雪の思い出

ヤチヨリコ

雪の思い出

 今にもポツポツと降り出しそうな灰色の空。

 冬のくもりの日というのは、どうしてこう寒いのか。そして、そんな日に葬式だなんて死んだ祖父もツイてないなあ、なんて、うっすら思った。


 今、火葬場の炉の中で祖父の身体は燃えているんだろう。

 荼毘に付す、というのか。火葬というのは、ある意味でけじめみたいなものなんだろう。故人そのものの顔形を残したまま埋葬するのと、焼いてしまって骨だけにして埋葬するのと、遺された人の心の持ちようが違う。そんな気がした。

 祖父はいかにもといったかんじのプレイボーイで、A町の光源氏と言えば年配の人からは、ああ、あの人ね、と言われるような人だった。娘と孫娘には手を出さないと決めて、最後までそれを貫き通したのだから偉いと思う。まあ、娘と同じくらい若い娘に手を出していたと葬式で判明したから、祖父に手を出された人には悪いが、祖父は彼女らで欲を晴らしていたのだろう。

 女好きとはいえ、どこかで一線は引いていたようで、手を出された女たちは、不美人や美人、老いも若きも、祖父のことを馬鹿だったと笑っていた。笑って、泣いていた。彼女らは祖父との思い出を口々に語り、それを私の祖母は静かに聞いていた。時折笑って、時折泣いた。

「千花が『死なないで』って言ったんだ。『死なないで』って言ったんだ」

 下戸の祖父は、友人や恋人の女の人や、男の人を招いて、お茶会をして、これを口癖のように言った。幼いころはこう言う祖父の膝にのって、茶菓子のおこぼれをいろんな人からもらったのが嬉しかったのをよく覚えている。

 最後の祖父は、認知症で祖母の顔も子供の顔を忘れてしまったのに、死ぬ間際にもこういうふうに話して、じっとして、涙を零した。孫の私は忘れてしまったというのに、ずっと話していて、死ぬ前に会いに行ったときもこの話をしていた。

 持って行ってくれたのだな、と、思う。


 一人になりたくて、一人でいた。

 「千花ちゃん」と、祖母の目を盗んで私に声をかけてきたのは、白髪の、特別美人ではないけれど、しゃんとした、老女だった。風情があるというか、良い人生を生きてきて、良いように年老いましたといったかんじの、女性の理想の老後みたいな人だ。

 ああ、この人にもあったことがあるなと直感で感じた。

「千花ちゃん、大きくなったね。今度中学に上がるんだっけ」

「いえ、今年、高校に入学しました」

 私がそう言うと、老女の頬に涙の筋がつうっと走った。それがなんとも絵になるものだから、なるほど、と、一人、心の中でうなずいた。

げんさんは、千花ちゃんの制服姿を見れたんだねえ」

 これは嬉し涙なのだろう。老女は涙を「みっともなくてごめんなさいねえ」なんて言いながら、祖父が恋人に配り歩いていた、花の刺繍入りのハンカチで拭った。

「小田です。源さんには良くしてもらいました」

 うやうやしく小田さんが頭を下げたので、私もあわてて頭を下げた。

 小田さんは私が頭を上げた後も、涙を見せまいとしてなのか、頭を下げたまま、涙声で続けた。これこそが気品なのだなあなんて考えたりもした。

「このたびはご愁傷さまです。お若かったのにねえ……」

 気まずい沈黙が続いた。

「……良い人に囲まれて幸せな人生だった、と思います」

 良い人というより、祖父の場合は、都合の良い人だったような気がしないでもなかった。幸せな人生だったのは事実だろう。

「源さん、千花ちゃんが『死なないで』『死なないで』って泣いたんだって、いつも言ってた」

 小田さんはようやく頭を上げると、そう言った。

「私はみっともないからやめてって言ったんですけどね」

「あれね、私もよーく覚えてるの」

 お茶目な声色で、小田さんがつぶやいた。

「千花ちゃんがずぅっとちっちゃい頃、千花ちゃんのおじさんのお葬式があったでしょう。おじさんは自殺だったの。源さんよりずぅっと若いうちに死んじゃったの」

 小田さんはゆっくり続ける。

「自分の息子が死んじゃったもんだから、源さん、なんで生きてるんだかわかんなくなっちゃったって、お葬式で泣いたのよ。それで千花ちゃんが『死なないで』『死なないで』って泣いたから、私らは笑っちゃってねえ」

 そんなことがあったものかと思い出す。

「源さんが『死なないよ』って言ったら、千花ちゃんがにっこり笑ってねえ。泣きはらした真っ赤な顔に、鼻水で大変なことになった口元。ブサイクでブサイクで。みぃんな笑ったの」

 小田さんは笑って、言った。小田さんの泣いた後の顔と、幼い私が泣いた後の顔は比べ物にならないのだろうな。

「源さんはね、千花ちゃんが『死なないで』って言ったから、今年まで生きてられたんだよ」

 小田さんはもう一回泣いて、もう一回笑った。

 私は覚えていない頃のことだから、思い出としては残っていない。でも、小田さんや祖父の記憶に残っていたのだから、私は良いことを言ったのだろう。

「その日は今日みたいなくもりの日でね。雨が降り出さないかって、みんなで心配してたんだけど、千花ちゃんがそう言った後だったかな。雪が降ったの」

 雪、か。今日も雪が降ったら、帰りが大変だな、なんてぼんやり考えた。

 外を見ると、白いものがちらほらと空から降ってきていた。この地方では珍しい雪が、祖父やおじさんの葬式の日に降るだなんて、珍しいことがあるものだ。

「だから、覚えてる」

「そう、なんですね」

 覚えていないのが恥ずかしかった。私が小さかった頃の話だから覚えていなくたって、しょうがないのだけれど。

「私が覚えている祖父は、かなりの気取り屋でした」

 私は、覚えている祖父についての話をした。認知症になる前の祖父の姿を、私はあまり覚えていない。だけど、覚えていなくたって出来る話をした。それを小田さんは静かにじっと聞いていた。

 祖母がボケボケにボケちゃった祖父に、「食べさせてもらってない」「金を盗まれた」「鬼婆だ」など言われて、散々罵られても、介護を精いっぱい頑張っていたこと。

 祖母がデイサービスを頼んだら、祖父はケアマネージャーさんにはちゃんと接して、その後、祖母にひどく八つ当たりしたこと。それを知った親戚が祖母を叱ったこと。

 部屋中に汚物を撒き散らしたり、夜中に徘徊したりする祖父を、私は心底嫌っていたこと。

 祖父が死んだとき、私の父が「治療にお金かけたけど、結局ダメになるんだったら、あんなに色々しなくてよかったな」とぽつりと呟いたこと。そのとき、祖母が「結局は博打と同じよ。お金をドブに捨てるのと同じ」と言ったこと。そして、「けど、お父さんが死んだだけ、賭けたお金は無駄にならなかったわ」と続けたこと。

 祖父の思い出は悪いことばかりで、祖母の苦労を知っている身としては死んでくれて清々したというのが正直な感想だ。小田さんの前だから言うわけにもいかず、最後だけ言葉が詰まった。


 小田さんは「そうだったの」と一言。

「それじゃあ、死んでくれて助かったでしょう」

 私が、「……何故?」とたずねると、「奥さんは充分頑張ったでしょ」とだけ言って、祖母のほうを見た。祖母がこちらを見たら、小田さんはすぐに目をそらした。

「源さんは充分好き勝手やったよ。奥さんも好き勝手やったっていいはずだわ」

 小田さんは静かにそう言った。

 小田さんも私にある話をしてくれた。

 小田さんが勤めていた床屋に祖父は髪を切りに訪れていたこと。

 小田さんがねだったから、あの花の刺繍入りのハンカチを祖父が渡したこと。

 小田さんが祖父の髪を切るたび、祖父は一張羅のスーツを着て、いつも一番に祖母にその姿を誇らしげに見せに行ったこと。それを、小田さんはいつも羨んでいたということ。

 祖父は恋人の女たちに顔を見せた後に、小田さんの店を訪れて「ありがとう」と言って、自分の家に帰っていったこと。その背中が憎らしかったこと。

 小田さんは「逃げられちゃったなあ」なんて言っていた。


 祖父の骨が焼けたと、私の両親が私を呼びに来たので、私は小田さんに別れを告げて、両親と、祖母と、親戚のところに行った。

 小田さんは私に小さく手を振って、私と親戚を手の届かないものを見るような、眩しそうな目をして、じっと見ていた。祖母は小田さんに一瞬だけ目を向けると、「行きましょ」と言って、親戚一同を引き連れて大名行列のようにして歩いていった。

 小田さんみたいな女の人は他にもいっぱいいて、誰も彼もが私たちを見ていた。


 帰りの車の中、車窓からはしんしんと降り積もる雪が見えた。

 この雪をあの女の人たちも見ているのかな、なんて考えた。だったら、それでいいと思う。彼女らは祖母と同じように愛されはしなかったけど、祖母と同じ雪を見ているのだろう。彼女らが、空を見上げて降る雪を見ているのか、下を向いて降り積もった雪を見ているのか。でも、祖父が見せなかった、祖母と同じ風景を、彼女らが見ているのなら、それでいい。

 私は、彼女らの見る雪が何故だか記憶に残った。雪の降るのを見るたびに、私は小田さんたちを思い出す。これが私の雪の思い出。

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