第6話 妹

夕飯時。


「…………」

「あのー、茜ちゃん?」


 俺の目の前で、いかにも不機嫌そうにご飯を咀嚼しているのは、我が妹である茜ちゃん。


 普段は、ぱっちりとしたお目目に愛嬌のある笑みを浮かべるとてもかわいらしい妹なのだが。

 口をへの字に曲げて、ご飯には目もくれず、じとーっと俺の事を睨んでくる。


「おー、この豚キムチうまいな。うん、そこら辺のお店に行くなんかより、断然うまい! よっ、さっすが茜ちゃん!」

「…………」

「あー。えっとぉ……」


 くそ、おだてて元気にさせよう作戦は失敗だ。さっきより表情が険しくなっている。

 大抵料理の事褒めてれば茜ちゃんは機嫌よくなると思ったんだけどなぁ。

 

 長年連れ添ってきた妹の事だ。茜ちゃんが何かしら不満に思ってることがあるってのは理解できる。兄として当然のことだ。


 だけれど、その内容まではこの道十五年の俺でも全く見当がつかない。そもそも、見当ついたら不機嫌にはさせない。


 ぴりついた雰囲気はごめんだし、茜ちゃんといる時は心安らぐ時間がいい。さっさと機嫌を直してほしいところだ。

 でもなぁ、茜ちゃんなーんもしゃべってくれないし。

 

 ……いや、まだ俺が悪いと決まった訳じゃない。


 なんでもかんでも自分に原因を求めるのはある種傲慢な思考である。茜ちゃんに対して後ろめたいことなんてなんもないんだから、俺がびくびくする必要なんてない。


 フッフッフー、ここはお兄ちゃんとして茜ちゃんに構ってあげないとな!


「どうした茜ちゃんそんな暗い顔しちゃってー。悩みがあるならお兄ちゃんがなんでもきいてやるぞ? そうだ、今日は夕飯食った後にでも一緒にゲームしよう。最近ハマってるゲームがあるんだけど、ダンジョンの謎解きが難しくてなー、それでもよけりゃあ……ひいっっ!」


 俺のフォローもむなしく、不機嫌なままな茜ちゃん。というか……


 これ、さっきより悪化してないか?!


 目つきはより鋭く、ぎりぎりと音が立ちそうなほど奥歯を噛みしめていて、どす黒いオーラを放つ。

 さっきから貧乏ゆすりでガタガタと震えるテーブルが茜ちゃんの怒りと共鳴してて、より迫力が増してた。

 やめたげて! その手に握ってる箸にはなんの罪はないからぁ! これ以上強く握らないで!


「えっと、茜ちゃんが望むなら、別のゲームでもいいから、ね?」

「………………………………はぁ」


 静かに箸を置いた茜ちゃんは、呆れ混じりのため息。

 未だご機嫌斜めのようだが、反応があっただけ一歩前進だろう。……やっぱり後退してる気がする。


「あのさぁ、お兄ちゃんさぁ、言っておきたいことがあるんだけど」

「お、おう? なんだ? お兄ちゃんになんでもいいなさい」

「あたし別にゲーム好きじゃないんだけど」

「あー、じゃあトランプでも……」

「まずその程度でご機嫌を取ろうとするお兄ちゃんの浅はかな考えが気に食わない」

「ぐぅ……」


 茜ちゃんの激おこスイッチが入ったようで、ムッとした顔で言葉を続ける。


「お兄ちゃんてそういう所あるよね、甘いもの与えとけばいいだろ、とか、テキトーに褒めとけば大丈夫だろうとか。そういうところがダメなんだよ、詰めが甘いというか、全体的に雑」

「あ、はい……」


 その言葉を皮切りに、茜ちゃんの猛攻が始まる。


「そういえば、昨日夜中に起きてたよね? 何してたの?」

「……なぜそれを知っている?」

「で? 何してたの?」

「え、いまそれは関係ないんじゃ……」

「言って」

「はい」


 長年のカンが言っている。口答えしてはいけない、と。


「えっと小腹が空いてたから、ちょっとばかし、ね」

「なにたべたの?」

「えっと、それは……」


 俺は目をそらす。なぜなら後ろめたいからだ。

 バンッ! とテーブルをたたく音がした。


「早く」

「はい」


 そんな誤魔化しは無意味だと悟った。


「棚に合ったカップ麺を……」


 ほんとはカップ焼きそばも食べた。合計二つだ。


 俺の答えに見当がついていたのか茜ちゃんは驚く様子もなく、呆れたようにただ溜息をひとつ。


「はぁ……」

「ごめんなさい」


 深夜のカップ麺は、茂上家の禁則事項に定められている。


 俺はこの不条理な規則に反対したのだが、茂上家最大勢力の一人である茜ちゃんが頑として撤廃を認めてくれない。

 だから、俺は茜ちゃんに見つからないようにこっそりとカップ麺をいただいているのだ。

 因みに俺の部屋へと好みのカップ麺を定期的に密輸している。


 いくら反対されようと、これだけはやめられない。むしろ、その罪悪感はスパイスとなり深夜のカップ麺の魅力が増すのだ。


「あー、もしかしなくても茜ちゃんが不機嫌なのって、それが原因?」


 余裕で心当たりあった。

 とりあえず謝っておこうと思った矢先、茜ちゃんが言葉を被せてくる。


「別に、あたし不機嫌じゃないんだけど」

「えー」


 いや、どう考えても不機嫌だし、なにを意地になってるんだろうかこの妹は。


「なに?」

「なんでもありません、茜ちゃんはこの上なく上機嫌です」


 バンッ!


「さぁせん! 二度と舐めた口ききません」


 全力の平謝りだった。

 だが、そんなことで、茜ちゃんの怒りはとまらない。


「それに、この際だから言うけどまだお兄ちゃんに言いたいことがあるんだけど」

「え、まだあるの?」

「自覚ないの?」

「思い当たる節は……。いくつかあります」

「靴下うらっ返しで脱ぐし、制服ハンガーに掛けないし」

「自覚してるから! 気を付ける気を付けます」


 やばい、この辺りで話を切っておかないと長いぞ。


「寝巻きもたたまないで脱ぎ捨てるし、空きカン洗わないで捨てるし」

「……えーっと、まだ続きます?」



  ※※※※



 そしてその後、茜ちゃんはお風呂入りに行ったからやっと解放されたかと思ったら、そんなこともなく。


「帰るの遅くなるってのも言わないし、急に夕ご飯要らないって言われても困るんだからね」

「あー、はいはい。気を付けるよ」

「もー、全然真剣に聞いてないでしょー」

「そんなことない、聞いてる聞いてる」

「ゲームから目を離さないまま言われても信じられないんですけどー」


 すると茜ちゃんは、クッションを枕に寝っ転がったまま、げしげしとリビングテーブルの下で俺の足を攻撃してきた。


 夕飯を食べ終わった後、俺は今日課せられたミッションである、脚本の構想へと着手……、する前にとりあえずスマホゲーのスタミナを消費していた。

 いやはや、昨今のスマホゲーはバカにできませんな、こんなクオリティが高いアクションがスマホでプレイできるとは。


 いやほら、スタミナ消費はやらないといけない事だから、食休みを兼ねて、ね?

 食後は消化にエネルギー持ってかれて集中できないからね、うわお、なんて効率的!


 そんな感じでリビングでごろごろしていたらお風呂から戻ってきた茜ちゃんが、ずぅーっと俺に対して文句をぐちぐちと言ってくるのだ。

 

 まあ、それでも湯船のリラックス効果は偉大だったのか、茜ちゃんの態度はだんだんと軟化してきている。


 そして、いつの間にか自然とお互い口数が少なくなっていき、気が付くと茜ちゃんから規則的な息遣いが聞こえてきた。


「眠っちまったか……」


 言いたいこと言ったら、そのまま疲れて寝ちゃうなんて、いつまでたっても子供だな。


 茜ちゃんは普段から気を張って、疲れてしまっているんだろう。


 両親の帰りが遅くて、俺は頼りないと思ってるもんだから、家のことは自分でなんとかしようと、背伸びしているきらいがある。


 茜ちゃんはまだ中学生なのに、しっかりしすぎだな。


「……ぅんっ」


 感謝の言葉のかわりにと、茜ちゃんの頭を撫でてやるとくすぐったそうに身じろぎする。


 それにしても、こうやって黙ってるとかわいいもんだ。

 いや、そもそも茜ちゃんはかわいいな。


 このまま静かに寝かせてやりたいが、風邪ひくし、安眠できないだろう。

 それに、このまま放置するときっと明日がうるさい。


「茜ちゃん? 眠いなら、部屋に戻ったら?」

「…………んんっ、んぅ?」

「ほら、ちょっと起きて、ベッドで寝ましょ」 

「うん……」


 だめだ。返答はあるが、全く体を動かす気がない。


 茜ちゃんは基本的に自制心はあるんだけど、寝覚めは悪いからなぁ。寝ぼけている茜ちゃんは、とてもめんどくさい。


 やさしく揺り起こしても、びくともしないのは経験済みである。


「ほれ、起きなさい」

「……んんっ」


 少し荒っぽいが、茜ちゃんの背中側から脇に腕を通して無理やり上半身を起こして、引きずるようにして運んでソファにもたれかかせる。


 それでもまだ茜ちゃんは目を開いていないが、放置しておけばじきに起きるだろう。


 その間手持ち無沙汰なので、シンクにある洗い物を済ませてしまう。


 家事を俺がやると、雑だからやり直しになるから逆に手間だと、手伝いをさせてもらえないのだが、皿洗いくらいはと許しを得ている。


 ううんっ……、とか、ねむい……、とか茜ちゃんのうめき声をBGMにちゃっちゃっと洗い物を済ませてしまう。


「お、起きたか」

「……ねてないし」


 変に意地を張っている茜ちゃんの表情はとろんと力が抜けていて、なにもない床を見つめていた。


「じゃあ、起きれるね?」

「ん……」


 俺の問いかけに対する返答として、茜ちゃんは両腕を伸ばす。


「あー、はいはい」


 それは茜ちゃん流の、お前の肩を貸せ、手すりにさせろ、という合図だ。

 だが、両肩にかかる力に身構えているものの、一向に茜ちゃんの手は置かれない。


「? どうしたの――おわっ」


 代わりに腰のあたりがやさしく包まれる、茜ちゃんが抱き着いてきたのだ。


 顔はお腹の中に埋めて確認できない。人肌のぬくもり、柔らかい感触、それらが布越しに伝わってくる。

 髪の毛からは俺とは違うシャンプーのいい匂いがする。なんかこう……、女の子の匂いだ。


 停止していた思考を再起動して、頭を振る。


「…………えっとー、茜ちゃん?」

「…………」


 茜ちゃんは黙ったまま。だけど、さっきと違って眠っているわけではなさそうだ。


 じゃあ、どうして急に抱き着いてきたのだろうか?

 とりあえず、頭を撫でてみよう。


「……っ」


 もぞもぞと動いたと思うと、俺のお腹に頭をぐりぐりと押し付けてくる。


 抵抗、しているのだろうか?

 変わった不満の表し方だ。


 とりあえず、本当に拒絶しているみたいじゃないみたいだから、しばらく撫で続けてみると、茜ちゃんはすっかり落ち着いてきた。


 とはいってもずっとこのままという訳ではいかない。


「茜ちゃん? そろそろ寝よっか」

「…………うん」

「ほら、じゃあ今度こそ」

「……おんぶ」

「え?」

「おんぶしてっ」

「……はぁ?」


 一瞬何を言っているか理解できなかった。だけど茜ちゃんは、ぐっ、と両腕を伸ばしてるし、おんぶってのは、あのおんぶでいいんだろう。


 どうした急に? という言葉を口に出すのをぐっとこらえる。問いただしたら、前言を撤回されそうな気がしたからだ。


 それに、理由がわからないが、茜ちゃんに甘えられるのは悪くない。いや、お兄ちゃん的に結構嬉しかったりする。


「ほれ」


 何年ぶりだろうか、とか考えなら背中を向けると、ずしっとした重みがくる。


 人肌のあたたかさを背中いっぱいに感じる。


 茜ちゃんが腕を首に回したのを確認すると、太ももを俺の腕で固定して持ち上げる。


「おもっ!」

「…………」

「こらこら暴れるなっ! 落っことすぞ」

「おもくない」

「いてっ! 違う違う、思わず言っちゃっただけ」

「……っ!」

「そういう意味じゃなくて! 重くない、重くないからっ!」


 ひと悶着あったものの、取り敢えず茜ちゃんを持ち上げることができた。


「じゃあ、上行くぞ」

「……うん」


 返事を確認すると、のっそりのっそりとゆっくり歩みを進める。


 そういえば、昔はよく茜ちゃんをおんぶしてたっけ。


 茜ちゃんはいたく気に入っていたみたいで、遊んでた時も、嫌なことがあったときも、一緒にいるといつもおんぶをせがんできてたな。


 でも、すぐに茜ちゃんも俺と同じくらい大きくなって、当たり前の事だけど、いつの間にか、そんなこともしなくなってて。


 そんなことを考えながら、茜ちゃんの部屋がある二階へと続く階段を上がっていくが……。


 これ、けっこうつらい。


 ずっとおんぶしてるってのもまあまあしんどいのに、その上階段を上ってくのって、かなり体力使う。

 両手塞がって手すりに?まることもできないし。


 だから、自然と足も一歩一歩踏みしめるようになっていて、落ちないように茜ちゃんをがっちりとつかむ。


 すると、茜ちゃんがもぞもぞと動き出した。


「……へたくそ」

「しるか。おんぶなんて随分久しぶりだからな。文句言うなら、自分で歩け」

「やーだ」


 そんな甘えたような声を耳元で囁くと、ぎゅっとしがみつく力を強める。


 くっそ、かわいいなぁちくしょう! なんでもしてあげたくなるぜ!!

 なんとか落とさずに茜ちゃんの部屋の目の前までたどり着いた。


「ほら、着きましたよ茜ちゃん」

「……ん」


 茜ちゃんが足をつけるようにしゃがみこむ。


「ふぅ……」


 軽くなった肩をぐるぐると動かす。


 背中には、ちょっとだけぬくもりが残っている。

 それ以上に、俺の体は熱くなってた。

 それはもうちょっとした運動気分で、インナーは若干汗で湿ってる。


 やはり、この年になると同年代の体をおんぶするのはきついものがある。

 力に自信があるって訳でもないし。


「んじゃ、おやすみ」

「…………」

「……ん?」


 一階に戻ろうとしたが、茜ちゃんに服の裾を掴まれて引き留められてしまう。


 暫く待っても茜ちゃんは、何を言うでもなく、かといって、手を離すこともなく、ただじっと俯いたままで、表情が窺えない。


 今日の茜ちゃんはちょっと様子が変だ。


 俺がだらしないことに怒って……るのは、いつのもの事だけど、抱き着いてきたり、おんぶをせがんできたり。


 まるで、小さい子供に戻ってしまったようだ。


 そんな茜ちゃんの様子にふと、俺らがまだ小さかった頃を思い出す。

 それは、俺と茜ちゃんがまだ小さかった、確かお互い小学生だった頃。


 昔はお兄ちゃんっ子って言葉がぴったりなくらい俺にずっとべったりで、それでもたまに、今日みたいに口数が少なくなる時があった。


 それは、俺が外に遊びに行ってて、日も落ちかけの、いつもより遅い時間に家に帰ってきた時の事。

 茜ちゃんは玄関にいる俺にすぐに飛びついてきて、皺になるくらいにぎゅっと服を掴んできた。


 親の帰りが遅かったので、茜ちゃんは家に一人留守番をしていたから心細かったのだろう。


 瞳から溢れ出そうになる涙を堪えながら、唯一家にいた俺にぴったりくっついて。  

 俺はそんな茜ちゃんの頭を撫でてやっていた。

 

 あれ、もしかして、茜ちゃんの様子が変なのって――


「寂しかった、のか?」

「……っ!」


 げしっ。


「ぐほっ!」


 いたい。みぞおちどつかれた。


 だよねぇ、そんなわけないよね。茜ちゃんは中三だぞ。そんな子供の頃の話持ち出すなって話ですよね。


「……そう思うなら」

「……?」

「そうお兄ちゃんが思ってるなら、早く帰ってきて」


 ぼそりと微妙に聞き取れるくらいの声で、茜ちゃんはぼやいた。


 そんななげやりな言葉は不貞腐れているようで、それでいて、気恥ずかしそうで。

 でも、俯いたままの茜ちゃんはその表情を見せてくれないから、真意はつかめない。


 ――わからないなら、覗いちゃえい!!


 俺は一瞬のうちにしゃがんで前髪で隠れていた茜ちゃんの顔を覗き込む。


「えっ……」


 茜ちゃんは、不安そうな表情を浮かべていた。


 なにかを悔やんでいるような、それでいて、なにか願っているような、複雑な顔。


 茜ちゃんの触れてはいけない部分、見てはいけないところ。

 そんなタブーに土足で踏み込んでしまった、そんな気がした。


 瞼を閉じ、唇をぎゅっと引き結んで、まるで。そうこれはまるで、好きな人からの告白の返事を待つような――


「……っ!」


 茜ちゃんと視線が合った。


 茜ちゃんは目を大きく見開くと、ぱちぱちとまばたき。見つめ合う事数秒、ぽかーんとしてたと思うとだんだんと顔は真っ赤に染まっていく。


「――っっ!!」

「いたいいたい! ごめんっ! ごめんってば!!」

「このっ! このっ!! まじありえないっ! デリカシーなしっ!」


 すごい勢いでけとばしてくる。それはもう癇癪を起したように。

 あの、めっちゃ痛いんですけど、加減できてますか?


「いってて」

「ふんっ!」


 やっとおさまったら、今度は頬を膨らましてそっぽを向いてしまった。


 あーあ、機嫌損ねちゃった。

 でもまあ、そんな態度も寂しさの裏返しだとわかると、いじらしく思えてくる。


 ぽん、と手を置いて茜ちゃんの頭を撫でる。


「……なにこの手」

「んー? まあ、なんとなく?」

「なにそれ」


 げしげしっ、っと脇腹に数発食らったがそれ以上の反抗はしてこなかった。


 うん、やっぱり茜ちゃんはツンデレかわいいな。


 そういえば部活に入部してから、こうやって茜ちゃんと話し込んだのはいつ以来だろうか?


 そもそも、こうして俺が心置きなく好きなことができるのは茜ちゃんのおかげだというのに。


「そうだよなぁ、じゃあ明日からなるべく早く――」


 …………いや、ちょっと待て。

 

 俺は大事なことを忘れているような。

 部活と言えば、俺は、脚本担当兼、演出兼、監督という重大な役を任されたばかりのような……。


 俺は、そんなごてごてな肩書に恥じないチームの中心人物である。

 これから忙しくなるのは間違いない。早く帰れるどころか、今以上に遅くなることだって考えらえる。


 いやー、あはは。……むりじゃね?


「…………?」


 俺の不審な様子に怪訝な視線を向けてくる茜ちゃん。


 焦りが伝播してか、だんだんと撫で方も雑になってくる。

 

 このまま黙ったままだとしても、帰りが遅くなるのは変わらない、つまりいずれバレる。


 であるなら、自分の口から正直に告白してしまった方が得策だろう。


「茜ちゃん」

「ん」


 茜ちゃんは返答の代わりに喉を鳴らした。


 そんな、自慢の可愛い妹に俺は、語り掛ける。


「今日はもう寝よっか!!」


 引きつる顔を誤魔化すように、大袈裟なくらいに口の端を吊り上げサムズアップ。


 無理だ、言えるわけがない。今日はやめとこ。

 明日の朝にでもさらっと言えばいいよね。うんうん。


「ささっ、疲れた時には眠るのが一番! ふかふかお布団へれっつごー!!」

「…………お兄ちゃん」

「ひいっ!!」


 その声は、さっきまでの甘い声とは正反対に、鋭く底冷えするような声で俺を縮み上がらせる。


「帰り、遅くなるの?」

「…………えっとぉ」


 茜ちゃんの顔を直視できず、目をそらして頬をかく。


「ふーん、そうなんだ、へぇー」


 その呟かれた声には抑揚はなく、俺の背筋を凍らせる。


 俺の手を振り払って、自室のドアへと手をかけた。


「えっと……、茜ちゃん?」


 俺の声に返事はなくて。


 振り向きざま、きっ! と睨んだと思うと


「もういい!! ばか!」


 その言葉だけを残して、勢いよくドアを閉める。


 まだ、妹の不機嫌は続きそうだった。

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