのおにぎり。あまり量は食べない。漫画やゲームが好き。趣味はゲーム。塾は行っていない。両親と姉の四人家族。部活も入らずバイトもせず、放課後は毎日ここへ来る。

 本当に、驚くほど毎日毎日飽きもせずに。そんな生活が、互いにとって当たり前になりつつある。慣れとは、なんと恐ろしいものだろうか。そして、これはいつまで――

「何がいい? さくらさん」

 ふと声を掛けられ、思考が中断する。声に導かれて反射的にそちらを向けば、優しい瞳とぶつかった。いつから、私を見ていたのだろうか――そんな考えは、即座に愚問だと一蹴した。

 そんなの、ずっと見られていたに決まっている――

「何って?」

「だから、一ヶ月記念」

 まだ言っていたのか。

「そんなことを聞かれても……第一そういうのって、毎月するわけ?」

「そうだよ。あ、今めんどくさいって思ったでしょ?」

 クスクス笑いながら言う彼に、別に否定するでもなく頬杖をつく。そこで、はたと気が付いた。

「あれ? そういうのって、友達とはしないよね?」

「そうかもね」

 でたよ。お得意のそうかもね。何が楽しいんだか、ニコニコして……。

「そうかもね、じゃない。友達とはしないの。だから、この話はおしまい」

「えーっ……まあ、いいか。あ、そうだ。もう少ししたら、中間試験なんだ。さくらさん、勉強教えてよ」

 つい先程まで、不満そうな顔をしていたくせに、もう笑顔になっている彼。なんて切り替えの早い……。

「テスト勉強?」

「うん。さくらさん三年生だから、一年の勉強わかるかなって思って」

「……どうだろう。科目によるかも」

 当時は詰め込んでなんとかなった知識も、その後すべて覚えているなんてことがあるはずもなく。好きな科目ならともかく、苦手な教科は特に自信がない。確か、彼は現代文が苦手と言っていた。現代文って、正直何を教えたらいいのだろうか。

「深く考えなくていいよ。俺は、さくらさんと一緒に過ごしたいだけなんだから。これは、その口実」

 そういうことは、いちいち言わなくていいと思う。私の眉間に、皺が刻まれた。

「さくらさんは、優しいね。俺のために、今いろいろ考えてくれたでしょ」

 エスパーだとでも言うのか、君は。どうせ、私はお節介ですよ。

「そういうところ、好き」

 はにかみながら、見つめられる。そういうことは、言わなくていいと思います!

「赤くなった。照れてるの? 可愛い」

 そんなことない。私は可愛くなんてない。可愛い子っていうのは、こういう時に貰った言葉に値する行動ができる子のことを言うのだから。

 でも、私は何も言ってあげられない。言葉しかあげられるものがないのに、その言葉さえあげられないのだから。それどころか、悪態ばかりついてしまう。そうしてそんな刃を振り回して、周りを傷付けるのだ。弱いくせに強がって、十八年しか生きていないのに何もかもをわかったようなフリをして。そうして一人、暗闇で迫る孤独に震えていた。それが、私――

「さくらさん?」

 黙った私を訝しって覗き込んでくる、茶の瞳。色を失ったかのようにぼんやりする冴えない黒い目にさえ、光を分け与えてくれる――そんな錯覚にくらくらしてしまいそうになる、優しい色。


 ――ねえ、それはいつ、残酷な色に変わるの?


「さくらさん、どうかしたの?」

「……ううん。何でもないよ」

「……そっか。あ、もうこんな時間か。さくらさんといると、あっという間に過ぎちゃうね。そろそろ帰るよ」

「そう。気を付けてね」

「うん、ありがとう。さくらさん、そんな顔しないで。また明日、ちゃんと来るから」

 いったい、私がどんな顔をしているっていうんだか。そっくりそのまま返してやりたいくらいだ。

 そうは思いつつも、言うわけでなく。私は、いつもの笑みを浮かべて夕日を背に自転車を漕いでいく彼を、見送った。

「何でもないよ、か……」

 なんて幼稚な嘘。口下手なのは、自覚あるつもりなのだが……。まあどうせ、どんな言葉を並べたところで、嘘は嘘。どうやったって、陳腐にしかならないだろう。

 そして、賢い彼はあえて触れてこない。きっと明日も、この先もずっと、足を踏み入れたりなんかしない。いったい、どういった生き方をこれまでしてきたのだろうか。

「お互い様、か……」

 違和感と既視感と、類似したところと――それらが、私に彼を目で追わせる。彼の隠した暗闇を暴きたい。覗き見たい。二人なら、傷口を舐め合えるだろうか。

 信じてなどいない永遠を誓って、ぬるま湯に浸かって、互いを必要として、依存して、堕ちていく。そんなの――

「ダメに決まっている」

 こちらに引き込んではならない。そうした選択肢など、あってはならない。そんな二人に、未来など存在しない。交わるはずのなかった道で出会ってしまったのが、そもそもの……。

「あれ?」

 私を見ることができる人は、少ないけれど今までにもいた。しかし、誰もが幽霊には気付かないフリをして、怖がって、近付いてなどこなかった。そして見える人というのは、大抵がこちら側に近い人間であることが多いものだ。

「まさか、ね……」

 揺れる緑の葉の隙間から射し込む西日に、私はただ目を細めていた。


◆◆◆


「これは?」

「今日、遠足だったんだ」

「そういえば、昨日言っていたね」

 言いながら、目の前に差し出されたケータイの画面を見る。

 とても天気の良い日。一年生の、校外学習という名の遠足行事の日の夕方。彼はいつもの笑みを浮かべて、何枚もの写真を見せてくれていた。

「ここかー、懐かしい。そうそう、一年はここだったね。私も行ったなー」

 画面へ表示される画像に、当時の記憶が蘇る。とはいえ、その場所に行ったということぐらいしかない思い出なのだけれど。

「へえ……ってことは、十年前から場所が一緒ってこと?」

「そうだね」

「そっか。じゃあ、さくらさんと同じ思い出ができたわけだ」

「はいはい。……あれ? そういえば、何でここにいるの? 確かこういう日は解散して、もう帰っていいはずじゃ……」

 わざわざ来なくて良い学校内に、体操服姿の一年生が一人。もちろん彼の同級生は、誰一人として見当たらない。

 それにしても、ジャージがよく似合う。運動系の部活に入っていないことが、残念なくらいに。……って、あー……どうやら、聞かなくてもいいことを聞いてしまったみたいだ。ずいと、彼が私への距離を縮めてくる。

「聞きたいの? さくらさんってば、俺に言わせるんだ?」

 楽しそうな、意地の悪い顔をして。彼はケータイを下げて、私の顔を覗き込んだ。

「いい。もうわかったから、言わなくていいよ」

「えー? つれないなあ。あ、照れてるの? 顔、赤いよ」

「……怒るよ」

「良いよ。さくらさんの怒った顔、見てみたい」

 この野郎。軽く睨んでやっても喜びやがって。こういうのは無視に限るとばかりに、私は背を向けた。

「あ、拗ねちゃった。ね、さくらさん。ごめん。からかわないから、こっち向いて」

 良い声で、甘えたように言うのはズルいと思います。

「あーあ、もう……っ……くぁ……」

 あ、欠伸を噛み殺している……ズルいズルい。めちゃくちゃ可愛い。朝が早かったんだろうな。疲れているのに、わざわざ私のところに来てくれたんだ。

 そう、私が思わぬところで心を鷲掴みにされていると、見られていることに気付いた彼が、恥ずかしそうに顔を赤らめた。え? ここで照れるの? いつも、恥ずかしいことを平気で口にしているくせに。何それ。その顔はダメでしょ! 反則!

 私が、大ダメージを受けた心臓を守るように手で押さえていると、彼は目を逸らしながら、後ろ髪をぽりぽりと掻いていた。

「ズルいなあ……」

 どっちがズルいんだか。ぼそりと呟くと、手を下ろした彼が一歩近付いた。

「さくらさんって、サディスト?」

「は?」

 心外だった。というか、突然なんてことを言うんだこの子は。

「だって割とさ、俺が恥ずかしい思いをしている時の反応が一番いいから、そういう趣味なのかなって。俺がいろいろ言っても、反応薄いじゃん」

「そんなことない、と、思うけど……」

 言われたのは初めてですし、自覚もございませんが?

「良いよ。さくらさんが望むなら、俺、頑張るから」

 言いながら、顔を赤らめて健気に振る舞ってみせる彼。年下をイジメて、イケナイことをしているみたい――って、こらこら何を頑張るんだ、何を。

「そんなこと言って……私をからかうんじゃないの!」

「ふふ、ドキドキした?」

 楽しそうだな、おい。

「んー、さくらさんを振り向かせるの、難しいなあ……ゲームなら、そろそろ好感度マックスのはずなのに。やっぱりイベントかな」

 いったい、何を言っているんだか。

「ということで、さくらさん。明日は、放課後に図書室で待ち合わせだよ」

 どういうことで?

「図書室?」

「そ。試験前だから」

「ああ……」

 そういえば、勉強がどうとか言っていたっけ。

「俺、待ってるから」

 ったく、強引なんだから。そりゃあ、どうせ暇だけどさ。

「忘れないでね」

「わかった。ちゃんと行く」

「絶対だよ。じゃあ、約束」

「え?」

 小指を差し出してくる彼に瞬間、戸惑う。いったい、どういうつもりなのだろうかと彼の顔をチラリと窺うが、何も言わずに不遜な笑顔を向けられるだけだった。仕方がないので、私はそろそろと小指を立ててみる。

 と、触れそうなところで、まるで絡めているかのように小指が重なった。どうしてだろう。触れられるわけがないのに、なんだか温かい――そんな気がして、何故だか胸の辺りにまでその熱が移ったみたいに、ふわりとしたものがいつまでも私の心を温めていた。


◆◆◆


「待たせてごめん。それにしても早いね、さくらさん」

「そんなことないよ。今来たところだし、大丈夫」

 翌日の放課後、約束通り私たちは図書室にいた。実はずっとそわそわして、一時間も早く来てしまったのだが、そんなことは口が裂けても絶対に言ってやらない。

 念のため、あくまでも一応断っておくけれど、決して早く会いたかったとか、そんなんじゃない。断じて違う。いやほら、遅れてはならないと思って……暇だったし……。

 しかしそんなことを言ったところで、きっと彼は都合よく解釈するに決まっているのだ。だから、余計なことは言わないに限る。彼の先程の言葉をよく考えもせずに、そう誰に言うわけでもなく胸の内でぶつぶつと並べ立てていると、目の前の男子高校生はきょとんと首を傾げた。

「あれ? でも、一時間くらい前には、もうあの桜の木のところにはいなかったよね?」

 なんてことだ。確認されているとは。

「……わ、私だって、いつもあそこにいるなんてことないもの。たまたま散歩していて不在だったところを、見たんじゃないの?」

 我ながら、苦しい言い訳である。挙動不審とは、このことを言うのだろう――目の泳ぐのが、鏡を見ずともわかった。案外、私も平然と嘘なんて吐けはしないものなのだな……。

「じゃあ、散歩しに図書室へ来たの?」

 しかし、私の憂いさえ嘲笑うかのように、優しい声は核心をついた。導かれるように、私は半眼になる。そこに刹那のしおらしさは、もう微塵も垣間見えない。

「……見ていたの?」

「何を?」

 この野郎。しらばくれるつもりか。

「……勉強しないなら、帰る」

 ジト目で浮き上がり、くるりと背を向けると、ガタン――椅子が倒れるのも構わず、彼は慌てて手を伸ばしてきた。

「ごめん、待って。嬉しかったから、つい……もう言わないから、ね?」

 音に反応して、周りの視線がこちらに集まっている。

 気にならないのだろうか――私だけを映す瞳に、一人そわそわしてしまう。

 まったく――私は小さく嘆息して、淡い苦笑を浮かべた。

「わかった。わかったから、さっさと座りなさい」

 図書室の奥の方――割と人が少ないエリア。座る前、数人の女子に声を掛けられていたが、一人で勉強をしたいとかなんとか言って、撒いたようだった。

 落ち着いたところで、私たちは机を挟んで向かい合う形になる。

「それで? まずはどの教科から?」

「そうだな……じゃあ、化学」

「わからないところでもあるの?」

「それほどでもないかな。勉強のコツがあれば、聞きたい」

「コツ?」

 そんなものがあれば、私が知りたかったわ。

「あのね、私は別に天才でもなんでもなかったの。上級生だからって、全部わかるわけじゃないのよ?」

「わかってるつもりだよ。ごめん。そんなに難しく考えないでいいから、ね?」

「むう……」

 笑顔に丸め込まれてしまった。これじゃあ、どちらが年上なんだか……。

「……試験の範囲は?」

「教科書のここから……ここまで」

 ページを捲っていく彼の指に目がいく。綺麗な、長い指だ。

「――周期表は、頭に入っているの?」

「それは大丈夫」

「そう……ちなみに、化学の先生って誰?」

 彼の答えを聞くなり、私は笑ってしまった。

「ああ、その先生の授業なら、何回か覗いたことがある」

「知ってるの?」

「うん、知っている。傾向が、だいたい決まっていてね。ほら、教科書のこういう太字の辺りは、穴埋めの文章問題で出て……そうそう、例題って書いているところも押さえておいた方が良いよ。計算問題は、ひたすら数をこなすことね。それで、対応できるようになるはずだから」

「わかった、それでやってみるよ。そういえば、さくらさんの得意科目って何?」

 私の得意科目か……。

「なんだろう……授業を覗いていて楽しかったのは、数学と古典かな。日本史は好きだけど、どうも世界史は興味を持てなかったし……」

「……数学と、古典?」

 何か言いたそうだな、おい。

「ナニカ?」

「いや、珍しいなと思って」

「そう?」

「そうだよ。じゃあ早速、数学にしよう」

 そう言って、教科書類を取り出す彼。ノートや問題集が次々と出てくる。さすがにデザインは変わっているようで、見慣れないものだった。……厚みってあんなだったかな?

「数学は、公式を覚えてひたすら問題を解くこと。これに限る。教科書よりも問題集があるでしょ? そっちをやった方がいい。私は――」

「……さくらさん?」

 突然に言葉が切れたことを訝しって、首を傾げる彼。私は、何でもないと軽く首を横に振った。

「いや……ふと、思い出しただけ」

「思い出したって、もしかして記憶が?」

「うん……私も、ここで勉強していたなあって。といっても、ずっと数学だけをしていたっけ。教科書を開きもせずに、問題集のテスト範囲のページを、最初から最後まで何回も往復して解いていた。そのおかげか、数学は学年トップだったな。理数クラスを選ばなかったことを、後悔したくらい」

 あははと苦笑してみれば、穏やかな微笑を湛える彼の顔がそこにあった。

「さくらさんも、ここで勉強してたんだ」

「……まあね。学校にいれば、わからないところは先生へすぐ聞きに行くことができるし」

「優等生なんだね」

 感心したような顔を向けられ、私はつい笑ってしまった。

「私が優等生? まさか。まあ、先生はそう思っていたんじゃないかな。フリをしていただけだよ。実際は、そんなことない――授業なんて私、ほとんど聞いてなかったもの」

「え?」

「だって、黒板に書かれるのはほとんどが教科書に連なっているそのままじゃない? 載っていることを読み上げて、書いて……そんなの、一人でだってできるでしょ。ノート提出のある科目は板書を写すけれど、そうじゃない教科は、そもそもノートなんて作らなかった。だって、書く労力とペンとノートがもったいないじゃない。大事だと思った箇所は、教科書に直接マーカーで線を引いておいたり、書き込みをしておけば後で見返した時にわかるし、見ることのないノートなんていらないでしょ。だから、授業中は大抵一人で教科書を読み進めて、例題のあるページは教科書に答えを書き込んで。わからないところがあれば、授業が追い付いてくるのを待った。そうしていると暇な時間ができてしまうから、そういう時は授業を受けているフリをして、別の教科の宿題をやったりして過ごしていたの。どう? 優等生なんかじゃないでしょ?」

 にやりと笑ってそう言えば、驚いたように口を開けていた彼の唇が弧を描いた。

「さくらさんって、カッコイイな」

「あら、ありがとう。でも良いの? 教わるのが、こんなひねくれ者でも」

「もちろん。むしろ、こっちからお願いしたいくらい」

「ならいいけど」

 何がおかしいのか笑った。私たちは笑って、そして図書委員の子に注意されて、またこっそり笑った。

 そうしてきちんと真面目に勉強をして、あっという間に時間は過ぎて行った。

 一週間――彼は一生懸命、勉強に励んだ。普段の授業も真面目に受けていることが窺える、ノートや教科書への書き込み。まあ、時々おかしな落書きもあったけれど。間違い方も勘違いや凡ミスがほとんどで、そこに気を付ければ高得点を取れるだろうことが容易に想像できるレベルにあった。

 ここへ入学するために、勉強を頑張ったと言っていた。その時に培ったのだろうか。彼は、自身の勉強法をものにできているようだった。

「家では、全然捗らないんだ。漫画ばっかり読んじゃう。俺、さくらさんがいないと頑張れないみたい」

 向けられた甘やかな眼差しに、つい浮かれそうになってしまった。

 これは、喜ぶところなのだろうか……考えすぎかもしれない。けれど私は同時に、恐怖も抱いたのだった。

 そうしてテスト期間に入って、今日の試験がどうだっただのと聞きながら、翌日分の勉強を図書室でするということを毎日繰り返した。

 そして、一週間――

「終わった……」

「お疲れ様」

 私たちは、久々に桜の木の下にいた。緑の匂いが、ふわりと優しく吹き抜けていく。ここでゆっくりするのは、本当に久し振りだ。

 テスト最終日――他の生徒たちは試験が終わった解放感から、浮足立つのを隠さずに帰宅していく。今から遊びに行く子もいれば、帰って存分に寝る子もいるのだろう。

「さくらさん、本当にありがとう。勉強いっぱい教えてもらったおかげで、いい結果が出そうだよ」

「それはなにより。でも、君が頑張ったからだよ」

「うん……じゃあさ、頑張ったご褒美がほしいな」

「え?」

 長い睫毛から覗く瞳が、甘い色を帯びてこちらを見つめてくる。その視線に、私の鼓動が誘発されるように跳ねた。

 緊張感が漂う。耐えられなくて顔を背ければ、目を逸らさないでと一言。これも甘やかな声が、私の耳へと吸い込まれた。どれも甘いのに、強い――抵抗という意識が、砂の城のように簡単に崩れていく。

「でも、私にあげられるものなんて……」

 唯一、言葉しかないのに――

「うん。時間はもう貰ってるから。だから、その声で呼んでほしいな。俺の名前」

「名前……」

「そう、名前。呼んで、レオって」

 レオ――胸の内で彼の名を呟いてみる。どうしてだろう。たった、たったそれだけなのに、胸が締め付けられる――

「ねえ、言って……」

 強請る声が、甘える声が、囁く声が、私をじわりと染め上げる。熱くて、頭がいっぱいになっている。鏡など見なくてもわかるほどに、今の私は茹でたタコだ。

「お願い……」

 耳元でそんな声を出さないで……どんどん言えなくなってしまう。吐息が熱い。こんなの知られたくなくて、私は逃げようとした。けれど、彼の声がそれを許さない。

「行かないで、さくらさん。逃げないで……大丈夫、俺たちしかいないから。俺しか見てないから、恥ずかしがらないで」

「っ……」

 どうしてなんだろう。こんなにも、そばにいることに慣れたのに。

 どうしてなんだろう。名前を言うだけなのに。

 どうして……それが、できない――

「さくらさん、人に慣れてないの?」

 そうなのかな?

「可愛い……真っ赤」

 うるさい……。

「……いいよ、無理しないで。今日は、その顔が見られただけで満足だから」

 いったい、どんな顔をしているっていうのよ……。

「……やっぱり、君は意地悪だ」

「うん。さくらさん限定でね」

 翻弄されて、甘やかされて、崩されて。

 溺れて、呑まれて、染められて。

 そうして、いつか……。

「本当に、いい天気だね」

 まだ昼の青い空を見上げる彼が、にこやかに笑う。天気だって? 私は今、それどころじゃないっていうのに。私はムッとして、吐き捨てるように言葉を投げた。

「暑いくらいよっ」

「ふっ……ははっ」

 言葉の意味を察した賢い彼が、肩を震わせて笑った。その様子に、またカチンとくる。

「笑ったなー!」

「だって……」

 クスクス笑う彼に悪戯心が芽生えて、私は震える口を開いた。

「レオくんのバカ、意地悪っ」

「っ……!」

 その瞬間、耳や首まで真っ赤になる彼の顔を見て、してやったりの私。しかし浅はかだったと、すぐさま思い知らされた。

「さくらさん」

「え、あ、えっと……」

 じりじりと迫ってくる彼。その目は、据わっている。思わず、両手を彼との間に上げた。触れられなどしないのだから、何の牽制にもならないというのに。

「さくらさん……」

 桜の木との間に挟まれて、身動きができない。いや、本当は逃げられるというのに、頭の回らない私は、その場で縮こまってしまった。彼の唇が、耳元へ迫る。

「わかってて、やってるの? 俺を弄ぶのが上手いね」

 耳に吐息と、いつもより低い彼の甘やかな声が、ダイレクトに届く。肩が跳ねた。

「ひっ……そ、んなこと……」

「違うって? 素でやるなんて、いったい何のつもりなんだか……男を舐めない方がいいよ」

「んっ……」

 心臓が破裂しそうな感覚に襲われる。

「ねえ、もう一回言って」

「無理……」

「何で? さっき言ったじゃん。バカ、だっけ?」

「も、む、無理……」

「ダメ、もう一回……じゃないと、放してあげないから」

「うう……」

 私は、戸惑いながらも覚悟を決めた。このままだなんて、その方が無理だ。そんなの、もう一度死んでしまう。

「れ……っ……」

「うん……」

 緊張しすぎて、上手く言葉にならない。けれど彼は、優しく待ってくれていた。私は頭のどこかで、そんなふうに優しくするなら退いてくれたらいいのにと思いながらも、深呼吸して彼の目を見つめた。

「れお、くん……お願い、もう、心臓壊れちゃうよ……」

 心臓など動いてなんかいないというのに、どこのぶりっ子かと泣きそうになる。しかし彼は、固まってしまったかのように動かない。

「え、と……?」

 戸惑っていると、彼は突然しゃがみ込んだ。

「あー、もう! さくらさんって、本当にズルい!」

 それだけを言って下を向いた、その真っ赤な顔を片手で押さえている。顔を覗こうとすると、フイっと背けられた。

 ……なんだろうか、これは。

 おかしくておかしくて、込み上げてきたそのままに笑った。彼もつられるように、笑っていた。

 余計なことなど考えず、気付くことなく、こうやっていつまでも笑っていられたら。

 彼が笑ってくれていたら。

 二人で、ただ笑いあえていたら。

 それだけでいいのに。他には何も望まないのに。

 時は、無情にも過ぎていく。

 私たちの火照った顔を撫でるように、風が優しく吹き抜けていった。

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