第5話

 夜の帳が降り、暗さを増す謁見の間に、天井の明り取りから月の光が差し込んでくる。


コツ、コツ、コツ・・。


いつもと同じ時間、同じ足音。


玉座に眠る和也の側に、メイド服の女性が近付いて来る。


「ご主人様、おやすみのご挨拶をしに参りました。

今夜もまた、紫桜さんと楽しい時間を過ごしていらっしゃいますか?」


和也の膝の上で眠る紫桜に、ほんの少し、羨望の眼差しを送る。


「では、本日も失礼致しますね。

・・おやすみなさいませ」


和也の正面に立ったジョアンナは、両手を腰の後ろで組んで、ゆっくりと彼の唇に自身のそれを合わせていく。


数秒後、離れる際にチュッと僅かな音がするのはご愛嬌。


愛しさが募り、毎回つい吸い過ぎてしまう。


そんな事は有り得ないのに、何だか紫桜に見られているような気がして、ちょっと気不味い。


でも、この広大な城に、今は自分達しか居ないと思うと、決して止めることはできない。


大好きなご主人様を、独り占めしているようでドキドキする。


姿勢を正し、和也に一礼すると、彼女は自分の部屋へと戻って行った。



 「んっ・・」


ベッドの掛布団から出た手が、固い物に当たった感触で目を覚ます。


ぼんやりと開いた瞳に、昨夜ゆうべ読んだ本の表紙が映る。


ご主人様の書庫からお借りしてきたシリーズ物の1冊で、その内容は、若くして田舎で遁世した貴族の少年と、それに付いて来た一人のメイドの生活を描いたものだ。


美形で博学、有能でありながら、兄弟間の跡目争いを憂い、毎年一定の生活費を受け取ることを条件に、さっさとその争いから抜けてしまった少年。


少し偏屈で理屈っぽいが、彼を世話するメイドの少女は、己の主人が好きで堪らない。


日々の会話や仕事を通して描かれる二人の姿に、ジョアンナはすっかり夢中になってしまった。


何と無くだが、その主人公の少年が、和也に似ていると感じたからだ。


主人とメイドの二人しかいない生活も、今の自分達にそっくりだし(ご主人様の膝の上で眠る紫桜さんは、とりあえず数に入れないでおく)。


尤も、これらはご主人様が自ら集めた書物ではない。


彼がお眠りになってから、有紗さんが城に転送してくる荷物を整理している中で、偶々見つけた物だ。


ご主人様を愛して止まない有紗さんは、彼がお眠りになった後に世に出たゲームや小説、アニメや漫画の類を、予め販売元に(NGワードやシーンがないか)検閲させた後、1年分を纏めてここに転送してくる。


勿論、それでも発売された全ての作品という訳にはいかない。


毎年世に出る厖大な作品を、彼女が私費で創った専用の会社に調査させ、そこでご主人様が目を通すに値すると判断された物だけを送ってくる。


それでもかなりの量になるので、私が国王代理の任期を終え、この城にやって来るまでに溜められた段ボール箱は、実に数千にも及んだ。


ここで暮らし始めた最初の1年は、その整理だけで半分終わってしまった程だ。


それだけの量を終い続けるとなると、幾ら広大なこの城の図書室、遊戯室と雖も、相当な場所を取られるはずだが、何せここは神であるご主人様の城。


複数巻ある作品は、その第1巻だけが棚に並び、残りは異空間の専用場所に保管される。


並んでいる背表紙をタップすれば、その情報が空間上に表示されるから便利である。


徐に上体を起こし、以前の癖で、『うーん』と伸びをする。


黒絹のネグリジェの中で、ご主人様に愛された後、その大きさを増した豊満な胸が揺れる。


眠る時にブラは付けないが、ショーツは常に勝負下着だ。


ご主人様の専属メイドになった以上、嘗てのような、実用を重視した物はもう穿けない。


いつ何時なんどきお求めになられても、決して恥ずかしくないように心掛けている(メイドの仕事にそんなものはないが)。


カーテンを開け、遮られていた朝日を存分に取り入れると、ゆっくりと身支度を始めた。



 「ンン~ンンン~ル~ル~・・・」


朝食の支度をしながら、頭に浮かんだメロディーを口ずさむ。


統治魔法を授かって以来、何かの作業をする時に、自然に漏れ出ることがある。


私しか食べないし、そもそも私だって取る必要のない料理だが、ご主人様がお目覚めになった暁には、毎日お出しするものだから、決して手を抜かない。


どんな時でも、どんな料理でも、手早く美味しくお出しできるように、日々の研鑽を欠かさない。


熟練の技は、常日頃の訓練や努力から生まれるのだ。


あと数百年でこちらに移られるエレナさんに負けないよう、精進あるのみ。


『美味しかったよ。

次は君が食べたいな・・ジョアンナ』


そんな事を言われたらどうしよう?


フフフッ、ご主人様の性格からして、有り得ないんですけどね。



 「ガラス良し。

枠良し。

縁良し」


城にある100近い窓を、客室の物を含めて全て磨く。


自動浄化魔法になんか負けないんだから。


それが終わると、今度は床の掃除。


魔法によって塵一つ落ちていないから、モップで磨くだけなのだが、如何せん広い。


この城の大きさは、私の実家が治めていた村の総面積の、倍以上に及ぶのだ。


元はもっと小さかったようだが、眷族の人数やご趣味が増えてから、それに合わせて拡張を繰り返したとお聴きしている。


足を踏み入れない場所は数か所のみ。


ご主人様の私室と、その妻の方々のお部屋だけだ。


因みに、妻の方々の私室の扉には、謁見の間の椅子と同じように、其々を象徴する花の模様が描かれている。


ベイグ家で奉公していた時、掃除や洗濯、料理は当番制で、数人ずつに分かれたメイドが班を作り、班ごとにその業務をこなしていた。


夏は掃除、冬は洗濯がきつい仕事と言われて、皆で苦労した記憶があるが、今のこの城では、何もかもが楽しくて楽である。


体力的にそうなのは言うに及ばず、気持ちの面でも遥か上をいく。


オリビア様のお陰で、当時の仕事もあの世界では随分楽で、恵まれた方だった。


良い家に奉公できたと、皆が喜んでいた。


でも当然、いつまでもそこに居られる訳ではないし、いつかは身の振り方を考える時がやって来る。


老後のためには、妥協してでも嫁ぎ先を探す必要があり、そんな漠然とした不安が、皆の笑顔の下でくすぶっていた。


愛する人の側で、いつまでも望む仕事に就けることが、一体どれ程幸せなことなのかを、私は今、身を以て実感している。


他に誰も居なくても、会話すらできない日が続いても、城の外に出なくたって、私は幸せだ。


ご主人様のお姿を拝見し、彼が喜ぶ様を想像しながら仕事をこなして、おやすみ前に少しキスをさせていただければ、それだけで満足する。


彼がお目覚めになれば、更なる幸せが待っているのだ。


それに、時々はお仲間の皆さんが来てくださる。


彼女達と会話し、そのお世話をすることで、気分転換もできるから。



 「う~ん、最近の地球では、こういう内容の物が流行ってるのね。

でも何でわざわざ悪役にする必要があるのかしら?

只の貴族令嬢じゃ駄目なの?

それに、公爵って王家の親類よね?

幾ら落ちぶれても、平民のメイドなんかに馬鹿にされたりしないはずだけど・・。

あちらの世界は色々と自由なのね」


有紗さんから送られた段ボールの中身を整理しながら、独り言を呟く。


以前はそんな癖などなかったのに、ここへ来てからすっかり身に付いてしまった。


ご主人様がお目覚めになる前には治さないといけない。


彼の専属メイドである私は、いつでも品性と慎ましさを失ってはならない。


(使用人である)私の恥は、ご主人様の恥に繋がるのだ。


「・・あら、もうこのシリーズの続巻が出たの!?

後でお借りして読まなくちゃ。

身分違いの恋に悩む、主人公の少女が良いのよね。

応援したくなるんだもの」


「え、このシリーズはこれで最後なの?

まだ途中なのに、もしかして打ち切りかしら?

これから面白くなる所なのに・・」


頻繁に気を取られて、いつもの事ながら、なかなか整理がはかどらない。


苦笑しながら、何とか時間内にこの日の片付けを終えた。



 チャポン。


城の外では、つい先程まで美しい夕焼けが現れていた。


濃いオレンジの空に、闇の衣を纏いつつある大地。


渡り鳥の代わりに、風に吹かれて宙を舞う枯葉の色が、もうじき冬なんだと私に告げている。


公転しないこの星は、自転の速度も緩やかで(異空間にこの惑星と専属の太陽、月のみが存在し、そこから外の宇宙を眺めている状態)、以前有紗さん達が地球のクリスマスの日にここへ来られた時、城の外では桜が咲いていた。


なみなみと注がれた湯の中に足を踏み入れ、泳げるほどに広い湯船の中央付近まで歩く。


いつもは後ろで複雑に纏めている髪(以前、地球のアニメで、私と似たような髪型をした、メイドさんみたいな恰好の娘さんがいて驚いた)を下ろして、のんびりと湯を楽しむ。


新陳代謝のないこの身体には、お風呂は然程さほど意味ある代物ではないが、ほっと一息吐ける時間であるのは、今も昔と変わらない。


何よりご主人様がお好きな行為なのだ。


たとえ彼のお身体を洗えなくても、私が嫌いになるはずがない。


あ、私が不潔な訳ではないですよ?


ただ、1人で入るのはもう味気ないという意味です。


早くご主人様のお背中を流したいなあ。


石鹸で滑った振りをして、彼の大きな背中に抱き付いたりしたい。


ご主人様と出会う前は、お風呂は1人で入りたかったし、それが当たり前だった。


ベイグ家でのメイド時代も、なるべく他人のいない時間帯に入っていた。


その私が、何度か彼とご一緒したことで、すっかり味を占めてしまった。


まあそれは、他の皆さんも同じなんでしょうけどね。


特に何かをする訳ではなく、たたのんびりと、静かに傍で湯に浸かるだけなのに、何故か物凄く癒される。


神様だから、特別なオーラでも出ているのかしらと疑ってしまう。


御剣様テラピー。


その内、そんなものまで生まれてしまうかもしれない。



 コツ、コツ、コツ・・。


静寂に包まれた謁見の間に響き渡る、私の足音。


御剣様の膝の上で眠る紫桜さんの身体が、周囲とは異なる淡い闇を纏って灯りの代わりになっている。


今夜もまた、ご主人様におやすみのご挨拶をしようとしたところで、声をかけられた。


貴女あなたも随分とお父様が好きよね。

口付けの回数だけなら、皆の中で1番多いのではないかしら」


闇の魔法陣の中からエメワールが現れて、苦笑しつつ、ジョアンナにそう告げる。


「もう何十年になりますかねえ。

ここに居ると、月日はおまけのようにしか感じなくて・・。

確かに、キスの回数だけなら私がご主人様の1番でしょうね。

フフッ、これからも首位を独走しますよ?」


「褒めた訳ではないのだけどね。

あまりやり過ぎないようにしてよ?

その内ディムニーサ辺りから、文句を言われても知らないからね」


「はい、分りました」


「・・める気はないのね。

羨ましいわ」


私の顔を見たエメワールさんが、切なそうに言ってくる。


「そうお思いなら、何故同じ様になさらないのですか?

ご主人様なら、きっと笑って許してくださいますよ?」


「歯止めが利かなくなるからよ。

・・お父様によって生み出されたわたくし達には、本来ならそこまでする資格がないの。

限られた空間だけとはいえ、物に触れることができるようになっただけでも信じられないくらいなのよ?

お父様は、娘である私達に、そういった行為はお望みにならない。

抱き締めて貰えるだけで、頭を撫でていただけるだけで、十分に幸せなのよ」


言葉にする間に感情が爆発したのか、彼女の瞳から涙が細く流れ落ちる。


「お前のことは、羨ましいが、敵視はしない。

高が数十年だが、来る日も来る日もたった一人で(ここで)お父様の為に働いているお前なら、多少の事には目を瞑ってやる」


地の魔法陣が現れ、ディムニーサが姿を見せつつ、そう口にする。


「今晩は。

今回もまた、ご主人様の書庫にご用ですか?」


「・・今夜は違う。

寂しいから、お父様のお顔を見に来ただけ」


ディムニーサが、自分の泣いているところをからかわなかったからか、エメワールも、彼女の弱音に突っ込みを入れない。


「貴女達が二人揃って大人しいなんて、珍しい事もあるものですね。

明日は雪かしら」


水の魔法陣が出現し、そこからメルメールが姿を現す。


「わたくしにだって、気の乗らない時はありますわ」


「今夜はそういう気分じゃない」


仏頂面をする二人。


「ようこそお越しくださいました。

何かご用意致しましょうか?」


「ありがとう。

でも、それはもう少し後で良いかな。

折角だから、他の三人も呼んでみましょう。

久し振りに、皆でお話でもしない?」


「う~ん」


「・・私は、お前の歌が聴きたい」


「はい?」


「以前、お父様の前で歌ったことがあるでしょ。

統治魔法だっけ?

あれが聴きたい」


「え?

・・どうしてですか?」


「寂しいから。

あの魔法は、聴く者の気持ちを安らかにするためのものでしょう?

だから今聴きたい」


「わたくしもその方が良いかな。

皆で寛ぐのは、それからね」


エメワールも、ディムニーサの意見を支持する。


「なるほど。

それも良いですね。

早速他の三人を呼んでみましょう」


あの、私の意見も聴いていただけると有難いのですが・・。


前回はご主人様のお願いでもあったので、恥ずかしさを我慢できたのに。


私、只のメイドなんですよ?


「あの、ご主人様曰く、歌の歌詞はその時の私の気分によって変わるそうです。

以前と同じ歌ではないと思いますし、私の歌が精霊王である皆さんに作用するとは思えませんが・・」


「お父様が直にお授けになった魔法なんでしょう?

ならきっと大丈夫。

害のあるものならともかく、そうでなければ一定の効果は得られるはずよ」


私にとって不運な事に、いつもならお忙しいはずの他の皆さんも、今回はお暇だったらしく、直ぐにお越しになられました。


たはは、もう歌うしかないようですね。


せめて寝ているご主人様にもお聞かせしようと、前回歌った場所へと移動する。


六人の精霊王の方々も、以前と同じ様に私の両側に並んだ。


魔法を発動すべく意識を集中していくと、私の中にメロディーが生まれ、その歌詞が脳内に鮮明に映し出される。


その時、床に魔法陣が浮かび上がり、あの時のように蒼い光が私を包む。


「あら?

・・お父様の魔法陣だわ。

まだ残っていたのね」


「そうだとすると、また他の世界にも聞こえるね。

まあ良いか」


「今日が特別な日である場所もあるでしょうから、ちょうど良いのではないかしら」


精霊王の方々が何か言っているが、魔法で意識が歌に集中している私には、最早それを正確に知覚できない。


前奏が終わり、私は歌い出した。



 ザクザクザク・・。


雪を踏みしめる音が、悲し気に耳に響く。


あれから4年も経った今、自分は失意と共に故郷に戻って来た。


戻ったところで、もう自分の居場所は無いかもしれない。


自分は、彼女らにとっては裏切り者なのだから。


・・それでも、もう一度だけ、彼女達に会いたかった。


我が儘であるのは十分承知しているが、人生の最後は、せめてここで迎えたかった。



 4年前、当時まだ3歳だった娘と妻を残して、俺は都会の町へと出稼ぎに行った。


この村は、住むには良い所であったが、稼ぐとなると、そう多くは望めない。


若い頃に貯め込んだ金で余生を過ごす老人や、同じく出稼ぎに出た夫を待つ妻や子供達が多く、手に職がなければ、畑仕事以外は狩りくらいしかする事がない。


子供の頃から剣術が好きで、大人に混ざって狩りをしていた俺には、ある程度まで成長すると、ここはそう魅力的には映らなかった。


俺には幼馴染のが一人いて、そいつと結婚の約束をしていた。


16になった時、その娘を初めて抱き、2年後には子供ができた。


それを機に一緒に暮らし始めたものの、都会への憧れは強く、半年や1年ごとにここへ戻って来る出稼ぎの大人達がする自慢話に、心が躍った。


俺ならもっと稼げる。


もっと成功してみせる。


彼らの話を聴きながら、常にそう思っていた。


妻を抱く度にベッドの中で懇願していたからか、4年前、到頭俺の出稼ぎを嫌がっていた妻が折れた。


先ずは1年だけという条件で、許して貰った。


『沢山稼いで、それでお前達に楽をさせてやるからな』


町へ向けて出発する朝、そう言った自分の言葉が今では虚しく頭に響く。


都会に出て、冒険者ギルドに登録してからの俺は、正直、結構目立っていたと思う。


持ち前の勘や素質に加え、慢心せずに訓練を重ねたせいもあって、直ぐに良いパーティーに入れたし、2年後には独立して自分のパーティーを持った。


2年後・・そう、俺は1年で村に帰らなかったのだ。


妻との約束を破り、町に居続けた。


実力を付けた俺の稼ぎは他の冒険者の数倍で、酒場に行けば、黙っていても女が寄って来た。


初めは痛んだ良心も、数人も抱けば、次第にその痛みが薄れてくる。


その日の稼ぎを持って酒場に行き、酒と女を堪能しては、また依頼を受けるの繰り返し。


金を貯めて家族に楽をさせるという当初の考えは、1年で戻らなかった時点で、俺の頭から抜け落ちていた。


だが、そんな俺に、天罰とも言うべき災難が降りかかる。


最近少し身体の調子が悪く、治癒師に診て貰ったところ、どうやら肝臓をやられているらしかった。


他にも疑わしい臓器があり、ヒールを掛けて貰ったが治らない。


高価な薬も試したが、駄目だった。


人とは薄情なもので、それまで俺に媚びていた女達や仲間が、次々と俺の下から去って行く。


誰が流したか知らないが、俺がもう長くはない事を、周囲の皆が知っていた。


病んだ俺には、もう一人で依頼をこなす力はない。


あれだけ好きだった酒も、全く飲む気にならず、頭に浮かぶのは妻と娘の事ばかり。


勝手過ぎる己に呆れながら、死に場所を求めて、早々に町を離れることにした。



 野宿を重ねながら雪道を歩く今の俺には、僅かに銀貨60枚の手持ちしかない。


効果の無かった治療費が、思いの外、高くついたからだ。


足下を見られた気はしないが、一時は金貨7枚の蓄えがあった自分としては、ほんの少しに思える額でしかない。


村に帰れば半年以上は暮らせる額でも、約束を破った上、4年も帰らなかった自分が、妻に詫びと共に差し出す金額にしては少な過ぎる。


娘に土産をとも考えたが、父親としての義務も果たさなかった自分から物を貰っても嬉しくないだろうと、現金で残すことにした。


雪に足を取られるとはいえ、その足取りの重さは、気分の重さでもある。


決して許されることはないと知りつつも、それでもあれこれ言い訳を考えている己に呆れる。


そんな時だ。


村に通じる脇道を、十人近い賊が歩いて行くのを目にする。


あの道を通れば、俺の村にしか行けない。


この4年で数々の依頼をこなしてきた俺の勘が、彼らの動きは盗賊のそれであると告げている。


迷いは無かった。


家族の側で死にたいと思っていたが、今まで祈ったことすらない神が、死ぬ前に贖罪の機会を与えてくれたものと考えて、即座に行動に移す。


見つからないようにそっと後をつけ、囲まれないよう、狭い場所で弓を射て先制攻撃する。


一人の頭を打ち抜いたところで相手が気付き、戦闘が始まる。


こちらに向かって来る前に、もう二人ほど弓で倒したが、残りの五人と剣で打ち合う。


致命傷だけは避けるつもりで一心不乱に剣を振るったお陰か、何故か時折相手の動きに剣筋がぶれたり足を滑らす等のミスが生じたせいかは分らないが、どうにか賊を全て討ち取る。


緊張が途切れてその場に座り込んだ時、身体の数か所から血を流していた。


最後に討ち取った相手には見覚えがあった。


ギルドの掲示板にも討伐依頼が貼ってあった、有名な賞金首だ。


その賞金は金貨5枚。


こんな状況でもなければ、大喜びで報告に行くのに。


今になって痛み始めた傷跡。


ここで死ぬのか。


そう覚悟を決めた時、俺の頭に歌が流れてくる。


奇麗な声と、その優しいメロディーに、次々と過去の出来事が浮かんでくる。


馬鹿だったな、俺。


こんなに美しい景色の中で、これ程までに幸せに暮らしていたのに、何で都会の生活に固執したんだろ。


金は稼げても、心はいつも乾いていたんだと、やっと気が付いた。


酒や、その場凌ぎの女では決して満たされないものがあると、今になって理解できた。


会いたい。


妻に、娘に、もう一度会いたい。


許してくれとは言えない。


『でもせめて、今のこの気持ちを、声に出して伝える機会を』


溢れ出した涙が、地面の雪を彩る己の血と混じり合った時、奇跡が起きる。


身体が蒼く光ったと思うと、傷口が見る見る塞がり、全身を襲っていた倦怠感が奇麗に消える。


立ち上がった時には、服に染みていた血や汚れまで落ちていた。


自分に何が起きたのか?


それすら分らないまま、村へと急ぐ。


既に日が暮れかかっていて、家に着くまで誰とも顔を合わせなかった。


ドアを叩く手が震える。


拒絶されるかもしれない。


既に他の誰かと暮らしている可能性だってある。


そんな不安とは裏腹に、出迎えた妻の表情は、それ程険悪なものではなかった。


少し睨まれて、多少の嫌味を言われたが、それだけで家に入れてくれた。


「何でかしらね。

もしあなたがのうのうと帰って来たなら、思い付く限りの悪態をいて、2、3発ひっぱたいた上で、暫く口をきかないつもりでいたのに。

さっきから頭の中にあなたとの良い思い出ばかりが蘇ってきて、とてもそんな気分じゃなくなったのよ。

あなた次第で許してあげるから、さっさと言い訳を聞かせなさい。

娘にお土産くらいあるんでしょうね?」


妻が、彼女の後ろでじっと俺を見ている娘の方に顔を向ける。


「・・それが」


少しでも金で残してやろうとしたことが裏目に出て、困った顔で、銀貨の入った荷物ごと妻に渡す。


「・・え、何これ!?」


「済まない。

病に罹って、それしか残っていないんだ。

本当に済まない」


頭を下げて、心から詫びる。


「『それしか』って、これで十分過ぎるでしょ!?

金貨が10枚もあるのよ!?

・・それに、このかわいい鳥のブローチ、一体幾らしたの?

凄く高そうだけど、娘へのお土産よね?」


「金貨?

ブローチ?」


「納得したわ。

これだけ稼ぐには、普通は4年じゃ全然足らないもの。

ちゃんと私達のことを考えてくれてたのね。

・・でも、定期的に連絡くらい寄越しなさいよ。

心配するでしょ」


何が何だか全然理解できなかった。


身体が治った事といい、いつの間にか金貨や土産が入っていた事といい、神でもなければこんな事できっこない。


神?


・・まさか、本当に?


「・・言わなければならない事がある。

それは俺が自分で・・」


妻が俺の口に指を当ててくる。


「良いの。

遠いとはいえ、ここから歩いて6日程の町だもの。

偶にだけど、噂くらいなら、この村にも流れて来ることがあるわ。

でも、今の私達は、今のあなたで判断したい。

たとえ以前に何かあったとしても、今はそれを悔いて、今後改めてくれるなら、今回だけは許してあげる」


「・・ありがとう。

本当に、ありがとう」


思わず涙が出てしまう。


「お腹空いてない?

食べながらで良いから、都会の話を聴かせて。

それとも、先にお風呂に入る?」


欲望だけの極彩色で彩られた都会での暮らしから、セピア色の、穏やかな時間の中で過ごす村での生活が再び始まる。


これからはそこに、神への感謝の祈りを加えて。



 「貴女が人間に手を貸すなんて、どういう風の吹き回しなの、ディムニーサ?」


「それは貴女だって同じでしょ」


ヴェニトリアの問いに、ディムニーサが素っ気なく答える。


「ただもう一度、娘とやらに会わせてあげたかった。

それだけよ」


「そんな事より、先程お父様の魔力を感じなかった?」


「そう、それよ!

一体どういう事かしら!?」


レテルディアとメルメールが、疑念と興奮の入り混じった声で話し出そうとする。


「お二人とも、お静かに。

まだ彼女の歌が終わってはおりませんよ」


ファリーフラが、そんな彼女達を窘める。



 「やあ爺さん、今日は何の用だい?」


「煙草とエール酒を2つずつくれ。

それからこのパンとチーズを」


「毎度あり。

最近、身体の具合はどうだい?

寒くなってきたから、ちゃんと暖を取りなよ?」


「ああ。

ありがとう」


歩いて20分程の町まで行き、雑貨屋で買い物をするのは儂の日課でもある。


ほんの1年前まで、猟犬のブリーダーを生業にしていた自分は、未だ足腰が丈夫である。


犬を訓練していたから町中には住めず、少し離れた林の中に住んでいるが、この付近は治安が良いため、老人の一人暮らしでも問題ない。


いつものように散歩を兼ねて、ゆっくりと家への道を歩いていると、道端に座り込んでいる犬を見つける。


何と無く見覚えがある。


大分汚れているが、特徴的な背中の模様が、儂の記憶に訴えかけた。


「・・Bの3号?」


間違いであってくれと思いつつ呼びかけた儂の声に、その犬が反応する。


「・・ワン」


よろよろと立ち上がる彼に、儂は急いで駆け寄った。


「どうしてこんな所にいる!?

お前は隣町の領主様に買われたはずじゃろ!?」


服が汚れるのを厭わず、Bの3号を抱き締めた。


「・・クウン」


「腹が減っているのか!?

少しだけ待ってくれ。

儂の家で何か食べさせてやる」


瘦せ細った彼を抱え、家路を急ぐ。


到着すると、急いで暖炉に薪をくべ、湯を沸かし、その間に彼の食べ物を探す。


運良く干し肉とミルクを見つけ、それでは足りないだろうと、買って来たパンとチーズを半分ずつ与えた。


ゆっくりと、美味しそうに食べる彼を眺めている内に湯が沸き、大きな桶にそれを入れ、水で温度を下げて適温にする。


更に湯を沸かしつつ、食べ終えた彼を抱えて専用の桶に入れ、丁寧に身体を洗ってやった。


その身体を拭き、さっとブラッシングした後は、暖炉の側で好きなだけ寝かせてやる。


その寝姿を眺めながら、儂は思考を巡らせる。


どうしてあんな場所に居た?


儂に会いに来たのだろうか?


だが、あの領主様の頑丈な犬小屋から逃げられるとは思えないし、そもそも主人の下を勝手に逃げ出すような訓練はしていない。


・・それにしても、老いたな。


まだ子供の頃から猟犬としての訓練を始めて、隣町のご領主様にお納めしたのが8年前。


てっきりかわいがられていると思っていたのに、彼のあの姿は何だ?


あれではまるで、野良犬ではないか。


確かにもうこの歳では、猟犬としては働けまい。


じゃが従順な飼い犬としてなら、十分に役に立つはずだ。


領地の畑で番をさせたり、牛や羊の放牧に付いて行き、彼らが群れを離れないように誘導することだってできる。


決して人には牙を剝けないように躾けているから、お子様の遊び相手にも向いている。


儂が自分で訓練した犬達は、貴族の方々にしかお売りしていない。


裕福な環境で、最後までかわいがってくださるだろうと期待して、愛情を持って育てた彼らを売り渡した。


儂は幸運にも、その業界では名が知れた存在であったため、ご領主様のような貴族の方々が、大金を支払って買っていってくださったのだ。


なのにどうして?


・・とりあえず、隣町のご領主様にお手紙を書かねば。


逃げ出して来たのなら、儂が送り届けてお詫びしなければならない。


その夜は、手紙を書いた後、未だ寝ている彼に毛布を掛けてやり、自分も早々に床に就いた。



 それから1週間が過ぎた頃、お送りした手紙のお返事が届いた。


その手紙に書かれていた内容に、儂は愕然とする。


『牙の衰えた猟犬は、最早そう呼ぶに値せず、足手纏いでしかない。

そちらで処分されたし』


そう書かれていた。


自分がこれまでにお売りした犬達についても、それとなくお尋ねしていたが、『死んだ』としか明記されていない。


読み終えて、己の身体が震えているのに気が付いた。


自分がしてきた事への後悔と、認めたくない気持ち。


薄々は分っていたんじゃないか。


老いて役に立たなくなった犬達の末路が、一体どんなものであるのかを。


自分は敢えてその考えから目を逸らし、裕福な家に売られたのだから、きっと最後まで幸せに暮らしていると自己暗示に掛かっていたのだ。


1週間経って、やっと毛並みの戻りつつあるBの3号を見て涙する。


ごめんよ。


本当にごめんよー。


辛かったよな。


寂しかったよな。


家族のいない、爺一人の侘しい暮らしに温もりを与えてくれていたのに、儂は今まで、お前達を単なる商品としてしか見ていなかったようだ。


名前は飼い主が付けるものと、お前達を番号で呼んでいた自分が恥ずかしい。


お前は今日から、儂の家族だ。


そうだな、名はジョンにしよう。


お互い、あと何年生きられるか分らないが、せめて最後まで共に暮らそう。


涙を流したまま動かない儂を見て、ジョンが身体を寄せてくる。


目の前の暖炉で、薪がパチンと音を立てた。



 その日から、儂は自分が育て、売り渡した犬達の所在を確かめるべく、購入された貴族の方々に手紙を書き、『もし、もう不要であるとお考えなら、私が責任を持ってお引き取り致します』とお伝えした。


しかしそのお返事は、ことごとく『既に処分した』か、『他に下げ渡した』であった。


贖罪の機会すら与えられず、ジョンを抱き締めてまた涙する。


『ああ、せめてこうした犬達が、安全に、安心して飼い主と暮らせる世になれば。

共に暮らし、共に支え合い、家族の一員だと胸を張って言える時代にならんことを』


神に祈ったのは随分久し振りだが、そう願わずにはいられなかった。



 ジョンと共に、日課である買い物がてらの散歩をしていたある日、儂の頭に歌が響いてきた。


とても澄んだ、奇麗な歌声。


まるで世界を優しく包み込む、女神様のお手にいだかれているような錯覚にすら陥る。


もう少しで店に着こうとする時、近くで怒鳴り声がする。


「痛えな婆さん!

ちゃんと前を見て歩・・何だ、目が見えねえのか。

・・怒鳴って悪かったな」


柄の悪そうな男であったが、彼女が持つ杖を見て、その語気を緩める。


「こちらこそごめんなさい。

まだ暗闇に慣れてなくて・・」


「そりゃあ苦労するよな。

気を付けてな」


外見で人を判断するのは良くないことであるが、普段はとてもそんな事を言いそうにない男の口から出た言葉に、儂は思わず目を丸くする。


もしかしたら、彼にも自分と同じ様に、この澄んだ歌声が聞こえていたのかもしれない。


何だか優しい気持ちになれる、この歌が。


「失礼ですが、何処かへ行かれる途中ですかな?

宜しければ、お近くまでご案内しましょうか?」


「え?

・・私に言ってくださってるの?」


「ええ。

先程の遣り取りを耳にしてしまったもので。

勿論、ご迷惑でなければですが」


「ありがとう。

雑貨屋さんに行きたいのですが、途中で転んでしまって、方向が分らなくなっていましたの。

とても助かりますわ」


同じ店に行くことが分り、彼女と並んで、ゆっくり歩いて行く。


「あの、先程から気になっていたのですけれど、もしかして犬をお連れですか?」


「ええ。

犬はお嫌いでしたかな?

ご安心ください。

きちんと訓練しておりますから、人に危害を加えることはございません」


「まあ、やっぱりそうなのね。

全く吠えないから、最初は分らなかったわ。

犬は大好きです。

家でも飼っておりますの」


「おお、それは良かった」


「訓練済みとおっしゃってましたが、どのような訓練を?」


「貴族の方々の狩りに同行する、猟犬としての訓練です。

ですが、老いて捨てられたため、私が引き取り、今では人と共に暮らせるよう、色々と教え込んでいます」


「飼い犬を捨てるだなんて、酷い方がいるものね。

共に暮らせば、それはもう家族も同然でしょうに」


「そう言ってくださる方が、一人でも多くなるよう願っております」


「・・もし宜しかったら、お買い物の後、私の家にいらっしゃらない?

あなたとお話したい事ができたわ」


「暇な老人の身ですから、犬好きの方のお誘いは断りません」


「フフッ、今日は本当に良い日だわ。

いつもならあまり外に出ないのに、何故か今日だけは、一人で買い物に行かなくてはいけない気がしたの。

不思議ね」


買い物を済ませ、彼女の案内通りにその家までお連れすると、そこは大豪邸であった。


「大奥様!

・・良かった。

ご無事でしたのね。

お一人で出かけられるなんて、もうお止めください。

私共が旦那様に叱られてしまいます」


メイドの一人が彼女を見つけ、慌てて駆け寄って来る。


「ごめんなさいね。

今日はどうしてもそうしたい気分だったのよ。

お客様をお連れしたから、失礼のないように応接室にお通しして」


「かしこまりました」


この家、確かご領主様でさえその顔色を窺うと言われている、この国有数の大商人のものだったはず。


何だか雲行きが怪しくなってきたぞ、ジョン。



 「お話というのは、あなたにうちの犬を躾けて貰えないかということなの。

私の目は見えなくても、メイド達からあなたの飼い犬が本当に賢いことを聴きました。

人に吠えない。

許可なく部屋に入らない。

主人の側を離れない。

トイレや食事の仕方についても、恐らくきちんと訓練されているのでしょう。

今の私には、共に歩んでくれる犬が必要なの。

いつも側に居て、色々と助けてくれる存在がね。

・・メイドにさせれば良いとお思いでしょうけど、私だって偶には一人になりたい時もある。

誰にも監視されず・・言い方が悪かったわね、見守られることなく、愚痴や弱音を吐きたい時だってあるの。

自分でできる事なら、なるべく自分でやりたいの。

目が見えなくなった今だから、余計にそう感じるのかもしれないけれど、あなたのように、愛犬を側に置いて暮らせたら、幸せだなと思うのは本心よ。

編み物をしている時、私が欲しい色の毛玉を教えてくれる。

杖でいちいち確認しなくても、進む道が安全かどうかを知らせてくれる。

不安で眠れない夜、その頭を撫でるだけで安らげる。

私が最早見る事のできない世界の景色を、その感動を、私の代わりに伝えてくれる。

それって、凄く素敵じゃない?

・・考えていただけないかしら。

もし協力してくださったなら、この家の力を使って、私と同じ様に考える方々に、あなたが訓練した犬をお勧めするわ。

1匹、1軒と、その数が増加するにつれ、やがては犬を家族同様に扱う人々が増えていくでしょう。

それはあなたの夢に繋がる道ではなくて?」


ジョン、儂は今、ちゃんと起きているか?


もしかして、居眠りしてはおらんかの?


こんな夢のような話、本当にあるんかの?


ああ、神よ、感謝致します。


この老いぼれに、贖罪の機会を与えてくださったことに、心から。


「暇な老人の身ですから、犬好きの方のご依頼は断りません。

・・いいえ、お断りすることなんてできない。

精一杯やらせていただきます」


救えなかった教え子(犬)達の、懐かしい姿が脳裏に浮かぶ。


今度こそ、必ず・・。



 『お願い、誰か私の歌を聴いて』


町の広場で、私は今日も歌を歌っている。


小さな頃から、周囲に歌が上手だと褒められて育った。


村の祭りでは必ずと言って良いほどお声が掛かり、周囲の大人達に称賛されて私は有頂天だった。


生まれ持った声質と、人並以上には優れた容姿。


それに加えて、両親が特別に用意してくれた衣装を身に付けた私は、文字通り、祭りの華だった。


だが、そんな状況に次第に変化が起き始める。


私が13になる頃には、祭りにも呼んで貰えなくなった。


・・今はその理由が分っている。


私の知らない所で、両親は私の歌にお金を取っていた。


初めは善意で歌っていたのに、私の歌が評判になるにつれて、親が村人達に料金を請求していたのだ。


大きな村ではあったが、そこに娯楽は少なく、他の村に比べてほんの少し豊かなくらいでしかなかった私の故郷。


たわい無い子供の歌として喜ばれていた時とは違い、お金を取れば、それは商売になってしまう。


豊作の年ならまだしも、そうでない年の祭りや行事にまでお金や利便を要求すれば、当然の如く、彼らの心証を悪くする。


欲に支配された両親には、村人達の浮かべる表情が正確に理解できなかったらしい。


私もいけなかったのだ。


子供だから仕方がないというのは言い訳に過ぎない。


それまで一緒に遊んでいた友達が、一人、また一人と私から離れていく事に、もっと疑問を持つべきだった。


他の子より歌が上手だというだけなのに、知らず知らずに得意気な態度が表に現れていたのかもしれない。


14の時、村に居づらくなった両親と共にこの町に出て来て、ここで暮らし始めた。


私も酒場の女給として働いたが、生活は苦しく、流行り病に罹った父は呆気なくこの世を去り、母は私を置いて、他の男と何処かに行ってしまった。


残された私は、幸いにも酒場の女主人から気に入られ、そこに住み込みで働く傍ら、時折店で客の為に歌を歌った。


でも最近になって、女主人が私に客を取るように促してきた。


酒場である以上、夜には酔った男性達からそういう目で見られることは仕方がない。


彼女が私に親身になって手を差し伸べてくれたのは、初めからそれが目的だったのかもしれない。


けれど、私だって未だ夢を追う一人の乙女だ。


一夜限りの、誰とも知れない男性に身を任せるほど、落ちぶれてもいない。


その月の給金を貰うとさっさと店を辞め、安宿で食事代をも節約しながら、場所を見つけては歌を歌い続けた。


偶に、一人、二人と足を止め、銅貨や銀貨を投げてくれる人がいる。


今の私には本当に有難い。


歌を止めることなく小さなお辞儀をして、それに応える。


いつまでこんな暮らしができるか分らない。


病気になって、街角に立つことさえできなくなるかもしれない。


それまでに、どうか誰かの目に留まりますように。


私の歌を認めてくれる人に出会えますように。



 寒い。


今日はまた一段と冷える。


乾燥した空気が喉に入り込み、声にいつものような張りが出ない。


道行く人々の足取りも、心なしか忙しなく、流しの歌を聴いてくれるような状況ではなかった。


諦めて、今日は早々に広場を去る。


暗くなるにはもう少し時間が掛かるし、お金に余裕もないので、町中まちなかを散歩することにした。


気の向くままに歩いていると、やがて人家が疎らになっていき、畑との境目が見えてくる。


その一角に、孤児院を併設した教会があった。


「へえ、こんな所に教会があったのね」


何と無く興味があって、門の中に入り、そっとその扉を押してみる。


誰もいなかった。


がらんとした静かな室内で、中央にある神の像と、立派なステンドグラスだけが目を引く。


そう言えば、この町の領主は熱心な教徒だと聞いたことがある。


施設が立派に見えるのは、そのせいかもしれない。


歩き疲れて、お腹も空いていた私は、外より暖かかったせいもあり、その長椅子に腰を下ろすと直ぐに寝てしまった。



 歌が聞こえる。


とても奇麗で、澄んだ歌声。


恐らく今、私は夢の中で微睡まどろんでいるのだろう。


誰が歌っているのか分らないのに、その声と、それが映し出す景色だけが鮮明に心に響いてくる。


私はきっと泣いていると思う。


さっきから、心の震えが止まらない。


歌ってこういうものなんだ。


私がこれまで歌ってきたものは、一体何だったの?


この歌に最も近いと思われるものを歌えたのは、きっと歌を歌い始めた頃かしらね。


余計な事など何も考えず、上手く歌おうと変に気張ったりもせず、心のままに、自分の世界を歌い上げていたあの頃。


表現力という意味では、この歌の足下にも及ばないけれど、歌を歌うという点では、恐らくそれが正解なんだわ。



 座っていたはずなのに、いつの間にか横になっている。


随分疲れていたのね。


身体も、そして心も。


人に認めて貰いたい。


振り向いて欲しい。


私を見てください。


これまでの私は、そんな事ばかりを考えていた。


聴いて貰う相手のことより、聴かせる自分のことばかり考えて、歌を歌っていた。


・・馬鹿よね。


これでは人が離れていくのは当たり前だわ。


だってその相手のことを何も思い遣っていないんだもの。


ゆっくりと身を起こす。


窓から見える外の景色が、夜のそれに移り変わっている。


室内と雖も、冬の寒気が容赦なく私の身体を攻めてくる。


もう遅いし、今晩はここでお世話になってしまおうか。


教会だから、きっと許してくれるよね。



 『何だか寝付けない』


いつもならそんな事はないはずなのに、今晩はどうしてか目が冴える。


それに、妙な胸騒ぎがする。


聖堂に行かなくては。


先程から、そんな強迫観念に襲われている。


教会の司祭であり、孤児院の院長でもある彼女は、仕方なくベッドから出て、身繕みづくろいを始めた。



 じっとしていると寒いだけだし、歌でも歌おうか。


今宵一晩の宿をお借りする神様に、せめてものお礼をしなくては。


神様の像がある祭壇の近くまで歩いて行くと、ゆっくりと深呼吸する。


先程見た夢での反省点を思い出す。


今はただ神様の為に、(大事な事に気付かせてくれた)感謝とお礼の意を捧げよう。


目を閉じて、心のままに歌い出した。



 生きていれば、色々な事がある。


嬉しい事、悲しい事、懐かしい事、決して忘れられない事。


その1つ1つにどのような意味を持たせるのかは、全て自分次第。


共にそれを経験した相手がどう思おうと、何を考えようと、結局は己が納得した位置にそれは収まる。


周囲の顔色だけを窺って、その反応に一喜一憂し、自己の感情を押し込める暮らしは息苦しいものでしかない。


自然に多彩な景色が存在するように、人にだって実に様々な人が居る。


その全てに共感なんてできないし、絶対に受け入れられない人だって存在する。


歌を聴いて貰いたいため、皆に良い顔をしようとした私は、自分で自分の心を否定しようとしていたのだ。


その一方で、誰が何と言おうと譲れないものがある。


これだけは守りたいと願う事がある。


心を殺しながら、それを守り続けるのにはどうしても無理がある。


そのゆがみが、ひずみが、私の歌に悪影響を及ぼしていたのだろう。


我ながら、これまでの自分の歌は、その精彩を欠いていたとつくづく実感する。


だってほら、心を解放した今は、こんなにも自由だもの。


好きな物を好きと言い、楽しいと感じる事をとことん喜べる。


朝の陽ざしに、その日の予感を得る。


昼のざわめきで、今の自分を客観視できる。


夜の帳に、今日という日を懐かしむ。


身体を吹き抜ける風が心地良い。


身を打つ雨が、自省を促す。


手をかざす炎が、心に溜まった澱まで消してくれる。


踏みしめる大地が、己の生を実感させる。


病をその一部としつつ、それでも笑顔を失わない人に、心からの称賛を。


人の痛みだけでなく、生き物全てに慈愛を注げる方に尊敬の念を。


神様がお創りになったこの世界は、艱難辛苦だけでなく、その裏にひっそりと咲く、愛と希望という名の花で満ちている。


耐え難い苦しみ、言葉に表せない悲しみを背負わされた人の心に、それを乗り越え、若しくはそれを活かして生きるための種を授けている。


ああ、願わくば、より多くの人が、その事に気付きますように。


すさんだ心、怒りと憎しみに支配された者に、自己を見つめるための曇りなきまなこを。


『どうかいつまでも、人から笑顔が失われませんように』



 歌を歌って涙を流した記憶はない。


これが初めての経験だろう。


夢中で歌っていたから、その事にすら気付かなかった。


不思議な事に、今歌い終えた歌は、私の知らなかったものである。


神様の像の前に立った時、自然と詞とメロディーが浮かんで来た。


そしてその歌は、今も私の中でしっかりと息衝いきづいている。


「素晴らしい歌でした。

まるで神様が乗り移られたようでしたよ?」


いきなり後ろから声をかけられて、ビクッとする。


「無断で立ち入って済みません。

でもどうか、今夜だけはここに留まる事をお許しください。

この時間では、いつもの宿が空いているか分りませんし、夜道を女一人で歩くのは不安ですので・・」


振り向くと、年配の女性が蝋燭の灯りを伴って、入り口に立っていた。


「この町の方ではないのですか?」


「約2年前、両親と共に他の村からここに移ってきたんです。

ですが、今はその両親も存在せず、安宿暮らしの身なんです」


「ここに来られたという事は、信者の方でしょうか?」


「・・正直に言うと、そうではありません。

ですが、今は神様の存在を心から信じております。

私に、あんな素敵な歌を授けてくださいましたから」


「・・うちの教会は、ご覧の通り、孤児院も併設しております。

これまでは、そこの子供達には寝る前に本を読んで聞かせておりましたが、生憎とその者が最近老齢で辞めてしまいましてね。

ちょうど代わりの者を探していたのです。

如何でしょう?

もし宜しかったら、ここで働いてみませんか?

あなたのその歌声で、親のいない子供達を癒していただけると助かります」


「私なんかで良いのですか?」


「そういう言い方はいけません。

貴女が良いのです。

今夜のこの出会いは、きっと神様の思し召しです。

うちにいらしていただけませんか?」


「はい、是非!」


お腹に力が入ったせいで、眠っていた腹の虫が鳴き出してしまう。


「ここは寒いです。

先ずは家の中に入りましょう。

序でに何かお出ししますね。

こんな時間ですから、残り物しかお出しできませんが」


柔らかく微笑む彼女を見て、私は思う。


ほら、世界はこんなにも美しい。



 「・・時々だけど、極偶ごくたまにだけど、私は思うの。

人間も捨てたものじゃないって」


ディムニーサがポツリとそう漏らす。


「同感だな。

私もそう思っていた」


ヴェニトリアがそれに同意する。


「お父様がお創りになった存在なのだ。

無駄な存在ものであるはずがなかろう」


レテルディアが、無表情ではあるが、若干の笑みを含めて言い捨てる。


「そんな事より、やはりお父様の魔力を感じたわよね?

一体どういう事かしら?」


メルメールが首を傾げる。


「さあ?

どうせ考えても分りはしないわ。

お父様のなさる事は、わたくし達には想像もつかないもの」


エメワールが、玉座の上で眠る和也の顔を、愛おし気に見遣る。


「皆さん、きちんとジョアンナさんにお礼を言いましょうね。

ご無理を言って、歌っていただいたのですから」


ファリーフラが他の五人に注意する。


「・・今はそれどころではないみたいよ?」


そう口にするメルメールの視線の先で、歌い終えたジョアンナは、静かに涙を流していた。


「何で泣いてるの?」


「さあ?

・・何故でしょう?」


ディムニーサとファリーフラが、困惑気味に言葉を紡ぐ。


和也によってジョアンナに授けられた統治魔法は、それを聞く者の心に、其々違った風景を映し出す。


生まれも育ちも異なる者達なのだから、それは当たり前だ。


そして歌い手であるジョアンナには、負の要素を除き、その感情、その想いに比例した光景が反映される。


和也を想って歌えば歌うほど、その気持ちが何倍にも強くなって自身に襲い掛かる。


4000年という、途方もなく長い眠りに就いた主に向ける愛情や恋慕。


普段は何とか我慢し、考えずにいる事まで心から溢れ出し、眷族として鍛えられた彼女の精神を以てしても、抑えが効かなくなる。


一目で惹かれ、恋心を隠しながら接していた日々。


部下として招かれ、彼の傍で仕えた時間。


その優しさに磨かれ、親愛を受けて育てられ、愛の籠った指先でれられた彼女の心は、統治魔法によっていとも容易く限界を超えた。


訓練によって、後に魔法を使用してもその心をある程度は制御できるようになるが、それには長い時間を必要とした。


因みに、その影響で、魔法を試す度に何処かの世界が数日の間平穏になるのだが、それはここでは語らないでおく。


「ごめんなさい。

色々と思い出させてしまったのね」


エメワールがジョアンナをいたわる。


「・・嬉しかったのです」


「嬉しかった?」


「ええ。

歌を歌っている間、私はずっとご主人様と共に居りました。

ご主人様しか見えなかったのです。

・・私のこの胸の中には、ご主人様への想いと、その記憶に満ちた1冊の本があります。

そっとその表紙を捲れば、どのページにもご主人様との思い出が、そのお姿が、紙面一杯に映し出されます。

まだ人間であった頃、私の生きる意味は、全てご主人様にありました。

何かに迷った時、躓いた時、この本を開くことで、正しい道を歩めた気がします。

眷族化した今は、その力の源として、日々私を動かしています。

ご主人様に相応しいメイド。

ご主人様がお喜びになる存在。

ご主人様の愛情に値する女性。

私は、私の全てを懸けて、そうありたいと願い、励んでおります。

歌を歌っている間、魔法によって増幅されたこれらの想いが、何度も私に尋ねてきました。

『貴女の想いはその程度なの?

もっと上に行けるのでは?

自己満足に過ぎないんじゃないの?』

私は嬉しかった。

まだ先がある。

もっと上を目指せる。

さらに励めるんですから。

そう考えたら、何だか涙が止まらなくて・・」


それを聞いた六人が、暫く絶句する。


この数十年の、ここでの彼女の姿を知っていれば当然だろう。


ジョアンナは、時の概念が希薄な自分達とは違うのだ。


「・・お前は確かに、お父様に相応しいメイドだ。

それは私も認めよう」


レテルディアが口を開く。


「お前が側に居れば、お父様はきっとお喜びになるだろう。

それには私も同意する」


ヴェニトリアが苦笑交じりにそう口にする。


「お前はお父様の・・何だか腹立つ。

ケーキが食べたい。

苺の載ったやつ(漫画の影響)」


ディムニーサが途中まで言いかけて、いきなり話題を変えてくる。


「あら、良いわね。

わたくしは紅茶が飲みたいわ。

お父様がお好きな、例の銘柄でね」


「かしこまりました」


「皆さんとお話するのは、随分久し振りじゃないですか?

其々のお仕事具合はどうなってます?」


「わたくしは魔獣界に居ることの方が多いわね。

あそこの子達を眺めているだけで、結構癒されるの」


「私はこの間、国を1つ潰してやった。

お父様への感謝が足りないから」


「それは私もだ。

お父様が齎す恵みに無自覚な存在は要らない」


「ちょっと、やり過ぎは駄目ですよ?

先ずは(自然現象で)警告を与えてからにしてくださいね?

そういう連中は、お父様を敬う者達の、ストレス解消に使えば良いのです」


フフッ、お話の内容はともかく、やはり皆さん、ご主人様の娘さんなんですね。


彼の前では、とても精霊王の方々だとは思えませんもの。


まるで人間の少女のように、はしゃいでおられます。


お茶とケーキのご準備のため、厨房へと足を運びながら、私はそんな事を考える。


そういえば、そろそろ有紗さんの星では、例のイベントが始まる頃ですね。


『あなたなら、神様に対するたった1つのお願いに、一体どんな言葉を紡ぎますか?

その願い、叶うと良いですね』

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