きみにふれたい

広茂実理

第1話 偽りの4月

 カチリ――どこからか、そんな音が聞こえた。

 視界に色が咲く。

 世界は、こんなにも光に溢れていただろうか――


「初めまして」

 穏やかな陽光が降り注ぐ、高校の桜の木の下。視界の隅で、遅咲きのピンクの花びらが、風に乗ってふわりと舞う。そんな中で、突然に声を掛けられた私は、ひどく戸惑っていた。

 思わず、辺りをきょろきょろと確認してしまうものの、どうやら今の言葉は私に向けられたもので、間違いないらしい。その事実が、更に困惑を誘う。

 おそるおそる、口を開いた。

「……初め、まして」

 驚きから、なんとかそう返すだけで、いっぱいいっぱいだった。そんなことが実際に起こるわけがないというのに、心臓が胸の奥で跳ねて、うるさく存在を主張している。

 それもそのはず――声を掛けてきたのは、画面の向こうでも見たことのない、目の覚めるような、いわゆるイケメンの爽やかな男子高校生だった。

 教師よりも上なのではと思わせる高身長で、雑誌で見るモデルのように脚が長い。ハーフだろうか。すっと高い鼻梁、くっきりとした二重まぶたに、長い睫毛から覗く切れ長の茶色い瞳。サラリと揺れる、明るめの茶髪がよく似合っている。声はもっと聴きたくなるような甘やかなもので、向けられる笑顔はアイドルのようにキラキラと輝いていた。少しはにかんだようなところに、可愛らしさを抱かせる。

 今日は、この学校の入学式だ。

 ということは、非常に信じられないが、この子はついこの間まで中学生だった、この春からの新入生であるわけだ。

 こんなイケメンがいたなら、学校中の噂になっているどころか、女子たちが放っておくはずがない。今この時だって、遠巻きに女の子たちが彼を見ている。この私が、今までその存在を知らなかったのだ。在校生であるはずがない。

 一般人ではないと言われた方がしっくりくるような、そんなオーラを放つ新入生を前にして、私は妙に冷静な頭でそのようなことをつらつらと考えていた。だが、彼の次の言葉に思考が停止する。

「貴方に一目惚れしました。俺と、付き合ってください」

 風が凪いだ。まるで、時が止まってしまったかのようだ。私は瞬きを忘れて、ただただ目の前の彼を見つめる。

 自分が今どんな顔をしているのかなんて、微塵も意識が向かない。

 こちらへと、まっすぐに向けられる視線。緊張から、少し揺れた声。漂う空気――それらすべてが、彼の言葉は冗談などではなく、真剣なものだと私に告げている。

 まさかまさか。こんなことが、現実にありうるというの?

 誰がどう見てもイケメンの男子から、高校の入学式の日に告白されるなんて、こんなシチュエーション――まるで、頭がお花畑の夢見る妄想。非現実だ。

 そう――まさしく、私の嫌いな少女漫画のように。

 それなのに、どうしてだろう……ときめきで、胸が痛いくらいに締め付けられる。顔が熱い。彼から目が離せない。

 普通であれば、喜んで彼の手を取るのだろう。心に決めた相手がいたなら別かもしれないけれど、それでも大抵の女の子には、まず断る要素がこれっぽっちも見当たらないはずだ。


 そう、普通ならば――


 思った刹那、心がスッと冷えていくのを感じた。私は、無感情な瞳で頭を下げる。

「ごめんなさい。君とは付き合えません」

 初めて会ったのだから、彼のことはよく知らない。でも、それが理由ではない。心に決めた人もいない。

 正直、彼の容姿や先程から見せる仕草は、私の好みのそれだ。単純に考えられる状況ならば、手放しで喜んでいただろう。告白は嬉しい。そう思える。

 それでも、この申し出は受けられない。この私が、受けていいはずがない。

 だって、私は――

「もう死んでいるから、無理です。ごめんなさい。さよなら」


 ――この学校に囚われた、幽霊なのだから。


◆◆◆


 広がる景色に、目を細める。

 暖かな風が悪戯に吹き、芽吹いた花びらをそこかしこへ散らした。晴れたり雨が降ったりと、最近の雲は忙しない。行き交う人の服装も、随分と身軽になったようだ。

「春だねえ」

 そんなことを呟き、私は見慣れた景色から目を逸らす。

 ぱさりと揺れる長い黒髪が、視界を塞いだ。それを耳にかけながら、溜息を一つ。それは、いつもの退屈によって生まれたものではなかった。

 どうやら、今日は始業式のようだ。

 春休みの静けさを打ち消すように、生徒たちの賑やかな声があちこちから聞こえてくる。私は、いつものように学校の桜の木の枝へ腰掛けながら、久々に登校してきた学生たちを見下ろしていた。

 ……あの子は、この中のどこかにいるのだろうか――無意識に目が探していることに気付いた瞬間、私はぶんぶんと首を横に振っていた。

 どうして思い浮かべてしまうのだろうか――ふとした瞬間に考えているのは、入学式に会った彼のこと。

 後悔などしていない。私は幽霊なのだから、人と恋愛などできるわけがない。

 そう――私は、もう生きてはいないのだから。

 蘇った数日前の記憶を払うように、私は目を閉じた。


 ――あれは、十年前のことだった。気が付いたら、私はここにいた。すぐさま自分に肉体のないことを察した私は、その理由が知りたくて記憶を辿った。

 しかし、自分が病気だったということと、この学校の三年の生徒だったこと。そして、名前……。それ以外に、覚えていることはなかった。何一つ、思い出せなかったのだ。

 そうして、そこかしこを彷徨って、この高校の敷地内から出られないということを知った。どうしてこの場に囚われているのか、それは私にもわからない。失ってしまった記憶の中にヒントがあるような気がして、当時は想起に繋がる何かがないか、学校中をくまなく探したものだ。

 しかし、それもいつしか止めてしまった。諦めた。何一つ、欠片さえ見つけることができなかったからだ。

 得たことといえば、ただ一つ――何にも触れられず、誰の目にも映らない、そんな虚しいリアル。

 一人だけ長い永い夢を、覚めることのない悪夢を見続けているかのよう――いや、そもそも夢だったならば、どんなに良かったか。

 これが現実――ならば、こんな空虚な思いを抱いて、これからどうすればいいのか。何のために、自分はここにいるのだろうか……。考える時間は、たくさんある。それが幸か不幸かは、思考し続けた先に決めればいい。どうせ、誰にも干渉されることのない、籠の中の自由なのだから。

 それから私は、ずっとこの枝にいる。こうして、大きな優しさに甘えている。この木が許可してくれたから。ここは唯一、私が体を預けることを許せる場所だ。

 何もせずにただここで、流れる時を見てきた。毎日、時を刻み数えるという、途方もなく無意味なこと。それだけをこの十年間、止め時を失った私はずっと続けている。

 それが、ただ空虚感を煽るだけと知りながらも――

「もう、あれから十年か……」

 誰に言うわけでもなく呟いた声は、届かず消える――そのはずだった。

「十年間、ここにいるの?」

 突然聞こえてきた声に、動くわけもない心臓が跳ねた。

「良かった。また会えた」

 木の下には、眩しい笑顔。間違えるはずがない。入学式の時の、あの子だ。

「どうして……」

 どうして、ここに?

 どうして、笑っているの?

 どうして、そんなに嬉しそうにしているの?

 どうして……あの日、傷ついた顔で愕然としていたくせに――

「あの時どこかに消えちゃったから、もう会えないかと思った」

 心底嬉しいとでも言うかのように、彼は満面の笑みで私を見上げた。向けられる眼差しに、いっぱいの想いが詰め込まれている。

 その視線に、ぎゅうっと胸の辺りが苦しくなった。していない息が、しづらい。

 目を逸らすこともできず、たくさんの「どうして」をぐっと呑み込んで。私は、彼の目の前まで下りて行った。呑んだものよりも、言わないといけないことがあると思ったからだ。

 そんな呆れなど微塵も勘付いていない様子で、彼は私が近付いたことに更に笑みを深くした。

 イケメンの無邪気な笑顔って、可愛い。破壊力がある……じゃなくて!

「君は、私が幽霊だってことを、ちゃんとわかっているの?」

「もちろん」

「そ、そう……」

 笑顔であっさりと肯定されたことに、出鼻を挫かれる。

 この子は、私が呆れていることに気付いていないのだろうか。人の気持ちを汲めない子なのだろうか。鈍感なのだろうか。もしもわかっていてやっているのなら、質が悪い。

 そんな考えが、顔に出ていたのだろう。彼は、少し慌てた様子で言葉を継いだ。

「怒らないで。確かに時々、生きている人か幽霊なのかがわからないこともあるけど、今回はちゃんとわかってるよ」

「……わかっていて、あんなことを?」

「あんなことって、もしかして告白のこと? そんな言い方、しないでほしいな。めちゃくちゃ緊張したし、真剣だったのに」

 ムッとした顔で、拗ねたように言う新入生。どうも、外見がこれなので忘れそうになってしまうが、改めて彼が私より年下なのだという事実を認識させられた。

「それは、ごめんなさい……だけど、尚更理解ができない。私が幽霊だとわかっていて、付き合ってほしいだなんて……」

 彼の方が私よりも背が高いので、自然と見上げる形になる。すると、もう機嫌が直ったのか、無邪気な瞳と視線がぶつかった。

「理解できないなんて言われても。好きな人に好きって言うのに、説明や理由が必要なの?」

「――え……」

 言葉を失うとは、こういうことかと思った。ダメだ。このままだと、呑まれる。

「そ、それは……生きている人の話でしょ。もう死んでいる人間を口説いて、どうするのよ」

「そんなこと言われたって……。だって、好きになっちゃったんだから、仕方ないでしょ?」

 眩しくて、自信たっぷりの笑顔。偽りのない気持ちをぶつけてくる言葉。

 いったい、どうすれば諦めてくれるというの? こんな意味のないことの終着点は、どこ?

 そう私が戸惑っていると、彼は頭の後ろを掻きながら、構わず話し続けた。それはどこか照れくさそうで、口はまったく挟めそうにない。

「俺、中二の時に進路とか、まあ、いろいろ悩んでいた頃に、この学校の前まで来たことがあるんだ。気分転換に散歩をしたかったのと、学校の雰囲気を見ておきたいなと思ったのが理由なんだけどね。その時だよ。この木の枝に座っていた貴方を、見つけたんだ」

 知らなかった。この木は割と正門から近いのに、まったく気付かなかった。

「その姿に、一目惚れした。だから、この学校を志望したんだ。でも、当時の学力じゃギリギリだったから、それからめちゃくちゃ勉強した。貴方のそばにいたくて、努力して、それでこの学校に入学したんだ」

 ああ、もう……どうして、そんなに真剣な目で私を見るのだろうか。困る。困るのだ。やっと、今の環境に慣れたのに。掻き乱されそうで、呑まれそうで、翻弄されそうで、私は……。

「入学式の日にやっと貴方を目の前にして、そばに立つことができて、すごく嬉しくて。ようやく、ここまで来れたって思って、真剣に告白したのにさ……なのに、貴方の返事は幽霊だからダメ、だもんな」

 数分前の自分に、彼に呆れていた私に教えてあげたい。侮っていた年下の彼は、人の気持ちを汲めない子でも、鈍感でもない。むしろ、私に怒ってさえいる。年齢にそぐわない、妙に賢い思考で言葉を放つ。それが違和感で、なんだか気になった。

「しかも、それだけ言って消えちゃうなんて、ひどいと思うんだけど。俺、かなりショック受けたし、落ち込んだし。フラれたって思ってさ、ご飯の味もわからなかったんだからね」

 ……ご飯は食べたのね。って、そうじゃないか。

「でも、その後考えたんだけどさ。俺、まだフラれてないよね。幽霊ってことを気にしているのなら、俺は構わないよ。貴方といられるなら、手も繋げなくていい」

 ――え?

「いや、あの……理由は何であれ、私は断ったよ、ね?」

 だから、まだフラれていないとか、よくわからないポジティブなことを言われても困るんですけど……。

 そう私が戸惑っていると、目の前の彼はきょとんとしていた。

 どうして、びっくりされるの? 驚いているのは、こちらなのだけれど。

「え? 何で? もしかして、俺のこと嫌い?」

「え、いや、そんなことは……」

 嫌いかと聞くのって、ズルい人がすることだと思う。わかっていてやっているのだろうか。

「幽霊ってことを抜きにしても、俺じゃダメ?」

「……」

 しゅんとする彼に、思わず手を差し伸べたくなってしまった。

 困った。返す言葉が出てこない。ただ一言「そうだ」と、突き放してしまえばいいだけなのに。

 早く、早く言わなきゃ……。そう思うのに、どうして声が出ないのだろう。

「……そうだよね。いきなり現れて、こんなのおかしいよね。ごめんなさい、困らせて……つい浮かれちゃって、はしゃぎすぎた」

 今度は、先程までとは打って変わった、弱々しい声。どうやら、彼なりに反省したらしい。傷付いた顔を見ていられなくて、私は目を逸らしてしまった。なんと声を掛ければいいのか、わからない。

「じゃあさ、恋人じゃなくていい。三年だけだと思って、友達としてそばにいることを許してよ」

「え――」

 なんてことを言うのだろう。そして、私は彼になんてことを言わせてしまったのだろう。私は、衝撃に言葉を失ってしまった。俯いていた彼の顔が、見開いた私の瞳を捉える。

「ごめんなさい。俺、ひどいことを言ってるって、わかってるつもりだよ。これから三年間ずっとそばにいて、そして貴方を残して一人だけ卒業していなくなるんだから。こんなの、自己中なワガママだ。だけど、どうしても諦められなくて……だから、お願い……」

 ああ、そんな風に泣きそうな声で言うなんて、本当にズルい。

 この子はやっぱり、妙に大人びていると思う。そして時々、幼い子どもになる。

 ワガママな、年下の男の子。

 表情がころころと変わって、見ていて飽きないのだから不思議だ。

「そうね……」

 三年で終わる関係――いや、そんなに続くかどうか。だって彼の周りには、綺麗な子も可愛い子もたくさんいるだろうし。いつかもっと素敵な人と出会って、真っ当に生きるのだろう。その時が来たら、私は寂しいと思うかもしれないだろうけれど、そうあるべきなんだ。こうして私に気持ちが向いているのなんて、一時のことだろうし。

 それでも、こんなに想ってもらえることは正直嬉しい。好意を向けられるのなんて、いつぶりだろうか。

 人と話したのだって、十年ぶりだった。だからだろう。入学式の日から、彼のことを忘れられなかったのは。

 私だって、彼との時間をどこかで楽しんでいる――だから、いいかもしれない。どうせ一人で過ぎ行くだけの、惰性の日々だ。退屈に流れた十年間に、ちょっとした彩りが添えられるだけ。そうして、また元に戻るだけ。

 終わるとわかっている関係――孤独感に今更傷付いたところで、そう……構いやしない。

 生前の私が何をしたか知らないけれど、これも何かの罰なのかもしれない。

 それに、ここで断ったとしても、どうせ構わず今日みたいに現れるだろうということが、容易に想像できてしまった。

「わかった。好きにすればいい。どうせ、私はこの学校から出られないのだから」

 そう言うと、彼は満開の花のように、嬉しそうな顔で笑った。

「本当に? ありがとう! あ、そういや、まだ名前も言ってなかったね。俺はレオ。黒崎礼央くろさきれおだよ」

「……さくら」

「さくら……綺麗な名前だ」

 さあっと風が吹いた。春の風は、どうしてこう悪戯なのだろうか。花びらを乗せて、彼の笑顔を更に煌かせる。

 すとんと、落ちる音がした。

 恋って、するものじゃないんだね。死んでから知るとは、思わなかったよ。

 学校のチャイムが鳴り響く。シンデレラにかけられた魔法が解ける時間を、告げるみたいに。

「もう行かないと。また来るから。またね、さくらさん」

 そう言って、彼は足早に校舎へと駆けていく。時折振り返りながら、ブンブンと大きく手を振って。

「騒がしい子……」

 思わず、くすりと笑みが零れる。もう姿も見えないというのに、私は彼が消えていった校舎の入り口を、ずっと見ていた。

 しかし、ふっと去来した想いに、今度は嘲笑する。

「滑稽ね……」

 この日私たちは、互いと自らを偽った。エイプリルフールでもないというのに。


◆◆◆


「ねえ、さくらさん。学校を案内してよ」

 次の日の放課後。いつものように桜の枝に腰掛けていると、彼が息を切らしながらやって来た。その様子に、断る言葉が見つからない。

 どうせ、昨日の今日だ。来るだろうとは思っていたけれど、まさかチャイムが鳴った直後に現れるとまでは、予想していなかった。

「ねえ、さくらさん。お願い」

 お願いってなんだよ、可愛いなあ。

 わかった。わかったから見ないで。お願いだから、そんなキラキラした目で見ないで。

「十年もこの学校にいたら、詳しいよね。校舎デートしよう」

「……デート? 君は、友達とデートするの?」

 尋ねると、刹那逸れる瞳。これは、痛いところを突いてしまっただろうか。

「するかもね。いいから行こう」

 まあいいか。溜息を一つ吐く。私は腰を上げて、彼の目の前へと下りていった。

 歩き出す彼に、並んで進む。グラウンドや校舎内では、あちこちで様々な部活動が新入生を獲得しようと、アピールしていた。その様子を横目に、喧騒から離れていく。

「入学式の時も、チラシみたいなの配ったりしていたよね。いつも大変なことで。そういえば、君は部活見に行かなくて良いの? 確か、今って仮入部期間でしょ?」

 思ったことを率直に聞くと、途端に彼の唇が尖った。

「あー……バスケ部とかバレー部とか、教室にまで来たな……」

 それはそれは。他の生徒より、頭一つ分出るくらいの高身長だもんね。欲しがるだろうなあ。

「後は、軽音部とか」

「へえ? 音楽をやっているの?」

「カラオケは好き。だけど、楽器はやってないよ。木琴とかシンバルとかを、音楽の授業で触ったことがあるくらい。そりゃあ、ギターとか興味ないわけじゃないけど……」

 ギターも良いけど、このルックスならボーカルだな。センターに立っているだけで、ファンになりそう。それにこの声……一度、歌声を聴いてみたいものだ。

「確か、演劇部も来てたな」

 ああ、舞台映えしそうだもんね。王子役とか騎士役辺りが似合いそう。

「どこもかしこも、顔と身長だけ見て……」

 ぼそりと呟かれた声は、面白くないといった色を含んでいた。

 読心術とまではいかないが、どうも私はこの十年でいろいろな人のことを見てきたせいか、その色に含まれた言葉を容易に想像できてしまうようになっていた。

 こんなルックスで、人が寄ってこないわけがない。誰もが羨むその容姿は、しかし本人に言わせれば「望んだわけじゃない」のだろう。

 いったい、今までどんな環境に身を置いていたのだろうか。そして、何を身につけてきたのだろうか。時折見せる、大人びた年齢不相応の違和感が、その答えなのだろう。

「それにほら、部活なんて入ったら、さくらさんと会う時間がなくなるし」

 そうですか。別に、嬉しくなんてないんだからね。

「だから入らない。ということで、見に行く必要もなし」

「ふうん?」

 まあ、帰宅部の子なんて珍しくもないしね。この学校、その辺自由だから。

「さくらさんは? 何か部活、入ってたの?」

「さあ……覚えてない」

「え?」

「覚えていないの。さくらって名前と、病気だったことと、この学校の三年生だったこと以外は、何も」

「そっか……」

 話しながら、校舎内に入ってすぐの階段を上がる。上から行くのだろうか。最上階である四階の、一年生の教室が並ぶ廊下を歩いた。

「じゃあさ、これからいっぱい思い出を作ろう」

 彼が歩くままついてきた先は、とある教室。中に入ったかと思えば、おもむろに席に着いてこちらを見上げてくる彼。廊下には数人の生徒がいたが、この教室内では二人きりだった。私は、怪訝な顔を彼に向ける。

「思い出?」

「そう。俺たち二人の思い出。さくらさんの、学校の思い出。……ねえ、覚えて。ここが、俺の席。一年五組の、この席だよ」

 そんなものを覚えて、いったい私にどうしろというのだ。まったく、どうしてくれるんだ。胸が締め付けられる。

「もっと、さくらさんのことを、たくさん教えて。好きなものや嫌いなこと、笑った顔や怒った顔も見せて。それで、いっぱい俺のことを知って」

「……どうして」

「好きだから。好きな人のことは何でも知りたいし、知ってほしい」

 開けっ放しの窓から風がふわりと入ってきて、カーテンと私の心を揺らした。

「君は、とてもワガママで、残酷な人だね」

「うん、そうだよ。さくらさん限定だけどね」

 本当にやめてほしい。私は、泳ぎが得意じゃないの。このままじゃ、溺れてしまう。

「さくらさん」

 そんな優しい声で、呼ばないで。

「好きだよ」

 そんな嬉しそうな顔で、囁かないで。

「……知っているよ」

 だって私は、それだけしか言ってあげられないのだから――

「うん。それでいいんだ。それで……。よし、校舎探検に行こう」

 妙に明るい声を出して立ち上がり、教室の戸を開けて廊下へと出て行く彼。その背を見つめて、私は声も出さずに呟いた。

 ――嘘吐き。

 一個覚えたよ。君は嘘を吐く時、私の目を見ないんだね。

「さくらさん、どうしたの? 行こう」

 ついてこない私に気付き、顔だけひょっこり戸から覗かせた彼が、無邪気に誘う。その姿からは、先程までの空気は消えていた。

「……今行く」

 私が追いつくのを待って、彼は歩き出す。今気付いたが、彼はゆっくり歩いてくれていた。これだけ長い脚だ。歩幅もさぞ大きいだろうに。それが私のためであり、私とできるだけ長く一緒にいるためなのだろうかと想像すると、こそばゆい気持ちになった。

 気取られたくなくて、視線を周りへ向ける。廊下には変わらず、ちらほらと生徒たちがいた。彼が視界に入ると、無意識にその姿を目で追っている。やはり、この容姿は目立つのだ。その中で、一人の女子生徒が彼に気付き、笑顔を向けた。

「黒崎くん、どこかに行くの?」

「うん。じゃあね」

「えっ、あ……うん。またね」

 同級生らしき彼女に話し掛けられたというのに、彼は足を止めることなく手を振って歩いて行く。結構、可愛い子だったのに。もっと喋りたそうだったよ? それなのに、素っ気なくして……。

 私の視線に気付いたのか、彼が目線だけをこちらへ向けてきた。この何げない仕草さえ様になるのは、どうにかならないものだろうか。

「やっぱり、モテるんだね」

「そうかな」

「そうでしょ。さっきの子、すごく可愛かったのに。良いの?」

「良いも何も……今は、さくらさんとデートしてるのに。他に時間を取られるなんて、あり得ないよ」

 左様ですか。

「それとも何? 俺は今、試されていたのかな?」

「え?」

「俺はさくらさんが好きって言ってるのに、そんなこと言われるなんてって怒って良かったのかな?」

 怒って良いの? だって……もう怒っているくせに。

「わかった。私が悪かったよ。もう言わない」

「本当に、わかってくれてるのかな?」

 唇を尖らせて言うんじゃないよ、まったく。何しても格好いいくせに、何しても可愛いなんてどういうことだ。

「ま、いっか」

 何が楽しいのか、笑って。傍目には一人で校舎内をぶらつく彼は、隣校舎へ向かったり、普段は滅多に行くことのない廊下の端まで足を運んでみたりしている。そうして、どこに何があるのかを確かめつつも、あれが変だとかこんなものがあるだとか、目に映る一つ一つを私に報告してくる。同じものを見ているのだから言われなくてもわかっているのだけれど、なんだかそんな様子が微笑ましくて、私も案外楽しんでいた。

「なんだ。誰がはしゃいでいるのかと思えば、黒崎か」

「先生……」

「何をやっているんだ? こんなところで。遊んでいないで、部活の見学に行くか、帰って予習復習するかしろよ」

 通りかかった教師に声を掛けられ、ピタッと動きを止める彼。男は、そのまま通り過ぎて行った。

「怒られちゃったね」

 別に怒られたわけではないと思うが。

「行こうか」

 さっきの担任なんだ、などと言いながら外へと向かって行く彼。子どものようにはしゃいでいたのを見られて気恥ずかしいのか、誰にも内緒だよと人差し指を口元に当て悪戯に笑ってみせる。内緒も何も、私の声なんて他の人には届かないのに。そんなことを言う余裕さえ、与えられてはいなかった。

 実体がなくて、良かったかもしれない。私の身が持たない。心臓がいくつあっても、足りやしない。これからこんな日々が続くのかと思うと、頭を抱えたくなった。翻弄なんて言葉じゃ温いくらいに、侵されていきそうだ。

「さくらさん」

「何?」

「何でもないよ。呼びたかっただけ」

 無邪気とは、なんて恐ろしい言葉だろうか。これで悪気がないのだから。まったく、困った子どもに捕まってしまったものだ。

 そして私も、ほとほと困った人間だったらしい。わかりきった未来が待っていると知っているのに、禁断の果実の甘美な香りに抗えず、誘いの手を取ってしまったのだから。

 後で泣くのは、私なのに。なんて愚かなピエロだろう。この時は、頭の隅でそう思っていた。微塵も疑うことなく。未来など、見えるはずもないというのに。

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