8話「ある冬の日の記憶」
僅かに肌寒い冬の日だったと思う。
返却されたテストの点がそれなりに良く、俺は胸を弾ませながら家路についていた。
天気のいい昼時の住宅街。
どこかの家から漏れ出る、肉を焼くいい匂いが鼻腔を擽った。
「かあさん、ただいま」
「お帰り、マコト」
玄関を開けて家に入ると、台所から母親の声が返ってきた。
冷えた廊下を足早に抜け、温かい居間へと逃げ込む。
「あれ?カズトは遅いの?」
もうすぐ昼時だ。
しかし食卓には俺と母親の分しか、ご飯が用意されていなかった。
「カズトはお父さんと一緒に、後援会の人達とのお食事に行っているの。選挙はまだだけど、準備は早い方がいいってお父さんが」
母親はそこまで説明して、ハッと口を噤んだ。
カズトとは俺の弟の名前だ。
俺もその後援会の人達と会った事はあるのだが、どうやらこの先そう言う機会は無いらしい事を察する。
「気にしないで、かあさん。俺はそんなこと、どうでもいいから」
「もう、そんな言葉遣いは……いえ、うるさくは言わないわ」
母親は俺の口調を正そうとしたが、諦めたように食卓に着いた。
俺は荷物を置くために自室に戻る事にする。
「こっちの勝手ばかりで、振り回してごめんね」
「いや……別に……」
背中越しの母親の声は、勝手に優しさとやらに塗れていた。
父親は俺か弟のどっちに仕事を継がせるか、最近まで悩んでいたらしい。
結局弟を選んだらしく、一言すまんと謝られた。
父親とは最近あまり話しておらず、逆に母親は妙に馴れ馴れしい。
そんな優しくない世界で優しい人達は、心の片隅を無遠慮に圧迫する。
別に誰が悪い訳でもないし、俺だって地獄の様に苦しい訳でもない。
ただもやもやして、これからどう生きていけばいいのか、頭が良くないなりに悩み出したと言うだけだ。
「たぶんカズト、結婚する事になるかも知れないの。まずは婚約なんだけど」
「へぇ……凄いね」
弟の年齢を考えると早すぎる気はするが、政治的な結婚というヤツなのだろう。
なんというか物語みたいなやり取りで現実感がない。
俺は祝福していいのか嫉妬したらよかったのか分からないまま、無言で自室に引き上げる。
そんな判断すら付かないから父親に選ばれなかったのだと、胸の穴から痛みが零れた。
母親がどんな表情で俺の背中を見つめていたのかは、想像したくも無かった。
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